第17話 神辺美玖の致命———
物心がついた頃、というのが、一般にどのくらいの時期からかは知らないし、自分についてだってはっきりと何歳のいつ頃からなんて言い切ることは出来ない。そんな鮮明に覚えていない。
ただ、あたしが思い出せる一番古い記憶は。
両親と一緒に、妹の美紀の寝顔を見ている記憶だ。
どんな風に見ていたのかとか、どんなお洋服着てたとか、場所がどこだったとか、そういうことは全然覚えていないけれど、ママとパパとあたし、三人で美紀を囲むようにして、その安眠を眺めていたのだという事実だけは、はっきりと覚えている。
幸せな記憶だった。
穏やかで、安らかで、微睡む様な幸福感と共にある、そういう幸せの記憶だった。
それに疑問を抱いたのは、小学校の中学年。
テストで九十何点だか、とにかく、百点じゃない点数をとって、それをあたしはいつもみたいに、ママに自慢したんだ。褒めて、って。頭を撫でて、って。
それは友達と遊んでから帰ったすぐのことで、あたしはたしか、テーブルに手をついてぴょんぴょんと跳びはねていた。
なにも疑っていなかったし、なにも恐れていなかった。少ししたら触れる手のひらの温もりは必ずそうなる以外になく、ママが笑ってくれることは決まりきったことのはずだった。
「美紀は百点満点なのにねぇ」
そのあとのことはよく覚えていない。頭に温かい何かが触れた気はする。ママの目も口も、表情の全て、笑みを浮かべていたと思う。
その時から「あれ?」があたしを支配した。
あれ? なんで美紀だけがママやパパと一緒にお風呂に入るんだっけ?
あれ? なんでママとパパの真ん中は美紀で、あたしは一人で歩いてるんだっけ?
あれ? なんで美紀の誕生日にあたしも一緒に「ハッピーバースデー」を聞いてるんだっけ? あ、三日違いの誕生日だからか。……あれ?
お手伝いは同じくらいする。褒められるのは美紀。
あたしはピンクが好き。美紀もピンクが好き。「お姉ちゃんなんだから」。
あれ? あれ? あれ?
一か月もした頃、ママが言った。
「美玖、どうしたの?」
あたしは何を言っていいかわからなくって、何を言ってもいけない気がして、でも黙っていつも通りになんて出来なくて、出来ていないから「どうしたの?」なんて訊かれてしまっているわけで。
「なんでもない」
と言いながら泣き出してしまったら。
「あぁ美玖、泣かないの。美紀が起きちゃうでしょ」
って。
それがなにがしかの決定的な一言だったと思う。
お昼寝する美紀が、美紀を、その寝顔をはじめて。
いらない。
と、思ったあたしは、そしてやっといつも通りが出来るようになった。
「なんでもないよママ! 遊びに行ってくる!」
それは一番古い、逃避の記憶。
○
「なに言ってんだコイツって思ってるでしょ。なんだ急に子供の頃のこと話しだしてって」
バスケとか、部活とか、そういう話じゃないのかって、木村はきっと困惑しているはずだ。
ううん、『神辺姉妹の姉の方』だから、そう言ったのは木村だから、美紀のことを話すのは少しくらい理解できているのかな?
それにしたって、小学生の頃の嫌な思い出なんて聞かされて、ほら、困り果てて首なんて摩ってる。
でも、木村には悪いけど、これはあたしがあたしの心を整えるために必要だから。
「いいよ。もうちょっと聞いてて」
○
美紀を『いらない』と思ってしまったあたしだけど、そんなあたしでもわかることもあった。
『いらない』のはあたしの方。
ちゃんと宿題してちゃんとお勉強して、たまに百点をとるあたしと、百点以外とることがない美紀。
ちょっと(ちょっとだけね?)ガサツなところがあって荒っぽいあたしと、自分を主張しすぎないけど明るくて社交的で誰とでも友達になっちゃう美紀。
男の子の中に混じって遊んで擦り傷こさえるあたしと、綺麗な服をちゃんと大事に綺麗なままに出来る美紀。
習い事の先生によく頑張ってると褒められるあたしと、素晴らしい才能ですと称えられる美紀。
女の子らしくて可愛いのは美紀。ママの癖を知っているのは美紀。パパの好きなものを知っているのは美紀。
神辺さんとこ、神辺さんとこの姉妹ちゃん、に『いらない』のは、どう考えたってあたしの方だった。
でもそれで別に、美紀のことを嫌いになったわけじゃない。
これはあたしがあたしに一番誇らしく感じていることだけど。
あたしは、美紀が大好き。
曇りなく大好きではないけれど、目に入れても痛くないくらい大好き。
あたしは、お姉ちゃんだ。
神辺美玖は神辺美紀の、お姉ちゃんなんだ。
今だって変わらないその確信だけは揺ぎ無く、たぶんもう、その一本だけが、あたしを支えている。
中学に一年間、学校生活に心痛がなかったのもよかった。それであたしは少し、落ち着いた。
○
「ま、すぐ一年後、美紀が入学してくるんだけどね。……当たり前のことなのに、入学式の一週間前にうちで美紀が制服着てるとこ見るまで、考えもしなかったなぁ」
木村の『大丈夫』を信じていた事といい、あたしは考えたくないことを考えないタイプらしい。駄目だね、そんなの。
「バスケは……バスケ部は、神辺さんが誘ったのか?」
「ううん。美紀がね、「お姉ちゃんと同じ部活がいい!」って。あは、困っちゃうよね。可愛くって、頼ってくれて、慕ってくれて……ほんと、困っちゃうよ。ねぇ、木村の妹ちゃんも、妹ちゃん、名前なんて言うの?」
「和香だ。
「わ、かわいい名前だね。……いま、しまったって感じの顔したね」
「いや……」
してない、わけないもんね。訝しむように眉を寄せてそれから。しまったって感じの。
言葉が見つからないのだろう木村、て、そんな顔ばかりさせてるね。
知らない。あたしの中に踏み込んできた自業自得だ。もっと困っちゃえばいい。
「気にしてたこともある。なんで妹が
普通(だと思う)は姉の方が五十音の先のはずで、友達はみんなそうだったし、これも一つの『あれ?』だ。
生まれた瞬間から、あたしは美紀の下位互換と決まっていたのかもしれない。というのは……さすがに心が耐え切れなくって、考えないようにしている。そういうこともあるよね、と思っている、ということにして、目を逸らしている。
なにが、気にしてたこともある、だ。
……どうしよう手が震える。どうしよう発しようとした言葉が意味のない「あ」に変わる。
どうしよう。
あたしは、だから、話を。
大丈夫だから、話をしないといけない。木村に話を。
そう決めたから、はじめてだから、だから、話を。
どうしよう、どう話せばいいだろう。
このあと、この先、中学に美紀が上がってきて、バスケ部に美紀が入ってきてから。
どうしよう。
楽しくて、期待され、のめり込み、誰よりうまくなって。
それを木村は、褒めてくれるだろうか、頑張ったんだなと頭を撫でてくれるだろうか。
一年後に、エースと呼ばれていたのが、入部して間もない美紀だとして、あたしの一年間、三年間を、これまでを、認めてくれるだろうか。
存在を―――。
頑張ってるけど、は、もういやだ。
仲間に呼ばれるのが『美玖』から『美紀の姉』に変わってしまうのが恐ろしい。
あたしの最後の大会を、美紀の経験になった、なんて言わないで。
「神辺さん? 神辺さん、大丈夫か?」
「あ、ご、ごめん。えと……どこまで話したっけ」
「どこまでっていうと……名前のことはその、気にしてないって言って、それから、中学に妹さんが入学してきて、それでバスケ部にも入ったってとこまでだな」
「あぁ、あー、うん、うん。そっか。そうだよね。あはは。えと、だから、美紀は……そう! バスケもすぐうまくなって! 一年からエースなんて呼ばれてたのはきっとうちの学校くらいのものだよ! すごいよね!」
あ、違う。違くて……。
「勉強もずっと学年一位だし! しかも中学生になってからはもっとずっと可愛いというか、美人になったから、あたしの学年の男共だって鼻の下伸ばしちゃってね。キヨだって」
あ。
「き、きよ、かわね。清川だって、えーと、えと、あれ? 違くて。あれ、ごめん。こんな話じゃなくって」
おかしい。
もっとちゃんと話せてたはずだ。もっとちゃんと話せるはずだ。
テキトーに聞かせるための、嘘じゃないけど本心じゃないような、そんな話じゃなくって。
テキトーに笑って、テキトーに美紀を持ち上げる、そういう『美紀の姉』としてじゃなくって。
テキトーにしちゃいけないのに、あたしは。
「とにかくその、自慢の妹なんだよね」
テキトーなことしか言えなくなってしまった。
木村はどう考えているだろうと思って、顔を見る。
見て、しまった。
あぁ……あたしはもう……だめみたい。
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