外伝1 手紙
前略 大野 拓哉様
あなたが大好きです。百万回の「好き」を繰り返しても足りないくらい大好き。
大好きです。大好きです。たまらなく好きです。
あなたを裏切ってしまった私だから、愛を口にする資格なんて無いのはわかってます。でも、今でもあなたが大好きなのは本当なんです。
頭の先から爪の先まで。そのしゃべり方も、言葉の選び方も、視線の運び方も、食べ方も、歩き方も、手の動き、指先、爪の形まで、みんなみんな、ぜーんぶ大好きです。
決してウソではありません。愚かな私でも、それだけはウソをつけないんです。
今度のことは弁解する余地もないし、二度と会えなくなったのも当然です。言い訳のしようが無いほど、私がいけないんです。
正面から怒ってくれて、馬鹿な女だと死ぬほど殴ってくれたら嬉しかったけど、あなたは絶対に、それを選びませんよね。
この手紙に触るだけでも薄汚いと感じていると思います。弁護士さんも困っていらっしゃって、一度断られました。だから、これは、もう一度頼み込んで無理にでも渡してくれるようにお願いしたものです。
あなたに届きましたか?
きっと、あなたはこの手紙を読まないと思います。だけど、手紙は捨てないでいてくれると信じています。
たとえ読んでもらえなくても、言い訳になっちゃっても、私がした罪について告白しておくべきだと思って、自分の愚かさを書きます。
あの男と間違いを起こしました。ごめんなさい。
メッセのやりとりは弁護士さんに全部送ったので知っていると思いますが、私が愚かすぎました。
あなたにずっと言われていましたね。「人の善意を信じすぎだよ」って。何回、あなたに優しく叱られてきたでしょう。叱られた後「そこが君の良いところだけど」と頭を撫でてくれるのがどれほど至福の時間だったでしょうか。
でも、私の人生からは二度と取り戻せない時間になってしまいました。全部、私の愚かさゆえです。
インターンシップに行った会社にあの男がいました。最初に「しまった」と思いました。でも、とても優しかったんです。その優しさが偽りであることは、しっかり見抜いたつもりでした。
だからこそ、買ってもらった指輪を常に見せつけていたはずなのに。
悪意のある男性にとっては、そんなものを歯牙にもかけないのだと言うことを身をもって知りました。
ミューから聞いたかも知れませんね。最初にノコノコとホテルに着いていってしまったのがダメでした。まさかそんなウソは言わないだろうというくらい正面からのウソに載せられて、いつの間にか動けなくされて、奪われました。
その衝撃は大きくて、一晩泣きました。あの時、あなたに言えば良かった。
言うべきだって思ったんです。本当にそう思いました。わかってたんです。あなたなら、きっと失敗した私を許してくれるって。
言い訳になっちゃいますけど、あの時、帰る家にあなたがいれば、きっと、きっとどんなに怖くても言えたはずなんです。
だって、今までにどんなにひどい失敗をしても、あなたが「大丈夫だ」って頭を撫でてくれる度に勇気を取り戻せたのだから。きっと、あなたの顔を見ていたら言えたと思います。
でも、あの時、私達は離ればなれでしたね。
あの晩、眠れないまま考えたのは「今、これをたっくんに言ったらダメ」ということでした。
だって、あなたなら…… 何よりも私を大切にしてくれるあなたなら、もし知ってしまったら、きっと私のために日本へ帰ってきてしまう。全てを投げ打ってでも。
よしんば帰って来られなかったとしても、あなたの頭の中が私になってしまう。
そう思ったんです。
あの頃、あなたはよく言っていました。周りはすごく優秀で、しかも本当のライバルは海外組とT大の人達だって。頭の良いあなたが、毎日、必死になって
頑張っている最中に、私のことなんて考えさせちゃダメだって思ったんです。
本当のパートナーになるために、これは自分で解決しなくちゃダメなんだって。なんとか写真を奪い返そうとして、結果的に、どんどん深みにはまることになってしまいました。
その手口については、すべて弁護士さんに喋りました。あの男に抱かれた日も場所も、行為の内容も書きました。メッセージの画面も全部、渡してあります。
ただ、一つだけ話せてなかったのは、あなたが研修から帰ってきた日のことです。
たぶん、あなたは覚えてないと思います。ううん。気付いてなかったと思います。
空港まで迎えに行った私を抱きしめてくれた瞬間「あれ?」って首を
これは自慢なんですけど、私、大好きなあなたの動きは、ほんのちょっとした間の取り方でも、目線でも、それこそ呼吸だって、何でもわかるんです。あなたが思っていることを。
だから、あなたが首を捻った瞬間「あぁ、もう、ダメかもしれない!」っていう恐怖が背中を貫いたんです。
汚れきった私を知られてしまったという恐怖です。あなたが、それを許してくれるはずがありません。
あの瞬間から、あなたに抱かれるのが、いえ、あなたを見るのが怖くなったんです。だって、空港のあの時、既に5回も汚された後でした。あなたが帰ってくる前日にも呼び出されていたのはご存じですよね?
顔を見るのが怖かった。見つめ合う瞬間が怖かったのです。
だからと言って、その怖さから逃げるために、甘い言葉を囁いてくれる、その元凶に身を寄せるなんて本当に愚かな行為です。自分でも矛盾してると思いました。
愚かで弱かった私。百万人に後ろ指を指されても当然です。
あの頃、どこかで止めてほしかったというのは甘えてますよね。自分でも嫌になるほど甘えています。
去年の暮れは、あなたが「それぞれの家で最後のお正月を過ごそう」って言ってくれましたね。どこかしらホッとしてしまったのは、きっと、もうダメだってわかっていたからだと、今の私ならわかります。
それから、おそらく私のことなんて知りたくないと思うのですが「ひどい失敗をした時ほど、いつまでも後ろ向きではいけない」と何度も教えられた通り、前を向こうと決心しました。
決めたんです。
今年の夏、故郷で教員採用試験を受けようと思います。こんなにダメな私だからこそ、どこかで困っている中学生がいたら力になれるかもしれないと思っています。
末筆になりましたが、大野様がご活躍なさることを北の地よりお祈りさせていただきます。
心からの後悔と感謝を込めて。
小仏 紗絵
ごめんなさい 大好きです
・・・・・・・・・・・
病室に詰めかけている
先月は、大好きな曾祖父が、92歳の誕生日の当日、妻に看取られながら逝ってしまった。
その後を追うようにして、今、命の灯火が消えようとしていた。末期がんが宣告され、もっともっと早く亡くなるはずが「約束通り」に息を引き取る夫の手を握って見せたのを、全員が見ていた。
あの感動の瞬間を覚えている家族は、自分たちが二人の愛情の間に生まれてきたのだとしみじみと感じている。
次第に呼吸すらも怪しくなっている。
「お祖母様!」
制服のブレザー姿が駆け込んできた。利発なひ孫達の中でも最年少の少女は、ベッドに寝る老女の若い頃にそっくりだと言われていた。
少女の名前は
曾祖母を「お
「お
「……」
混濁した意識が、その瞬間、清明になったように見えた。
「
「……」
美琉には曾祖母の反応が読み切れない。母が通訳して見せた。
「近づけてっておっしゃってるのよ。見えるようにしてあげて」
「はい。お祖母様。どう? 見えますか? こぼとけ、さえさんかな? 出した人は」
モニターに表示された心拍数がわずかに上がっている。
病室に立ち合う家族達が初めて耳にする名前だ。
しかし、老女は、懐かしい名前を訂正する力は既に残されてない。ただ、誰にも聞こえないが、横たわった老女の胸の内では、こんな言葉が呟かれていた。
「あぁ、これよ。やっぱり持っていらしたのね。あなたってば、とうとう開けないで逝ってしまったのですね」
品の良い老女は、確かに笑みを浮かべた。
「女性からだわ。これ、ラブレターでしょうか? お祖母様、ご存じでした?」
老女には声を出す力はもうない。しかし、目元がわずかに微笑んだ。
「これ、ラブレターなんですね!」
今度は顔から答えを読んだのだろう。周りにいる人間に聞こえるように「解説」している。
「でも、開けてないのに。なぜご存じなんですか? ううん、それよりも、大祖父様が他に女の人がいらしただなんて! ショックです。お二人は誰もがうらやむほどのラブラブだったのでは?」
その時、老女の唇から出るはずのない声がハッキリと聞こえた。
「いいのよ。ちゃ~んと知ってましたからね」
「お祖母様!」
驚いた。一斉にみんなが近づいた。
それが最後の一声だった。
みんなが見守る老女から、スッと力が抜けるのがハッキリと分かった。
「母さん!」
「お祖母様!」
悲鳴のような声が響く病室で、声にならない言葉が老女の胸に浮かんでいる。
「良かった。これで、あなたに持っていってあげられます。もう、許してあげて下さいね。あなたが人を恨むなんて似合いませんもの」
病室に心停止のピーという電子音が響き渡ると、詰めかけた子ども、孫、ひ孫達が一斉に涙を落とした。
「やっぱり、母さん達は、仲良しだったよなぁ」
安らかに最後を迎えた「母」の顔を見ながら、長男が、みんなを代表するように呟いた。
「母さんと父さんったら70年も一緒に歩いてきて、たった一ヶ月違いで逝くんだもの。死ぬ時までほーんと仲が良いんだからぁ」
長女は「父さんと、デートするんだよね」と言いながら、母の唇に紅をさしている。
「余命三ヶ月って言われた母さんの方がホントは先のはずだったのに。結局、父さんが逝くまで頑張っちゃったもんなぁ。それに父さんもすごいよ。ホントに言ったもん」
そこにいる全員、優しいジイジが息を引き取る間際「君のおかげで、楽しい人生だった」と、あの瞬間だけ若者のような声でバアバに言ったシーンを思いだしていた。
長男は我に返ったように、その封筒を手にした。
「で? どうする、この手紙。孫あんどひ孫ーずは、とっても読みたそうにしてるけど」
こういう時、長女に決定を
母親によく似た長女は、肩をすくめて託宣を下した。
「そうね、お父さんの望み通りが良いんじゃない?」
三日後、大勢の客と、仲の良い一族に見守られた告別の儀の中で「大野美羽」の懐には、古びて封も開けられてない封筒が置かれたまま、空に還っていったいったのである。
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