第8話 君去りて後 SIDE:紗絵
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
第2話「エスケープ」で
部屋から逃げだした拓哉を追いかけてから
あきらめて紗絵が部屋に戻ってきたシーンです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
たっくんがいなくなってしまった。
追いかけたけど追いつけなかった。私が動けなくなるのを見定めてから、ゆっくりと歩き始めた姿を見て「あぁ、ダメなんだな」ってはっきりわかった。
困ったときに必ず助けてくれた人。嬉しい時に私を包み込んで、もっと嬉しくさせてくれた人。
その人は、もう、私の人生から永遠にいなくなってしまったんだ。あの後ろ姿を見た時、胸に刻み込まれてしまった。
私のこれからの人生、そのものだよね。たっくんは二度と一緒に歩いてくれないってことを思い知ってしまった。
どうやってお部屋に戻ったのかも覚えてない。部屋の真ん中で膝を抱えて体育座り。心も身体も空っぽになってしまった感覚だった。
「バレてたんだ。それも、ずっと前からだよね」
11月の終わり頃から、抱いてもらえないのは気になってた。確かに忙しくはなったけど、何となく避けられているのはわかった。それが怖くて、余計に、優しくしてくれる人のところに行ってしまった。そんなのウソの優しさだとわかっていたのに……
たっくんがくれたメモは、昨夜、塩崎先輩と泊まったホテルの名前入りの紙だ。
それは、私の行動が100パーセントバレていたと言うこと。涙も出て来ない。だって泣く資格なんて無いんだもん。
何度も何度もメモを目で追ってる。
「来てたんだ」
今朝のビュッフェもどこかから見てたんだよね。そんなことにも気付かずに、私はたっくんにしてたみたいに、塩崎先輩のお皿に取り分けたりしてた。
他の人から見たら、イチャイチャのカップルにしか見えなかったはずだ。
婚約者の、そんな姿を見たら……
ううん。ホテルに泊まった段階で言い訳なんて無理だよね。最低だ、私。
たっくんからのメモは別れの手紙でもあった。
『君との2年間は最高に幸せでした。
一生涯の宝物となる時間を
最後の最後で地獄に落としてくれて
どうもありがとう。
お礼に、君と塩崎諒氏にも
地獄を用意しておいたのでお楽しみに。
P.S. 婚約解消について、
ご両親へ連絡するのは
お早めになさることをお勧めします。
明日には速達が着くはずです。』
大野拓哉
たっくんらしいなって思う。罵詈雑言ではなくてアドバイスまでしてくれてる。冷たい言葉を使ってるけど、罵るのではなくて、冷ややかな態度で決別の意志を見せてる。
「2枚目は引っ越しのことまで、書いてくれてる」
『家賃は3月まで振り込んであります。
この部屋の契約は来月で切れます。
更新予定はないと大家さんに連絡済みです。
私の荷物と二人の思い出は
全て抹消してありますので
残りの荷物はご自身がお決めください。
なお、電気、ガス、水道、部屋のネット等
連絡は私がしておきました。』
らしい、よね。
きっと、私のことなんて、ぶん殴って、踏みつぶして、つばでも吐きかけたいほどに憎んでも不思議はないのに、ちゃんと必要なことは全部してくれてる。
こんなに優しい人を、私は、ないがしろにしてしまった。
浮かれすぎてたんだ。
確かに、塩崎さんと身体の関係を続けてしまった。最初はレイプだった。今でも、それは否定できない。その後も、隠し撮りされた動画を消すために10回抱かせろと言われて応じてしまった。
ダメだってわかってた。ミューにも言われた。1回だけなら許してもらえるよって。戦った方が良いって。
でも、いろいろと考えたらダメだった。たっくんには言えないと思った。
それに犯された後の塩崎さんが、思っていたのとぜんぜん違って、とっても優しかった。いっぱい褒めてくれて、いっぱい「可愛い」って言ってくれた。
「人妻になる前に他の男を経験しておくべきだよ。そうすれば、もっともっと綺麗になれる。そうしたら一生涯、大事にされる良い奥さんになれるだろ?」
「たった10回だ。それも経験だろ? 結婚したらできないことを、今のうちに経験しておこうよ」
「ピルをこっそり飲んでおけば大丈夫さ。どのみち、今妊娠するわけにはいかないだろ? 彼氏も、そっちの方が喜ぶんじゃないの」
私、馬鹿だ。
エッチだって、結局、たっくんの時のような気持ちよさはなかった。ただ、縛られたり、オモチャを使われたり、変なことをいっぱいさせられた。確かに興奮はしたけど、結局、満足したのかと言えば満足できなかった。
でも、変な興奮をしちゃった分だけ「この次は、もっと?」と期待してしまう部分が確かにあって、私は次第に拒めなくなってた。
10回なんてとっくに終わってたのに、いつの間にか、数えるのを忘れたふりをして、おまけに「この人は私のことが好きなんだから」と思い込もうとしてた。
たっくんが卒業するまでだからって言い訳しながら。
最低だ、私。
もうだめだよね。わかってる。
たっくんは、優しいから、私がどんな失敗をしても、つまらないことで怒っても、絶対になんでも許してくれた。私が八つ当たりで怒っていても先に謝ってくれて、仲良しに戻るきっかけをくれる人だ。私が後悔して謝ったら、黙って頭を撫でてくれて、ただ、それだけで許してくれる人だ。だった……
ただ、一度決めると絶対に引かない。
別れるって、決めたんだよね? メモにはハッキリと「婚約解消」の文字が書いてある。私には、それをイヤだという権利なんてない。
ダメだとは思ったけど試してみた。SNSはブロックされてるし、電話も拒否られてた。
もちろん、どこに行ったのかも分からない。「お前のいないどこかだ」ってたっくんが言ったんだもん。私が思いつかないところに、行ってしまったんだろうな。
たっくんなら、きっとそうする。
何かを決めて計画を立てると絶対に実行してしまうすごい人だ。そして、信じたら絶対になんでも許してくれる代わりに、裏切った相手は絶対に許さないと決めるのだろう。
それは私が一番知ってる。あぁ、前の彼女さんに裏切られて、あんなに傷ついた人を私も裏切ってしまったんだ。
「死んじゃおうかな」
本気で死にたい。
「でも、今はダメだよ。だって、今、死んじゃったら、また迷惑がかかっちゃう」
たっくんのいない人生なんて、死んだ方がいい。生きていく意味なんてない。ただ、死ぬのを決めるのは良いけど、すくなくとも今はダメ。たっくんに迷惑がかかるに決まってるから。
私は心が空っぽのまま、この先何年も生きていかなきゃいけない。信頼する人を裏切ってしまった、それが私への罰。
たっくんがいなくなってしまえば、私には「空っぽ」しか残らない。いまさらだよね。
うん、いまさらか……
改めて見回してみたら部屋からたっくんの存在が全部消えてた。
写真立ての写真は全部抜かれてるし、共同のクラウドに上げておいた写真も全部消えてる。ううん。残ってるのがあるよね。
インターンシップに行ったときの写真だ。
メンターの塩崎さんとの写真だけは、たっくんの意志を示してるみたいに残されてる。
「いつ、写真を消したんだろ?」
そんなことにも気付けなかった。
私が馬鹿だっただけ。
結婚する前だから大丈夫だって。社会人の男性に「頼れる」なんて甘いことを考えて、チヤホヤされていい気になっていて、大事な人を喪ってしまった。
「そうだ。まず、お母さんとお父さんに教えなきゃ」
あなたの娘は最低なことをしてしまいましたって、謝らないと。
とてもじゃないけど、電話で言えることじゃなかった。
電話と言えば弁護士さんから電話があった。やっぱりたっくんはすごい。一度やると決めたら徹底的なのね。まさか、弁護士さんを使うなんて思わなかったよ。
今までは、そのパワーで私を守ってくれた。
そして、今度は、ううん、最後の最後で私は「敵」になっちゃったんだよね。
抗う気力なんて何も無い。なんでもいいよ。たっくんがいない世界に興味はないもの。
何もかも私が悪いんだ。
弁護士さんに頼まれた「証拠」も全部送った。自分の犯した罪は全部告白しちゃいたい。
告白したから許してもらえるだなんて思ってない。ただの自己満足。
違う。
それだけじゃ、気が済まない。もっと、自分を痛めつけてしまいたいって思ったから、聞かれないことも含めて、ぜーんぶ話してしまった。
別の弁護士さんを雇った方が良いってことだけは後にしてもらったけど、なんでも言われたとおりにサインするから、書類を送ってほしいと言って切った。
送り先の住所は実家をお願いした。
私はその日の一番遅い新幹線でF市に戻った。
塩崎先輩とエッチしてるときは、気が咎めて外していた指輪。だけど、今はどうしても外せなかった。
死にたい……
・・・・・・・・・・・
時は少々遡る。
2月1日 夜
山田弁護士の事務所にて
拓哉と山田弁護士が多数の写真が並んだテーブルを挟んでいる。
「大野様、証拠は全て整いました。あらゆる言い逃れもできません。あとは、小仏さんが塩崎氏を訴えることに同意してくれれば、最大の結果が得られます」
「もう、顔を見るのもイヤで、限界だし。やっちゃいましょう。奴が逮捕されるかどうかは、後で、お願いします」
「わかりました。何とか説得いたしますので」
「お願いします」
「お任せください。ではXデーですがおそらく、彼、彼女達の行動パターンから予測すると次の日曜日辺りかと」
「わかりました。じゃ、そこで泊まったら、その翌日に仕掛けますので、後をお願いします」
「はい。そこで一気に落としますので。頑張りましょう」
そして、2月最初の月曜日、早朝。
オレは、横浜のホテルへと出かけたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます