第38話 神辺美玖は、バスケットボールを―――

 朝、早朝、日が出てすぐ。


 暁ってやつはどうしてこう、清々しいのだろうか。


 半分くらいは、茂る草木のおかげかもしれないけれど。


 日課のジョギングは近頃、公園内を周回するのが定番となっている。一か月くらいかな。毎朝、雨でも降らない限りはこうして、まだ温まる前の空気を感じながら適度にジョグってる。


 来たか。というのも、ここ最近のお決まり。


 勝手に周回のスタート地点と定めているベンチの脇の芝生の上、屈伸する人影がある。


 その人がコース上に踏み入ってきたのは、俺がそこを通るほんの五秒前で、そして走り出すのは、同時。俺は走りっぱなしなだけだけど。


 この並走がはじまったのは、俺がこの公園を利用し始めて一週間経ったくらいだったか。最初はたぶん、ほんとに偶然。たまたまタイミングが被っただけのことで、次の日は、どうだろうか、俺が合わせた気もするし、合わせられた気もする。


 なにはともあれ、息が合ったのはたしかだ。だからこうして一周、少しだけはペースを上げて抜きつ抜かれつしている。


 二週目はない。先に走り始めていた俺が速度を緩めるから。


「元気なじいさんだよほんと」


 さっさと遠くなる背中には、いまだ活力が健在だった。



 あれから、思っていたほど俺たちの何もかもが変わらなかった。


 俺と清川はまた、くだらない勝負をしたりなんかしているし、古賀さんとはすれ違う時に会釈し合う程度のもの。


 御堂さんと必要以上に話すこともなければ、平田と杉谷と昼飯を食べに行くのも変わりない。


 神辺さんは少し変わった。以前より笑うようになった。別に今までだってクラスの女子の中心の一人として笑顔を振りまいていたけど、気のせいかなってくらいには、少しだけ晴れ晴れとした顔をするようになった、ような気がする。


 あとはそう、夏服への移行がはじまったから、ほとんどというか、今日なんかは全員、短い袖から腕を見せている。


 心なしか、女子のスカートの裾も上がった。


「いいね。夏」


「どこ見て言ってんだよ」


 そうそう。近く変わるものとして数日以内に、席替えをするらしい。


「生足は魅惑でマーメイドなんだぞ」


「俺らの親世代だろそりゃ」


 という清川もわかっているんだから、いいんだよ。


 こんな会話もあるいは、いや、間違いなく少なくなるのだろう。それを残念に思う。


「なんだ?」


「なんでもね」


 夏がはじまろうとしている。



 昼休みの後半って、なんだかんだと平田、杉谷とは過ごさないことも多い。


 食事を摂るのは誰しも共通だとして、その後には各々に都合があったりなかったり。


 六月最初の月曜日、今日で言えば、俺の用事だとか。


「なんかちょっと、久しぶりだよね……二人で話すの」


 神辺さんはいくらか気恥ずかしそうだ。そうというか、まず間違いなく平常ではないのだろう。


「一週間ぶりくらい……ちょうど一週間だ。そんな長くはないし、別に普通に、話してただろ」


「そっ……か。そっか。そんなもんか」


 球技大会の前日、今と同じ体育館で、おそらくは一つ道を選ばなかったあの日から、まだたったの一週間だ。


 その間、会話一つ交わさなかったなどという事実もない。普通に挨拶して、普通に雑談して、それらすべて、俺でも神辺さんでもない他の誰かと共にというだけで。つまりそれが、一番重要なのかもしれないけれど。


「ありがとね」


「あぁ」


 神辺さんは制服で、俺も制服だ。球技大会はもう、終わった。


 ありがとう、も。受け取る行為も。これが最後。


「あたし……『バスケ』、頑張るから。ちゃんと。……それだけ。今はそれだけ、伝えたかったんだ」


「あぁ」


 神辺さんは今、部内できっちり下っ端状態だという。そう清川が言っていた。


 それは当然で、学年が一番下というのもあるし、入部が極端に遅かったというのもあるし、ブランクというのもあるだろう。神辺さんがバスケから一旦離れたのがいつかは知るところではないが、四月五月だけの停滞ということもあるまい。


 きっともっと前に、その手はボールに触れなくなっていたのだろうと思う。


 それを取り戻すのは神辺さんであって、バスケ部ではない。


「冬……に、レギュラー……ベンチ入りだって、勝ち取れるかはわからないけど……そしたら……見に来てね、大会。見せてあげる、あたしを。魅せてみせる、木村を」


「あぁ。その時には必ず見に行く」


 夏はもうはじまる。神辺さんは間に合わない。間に合わせられるほど、ぬるい部じゃない。そうであってはいけない。


 だから冬にと、そう約束を交わす。


「にしても、くく、けっこう恥ずかしい台詞吐くもんだな」


「な!? あぁ、ちょ、なんでそういうこと言うかな!? それ……それ木村が言えたことじゃないじゃん! 木村もしょっちゅう言ってるでしょ、恥ずかしい台詞!」


「身に覚えがねぇなぁ」


 もちろんある。こうしている楽しさが羞恥を上回っているだけのことだ。


「く、うぅ……木村もいつか泣かす、絶対泣かす」


 それはまた俺の知らない神辺さんで、俺以外に誰を泣かす気なのか。そもそもそんなに激しい気性も持っていたんだな。


 冷蔵庫に仕舞ったままのケーキは、冬まではもたない。

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