第16話 神辺美玖の決心

 なんで、と問われると。


 答えは簡単なもので。


 俺は。


「俺は、神辺さんに―――」


 体育館に思い入れはない。見上げる天井に、並ぶ窓に扉に、防音加工された壁に、一面の茶色の床に。


 俺は思い入れがない。


 この箱は俺の居場所ではなく、ただ、隣にいる人にとってはそうではないはずなのだ。


「———ムカついてる」



 木村のその言葉を、あたしはすぐに理解することが出来なかった。


 木村が何を言ったのか、あたしが何を言われたのかわからず、呆けた思いで隣にいる人の横顔を眺めた。


「心底、腹が立ってんだ」


「なんで……」


 それはただ零れてしまっただけの言葉だった。あたしの口から、勝手に零れて、木村の目を呼んでしまう。


「やりたいことやれるのに、やらないおまえに、ムカついてる」


「そん、なのっ。木村の勝手な考え、押し付けないでよ」


「俺だけじゃない。……何回も言われただろ、なんでどうしてって、勿体ないって」


「……やめて。そんな……みんなとおんなじこと言うのは……やめて」


 木村から、百回も聞いたような他人の言葉を、聞かせないで。


「俺は、俺も、他の人たちと変わんねぇよ。勝手に期待してる、好き勝手に考えてる。むしろ俺が一等、わがまま放題に神辺さんを振り回してるかもな」


「うん……うん」


「まぁ、それで腹立ててるようなのは、俺だけなのかもしれないけど。だらかあの、別に他の人が神辺さんにムカついてるとかは、ないと思うぞ?」


 それでいい。それがいい。


 みんな『勿体ない』って言う。木村は『ムカついてる』って言う。


 そっちの方がいい。ムカつかれてる方が、腹を立てられてる方が。『俺がムカついてるんだ』って、そっちの方がずっといい。


 心乱れる度にふらっと現れて。どうでもいいようなこと話して、よくわかんないこと言って、少しくらいは自分のこと教えてくれたり、動けないあたしを揺らしてくれて。


 もっと心乱してくる。


 そういう人であって欲しい。


「うん」


「……そういうことだから、結局、自分のためなんだよ。俺が勝手にムカついてるから、どうにか出来ないかなんて動いたりして……構うとかじゃなく、俺自身のためにやってるんだ」


 それでいいから。



 早めに集まっておいてよかった。


 昼休みは長いけど、たっぷりと長いわけでもない。言葉を選ぶにも、言葉を尽くすにも、あまりに短い。


「それでムカついてる理由というか……前に話した、怪我のことだけど、あれな、実はあんま大丈夫じゃないこともあるんだ」


 神辺さんはまた「うん」と頷くから、いまはたぶんまだ俺のターン。こちらの言いたい事、言うべき事をさっさと伝えてしまおう。


 まったき、本題ではないのだし。


「俺も昔、部活、陸上部で、専門は走幅跳だったんだけど、それはもう出来なくなっちまった。てのはなんとなくわかってるか」


 今は。というのは、今は、置いておこう。不確実な未来を口にすれば、鬼が笑う。


 神辺さんは頷くから、続けよう。


「かなり頑張ってた。すげー楽しかった。少しくらいは、期待もされてた。全部、終わっちゃったけどな」


 わかるだろ? 「だから」の先を。


「やりたいことやれる神辺さんが羨ましい。やりたいことやれるのにやらない神辺さんに腹が立つ。そういう、簡単な話なんだよなぁ」


 それだけの、クソほど身勝手な話。



 意外だった。走り幅跳びというのが。


 木村は、手を抜くことは多くても、はっきりとスポーツが、運動が出来る人だったから。


 何かやっていたのだろうとは思っていた。それが陸上競技というのは、少し意外だけど、だから納得は出来る。


 そしてきっと、その得心はあの日、木村の昔のことにほんの少し触れたあの日から、考えないようにしていたことなのだろう。無意識に。


 ちょっと考えればわかるのに、あたしは今この瞬間まで、木村の『大丈夫』を信じ切っていた。いや、疑うなどという考えが全くなかったのだ。


 好きな事を辞めようと藻掻いているあたしは、だからどんな理由にしろ、なんにせよ、辞める事は大丈夫なことなのだと、そう、信じていたかったのかもしれない。


 自分の浅慮に嫌気が差すと同時、言ってくれればよかったのにと唇を尖らせ、結局、そういう踏み込めないあたし自身の情けなさに視界が霞みそうになる。


「そっか……ごめん」


「謝ることではないけどな、全然。全部俺のわがままだ。こんな機会だから言ったけど、打ち明けるべきじゃないのもわかってる。いいぞ、そんなの知らないってテキトーに突っ返してくれて」


 手元のボールを二度三度と真上に投げる木村に、ほんとにテキトーなことを返せばきっと受け止めて、そしてあっさりと去って行ってしまう気がする。


「あたしは……バスケやるの……続けるの……こわい」


 ちゃんと話してみようと思う。


 今まで誰にも、一度も話したことのないこと。本当のこと。すべてを。


 テキトーに返せば去ってしまうはずのあなただから、テキトーじゃないことにはきっと―――。

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