第18話 ———木村太平は間違った

 安心していた。


 体育館の独特な静寂に、神辺さんの落ち着き払った語りを聞きながら俺はある種、上の空にも似た心境だった。


 話を聞いて、俺が何か言えるかはわからないが、それがあってもなくても、神辺さんなら一つ、一歩踏み出すに足る、切っ掛けになったはずだと。


 終わってもいない話のその最中に、俺はもう未来ばかり見てしまっていた。


 そうして俺は、名前に関する疑問も、話題の一つくらいにしか受け止めなかったのだ。


「どうしよう」


 だからその一言にも、体育館の奥のステージを何となく見ているだけの目を、動かすことはしなかった。


 姉妹、年の近い姉妹、同じ部活の姉妹。


 それがやっぱり、俺にはわからない部分だな。


 などと、随分まぁ、暢気に考えに耽っていたもんだ。


「あたし……あ、話、話を……褒めてくれる? ……いやだ」


 それらは先程までの声音とは明らかに異なっていた。異質。なにより支離滅裂になりかけの、意味の通らないような言葉の羅列。


 訝しんで声を掛ける。


 それで神辺さんはまた話をはじめた。はじめたけれど。


 ただ口から音を吐き出すだけの神辺さんに、俺はようやく、もう駄目になってしまったことを悟った。


 もう、いまこの空間に、神辺さんの本音が響くことはないのだと。


 そして、悟ったことを、悟らせてはいけなかったのに、俺は。


 俺はきっと、その感情を顔に出してしまったのだ。


 失望という、神辺さんの心を殺す一矢を。


 神辺さんが立ち上がろうと、勢い良くと形容すべき動作の、一瞬の間隙になんとか腕を掴むことだけはうまくいった。


 かろうじて手の届くところで二人、立ったまま向かい合う。


 ただ、それにどれほどの意味があるのか。時間稼ぎが関の山だと、徐々に振り払おうとする力が強くなる神辺さんの腕に理解する。


「神辺さん、ごめん。嫌なこと話させてごめん。ありがとう、話してくれて。ありがとう」


 それきり、他に言うべき言葉を見つけられないから沈黙が二人を包む。


 静寂ばかりがこの、広い体育館を満たしていく。


 俺が神辺さんを見られないように、神辺さんも俺を見る事が出来ないのだろう。気配だけでも、俺たちがこんなに近い距離で避け合っていることはわかった。


 腕を掴んだまま目は逸らして動かない奇妙な、歪な光景が、それでもいつか終わりはくる。


「放して」


 そこに何も感情がないからと、限界を言い訳にして俺は掴んでいた腕を放す。たぶん、これは、神辺さんの手を、放したということ。


 一つ、未来を手放すということ。


 それは別の形で、別の機会には訪れるかもしれない未来。でも、今この瞬間には、たしかにその未来は、俺が手を放すと同時に消えたのだと、きっと神辺さんも理解した。


「先に戻るね。ごめん、ありがと……ばいばい」


 体育館を出ていく背中に呟いた「ごめん」は、二つ重なった気がした。


 緊張と後悔と不安で心臓が軋むのを感じて、大きく息を吐き出す。


 そうすれば勝手に、息を吸う。吐いた分だけ吸い込んで、数度繰り返す。何も考えはしない。


 予鈴に否応なしの時間の進みを突き付けられ、緩慢に後始末をしていく。


 バスケボールは軽く拭いて籠に戻す。戸締りは、特に弄っていないことを改めて指差し確認する。入口玄関は施錠なしだ。


「あぁ」


 ケーキ。教室に持ち帰って誰かの目に、神辺さんの目に触れるのは避けたい。部室に一時保管するとして立ち寄る余裕は……あろうがなかろうが他に案もないか。


 机も元あった位置に戻し、最後に『利用不可』の看板はひとまず脇にどけて見えなくしておいた。放課後、体育館のステージ側にある用具収納に仕舞っておかないと。


「こんなもんか!」


 手を打つ。空元気だなんて、自分でわかってるに決まっていて、それでもそうせざるを得ないものだ。


 学生、高校生だから、授業に出ざるを得ないもの。


 重すぎる気分を殴りつける太ももの痛みに誤魔化して教室に辿り着く。


 よかった。と。


 表情は冴えなくとも、誰と会話をするでもなくとも、そこにさっきと同じ後ろ姿があったことだけで俺は、よかったと、思ってしまう。


 そうして、知っているのに声を掛けてはこない清川に少しばかりの感謝を覚え、午後の授業がはじまった。

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