第2話 魔王を倒すのは不可能だ。少なくとも、君にだけは
帝暦722年。大陸最大の国家、ハルトフォードの本拠がある大都市、ハイランドにて。
強力な国力と権威の象徴であり、常に活気溢れる都市の中心、ハルトフォード家の居城であるマグナ・ハイランドでは、新たな勇者の門出を祝う宴が催されていた。
ハルトフォードの勢力下にある諸侯や親族、同盟国の主など、錚々たる顔ぶれが大陸各地から大勢集まっている。
パーティーホールから聞こえる賑やかな声と音楽、漂う食事の匂い。
マコト・ハルトフォードは、そんな喧騒の中心から少し外れた、ホール周辺の大廊下を歩きながら、後悔していた。
今回の宴はいつもより大規模だったらしい。普段と違って、ホールの外にまで客がそれなりに往来している。
マコトはその光景を前に、小さくため息をつく。
(裏門への近道だからって、ここを通ったのは失敗だったな)
マコトはハルトフォードの名の通り、大陸屈指の名家に属する。十八歳の青年だ。三男ではあるが、当主の息子だ。
となれば、城の廊下を歩いていればもてはやされ、すれ違う人々は彼に恭しく頭を下げるのがあるべき姿だろう。
城に勤めるメイドや衛兵にとっては当然怠ることのできない作法だし、名家に取り入ろうとする諸侯や令嬢なら是非ともお近づきになりたい存在のはずだ。
しかし、実情は大きく異なる。
「あの黒髪の方、パーティーにも参加せず、あんなみすぼらしい格好で歩いて……」
「この城で黒髪の男と言えば、あれが例の……ご自分の立場を弁えて欲しいものですわね、全く」
客として招待されたどこぞのご令嬢たちだろう。
華やかなドレスを身に纏った二人組の淑女が、すれ違いざまに不躾な視線をマコトへ向けながら、聞こえよがしに侮蔑の込められた言葉を交わす。
確かに今のマコトはドレスコードなど無視した、冒険者のような普段着に身を包んで、腰には剣を二本も携えている。
「くくっ……」
「ふっ」
廊下で談笑していた男女が、令嬢たちの会話を聞いて笑い声を漏らしている。彼らもまた招待客でありながら、ハルトフォードの一員であるマコトを見下したような態度を隠していない。
それは、付近にいた他の者たちも同様だ。
親族や家臣たちも例外なく、マコトを見下すか、無視するか、疎んじている。
誰も頭なんて下げないし、聞こえよがしに嫌みを言ってくるし、すれ違い様にわざとぶつかった上でいない者のように扱われることもある。
そのことを誰も……父である当主や兄、ハルトフォード家に長く仕える忠臣に至るまで、この城にいる者たちは誰も咎めない。
マコト・ハルトフォードは、当主の子ではあるが、正妃の子ではない。
彼の母は、この大陸の中枢にして象徴である帝の血を引くユキシロ家から、政略結婚でハルトフォード家に嫁いできた側室だ。
正妃の子ではない上に、大陸の頂点である帝の血を引いているため、家中以外の影響力を持つ可能性がある。
正妃とその子である長男アーサーからしてみれば、ハルトフォードの後継者争いにおいて、マコトの存在は邪魔でしかなかったのだろう。
アーサー一派は幼い頃よりマコトとその母を冷遇し続けた挙句、母を事故に見せかけ暗殺した上、ユキシロ家と手を結んでマコトを後継者争いの神輿に担ごうと目論んでいた諸侯たちを粛清した。
当時わずか7歳だったマコトは以降、母親と後ろ盾を失い、家中で孤立していくことになる。
アーサー一派は家中で盤石な地位を築き、家臣たちはそれに追従していったため、誰もマコトを気にかけることはなかった。
父であるハルトフォード家の当主も、それを黙認していた。
しかし、マコトがハルトフォード家の内外を問わずここまで疎まれているのは、名家にありがちな後継者問題絡みの確執だけが原因ではない。
「元勇者が、よくこの場に顔を出せたものだな」
マコトが大廊下を通り過ぎる際、背後から誰かが憎しみを込めてそう言った。
元勇者。
それがマコトの現状であり、蔑まれている理由だ。
だからこそ、マコトは自分自身の現状がある意味妥当だと思っている。
(まあ、居心地が良くないのは事実だけど……どうせ明日にはここを去るから、大した問題じゃないか)
とりあえず、さっさと裏門から出て、今夜をやり過ごす場所に移動するとしよう。
マコトはそう心に決めた。
〇
マグナ・ハイランドから照明魔法の光と弦楽器の音色が漏れ伝わってくる中、マコトはハイランドでも場末の路地裏にある酒場で一人寂しく酒を飲んでいた。
繁華街などは城の宴に乗じてお祭り騒ぎだったが、ここにはその波も届いていない。
老齢で強面の店主は寡黙で、マコトに干渉してくることはない。
腹の中では何を考えているのか知らないが、少なくともマコトのことを、あからさまに蔑んだりはしない。
この静けさと薄暗さが、今のマコトにとっては気楽だった。
(この店主には悪いけど、いつ来ても他に客がいないのも、気に入ってる理由なんだよな……)
マコトは酒を呷りながら、周囲の空席に目を向ける。
そうしてしばらく、孤独でひっそりとした雰囲気を満喫していたマコトだったが、程なくして静寂は破られた。
「あ、やっぱりここにいた。やっほーマコトくん」
カランカラン、と入店を告げるベルの音に合わせて、一人の少女が酒場にやってきた。
蒼みがかった長い銀髪が特徴的な、ハイランドで一番と評判の美少女だ。
どこかあどけなさが残る顔立ちから感じる柔らかい印象とは裏腹に、彼女はハルトフォードどころか、世界最強戦力と称される程の武人でもある。
社交界と戦場の両方で華として中心に立つ彼女こそ、マコトの幼馴染、リリィ・シトロエンだ。
リリィは楽しげな表情を浮かべながら、マコトの隣に座る。
腕と腕がぶつかるような距離から、ふわっと甘い香りが鼻をくすぐった。
(……相変わらず、近いな)
リリィがくっついてくるのなんていつものことなのに、未だにドキドキさせられる。
「ハルトフォードのお坊ちゃんが、こんな場末の酒場で冒険者みたいな格好して……最初からパーティーサボって抜け出すつもりだったでしょ」
「そもそも僕は呼ばれてないから、どうしようが勝手だろ」
マコトはリリィを前にして、気分が高揚するのを感じながら、酒を口にする。
他の人間に皮肉を言われたところで何も思わないが、リリィが相手だとむしろ楽しさすら感じる。彼女の隣だとドキドキさせられるのは事実だが、同時に穏やかな気分にもなれる。
リリィは他国の領主の一人娘で、幼い頃人質としてハルトフォードにやってきた際にマコトと出会った。
以来、友人であり、修行仲間であり、競争相手であり、それ以上の関係でもあった。
「大体、そっちこそ今夜の主役がこんな場所にいていいのか、勇者様?」
そう、今夜マグナ・ハイランドで開かれている宴は、新たな勇者の門出を祝うための催しであり。
リリィこそが、その新たな勇者なのだ。
「名門シトロエン家のご令嬢で、社交界の華なんて言われている割には、今から魔王を倒す旅にでも出ていきそうな格好じゃないか」
本来ならハイランド一のデザイナーが仕立てたドレスを着ているべきリリィは、とてもパーティーに参加するとは思えない、冒険者風の服を着て帯剣している。
機能性を重視しながら、短いスカートを履いており、お洒落にも気を使っている様子だ。
「名門のご令嬢って……ハルトフォード家の人に言われると皮肉にしか聞こえないなあ」
「……君のセリフこそ、皮肉にしか聞こえないけどな」
「そう?」
「ああ、そうだ」
「うーん、確かにそうかも」
マコトが肩を竦めると、リリィはにししと悪戯っぽく笑った。
(ああ……やっぱり、居心地がいいな)
冷遇されてばかりのこの地に、マコトがこの後に及んで居座り続けているのは、リリィがここにいるからだ。
マコトは浮ついた気分に浸りながら、グラスの酒を口の中に流し込む。
「マコトくん、飲み過ぎじゃない? 何杯目?」
「さあ、多分三杯目くらいじゃないか」
「きみってそんなにお酒好きだったっけ」
「別に。どちらかと言えば自分が嫌いだから飲んでる」
「何それ、かっこいいつもり?」
リリィはテーブルに頬杖を突きながら、胡散臭そうにマコトを見た。
「……ありのままの本音だ」
「へー、なんにせよ、飲み過ぎはほどほどにね?」
リリィは優しげな眼差しで、マコトに向き直る。
「仮にきみが自分のことを嫌いだったとしても、そんなきみのことを好きな人間だって、ちゃんといるんだから」
誰からも疎まれているマコトを、リリィだけは心から慕ってくれている。
彼女の笑顔を見ていると、沈んだ気分が晴れやかになる。
……一人の方が居心地がいいなんて嘘だな。
長年一緒に過ごしてきたリリィの隣こそが、自分の望む居場所なのだ。
「ありがとう、リリィ」
マコトは真っ直ぐとリリィを見つめながら、感謝の言葉を口にした。
「も、もうっ……そんな素直にお礼されると、なんかむず痒い気分になるっていうか、その」
リリィは照れ臭そうに目を逸らした。
令嬢としても武人としても完璧なリリィでも、二人の時はどこにでもいる少女と変わらない。
「とにかく、君のことが好きな私としては、もっと君に自分を大事にしてもらわないと困るわけで……って何言わせてるのさっ」
リリィは一人で慌てふためくと、マコトから酒の入ったグラスをひったくり、誤魔化すように飲み干した。
「うへ、苦い。しかも強い……」
マコトくんはこんなのの何が良いんだろう、などとぶつぶつ言っている。
……確かに、他人が飲んだらむせ返るような酒を何杯も飲むのは、健康には良くないかもしれない。
「まあ、明日には響かない程度に留めておくよ」
マコトはリリィと共に、明日から旅に出ることが決まっている。
魔王とその手勢である魔軍を討伐するための旅だ。
勇者であるリリィと、優秀で強力な人材数名が同行する。マコトは元勇者として経験や知識は豊富なため、サポート役として一行に加わることになっている。
今は勇者ではなくなり、万全の状態ではないが、リリィを助けるのは望むところだ。
「あー、明日。明日ね……」
リリィの言葉の歯切れが悪くなる。
急にどうしたんだろう。
「その話、無くなったんだ」
「その話、ってどの話だ」
まさか、魔王に負けを認めて討伐を諦めたから旅は中止になりました、ってわけじゃあるまいし。
「きみ、一緒に来なくていいよ。勇者一行に加わるには、流石に力不足かなって」
どうやら今回は、冗談でも皮肉でもないらしい。
確かに今のマコトは、強力な魔軍と渡り合うだけの戦闘能力を有していない。
元勇者。
それはつまり、かつてはマコトも勇者だったことがあり、世界最強と謳われるリリィと同等の戦力を持っていたことを意味する。
そう、かつては。
今のマコトは勇者ではない。そして、勇者ではなくなった出来事が原因で、体内の魔力をほぼ全て消失しているため、大魔術を連発することはできないし、超人的な膂力によって高速戦闘を行うこともできない。
「それでも最低限、自分の身を守るくらいはできるし……何より、僕は魔軍のことを誰よりも知り尽くしている。僕の知識は、君の旅で必要になるはずだ」
「だとしても、マコトくんを連れて行くことはできないかな」
「……君にとって僕は、足手まといってことか?」
「だって、これから魔王を倒すための過酷な旅をしようって時にきみを連れて行ったらさ、なんか贔屓しているように見えるっていうか……色んな人に対して示しがつかないでしょ?」
リリィの眼差しは至って真剣だ。
それでいて、どこか寂しげで、優しくて。
……ああ、そうか。
今の僕では、リリィの隣にいることはできないんだな、とマコトは悟った。
「とにかく、さ。君には、おとぎ話に登場するお姫様みたいに、想い人が使命を果たして無事に帰ってくることを祈っててよ」
リリィは宥めるようにそう言って、微笑んだ。
それでも、駄目だ。
この、リリィが魔王を倒すための旅には、致命的な矛盾が存在している。
だから。
「……魔王を倒すのは不可能だ。少なくとも、君にだけは」
リリィは目を瞬かせた。それから、不敵に笑う。
それを最後に、リリィが視界から消えた。
直後、視界が揺れて、逆さになって、衝撃を感じて、気がついた時には床に仰向けで転がされていた。
リリィが仁王立ちで、こちらを見下ろしている。
その手には、一振りの剣が握られていた。
その姿を見たマコトはようやく、リリィが目にも止まらぬ速さで、自分の腰から剣を奪い取ったのだと理解した。
ただの剣ではない。勇者の証にして、最古の剣と称される伝説の一振り、聖剣だ。
リリィが勇者になることに対しての最後の抵抗としてマコトが所有し続けていたが、あっさりとあるべき持ち主の手に渡ってしまった。
「でも、わたし強いよ? 少なくとも、今のきみよりは」
「……当然だろ。今の僕には、魔力がほとんどないんだから」
「いやいや、昔からわたしの全戦全勝だったでしょ」
それは好きな女の子を相手にして、模擬戦用の木剣だったとはいえ本気で振りかかることなんてできなかったからだとは、流石に本人を前にしては言えない。
「何にせよ、これはわたしが引き継ぐね。きみはもう十分戦ったからさ。後はわたしに任せてよ、元勇者くん」
相変わらず、リリィは軽い調子で笑っている。その瞳には、覚悟が灯っているように見えた。
そうしてリリィはマコトに戦力外通告を告げると、目的は果たしたとばかりに酒場を去っていった。
「……」
それを止める術は、今のマコトにはない。
そう、僕は……とマコトは改めて自分の無力さを痛感する。
マコト・ハルトフォードは、以前勇者だった。
彼が勇者になったのは、世界を守りたかったからではない。
家の名誉のためでもない。
たった一人、守りたい人がいたから。
その一人こそが、ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染、リリィ・シトロエンだ。
マコトが戦い続けたのは、リリィのため。
リリィと一緒にいられる場所を守りたかっただけ。
勇者としての使命や、家の繁栄なんてものは、そのついでとして達成されていったに過ぎない。
結果として、マコトは史上最強と称されるまでに至り、魔軍の幹部である四天王を全て倒し、魔軍の勢力を大きく衰退させた。
それでも最後には、魔王に屈した、と世間からは言われている。魔王に敗れ、力の大半を奪われ、仲間を捨てて、自分だけおめおめと故郷に逃げ帰ってきたのだ、と。
しかし、おかしいだろう。
そんな状況で、マコトだけ生きて逃れることができたなんて。
だから人々は、彼をこう呼ぶ。
神に見捨てられた裏切者、と。
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