1.漂着した少女


 ゆっくりと日は昇る。

 眠れないままに、いつの間にか夜は過ぎていた。

 窓から見える森の向こうから、日の光が差し出したのを見届けた頃。青年はのそりとベッドから身を起こす。

 窓硝子にうっすらと映る自身の姿を、青年は視る。

 一切の手入れを放棄して長く伸びすぎている髪は、白い。その白い髪の隙間から覗く瞳には、ゆらゆらと不規則に揺れる炎のような朱い光がある。

 いつもと変わらない姿。

 いつもと変わらない、光景。

 青年はいつものようにベッドから床へと降り立ち、まっすぐに扉へと向かうと、素足のままに、外へと出る。

 青年が住んでいる小さな家の前には、これまた小さな泉がある。泉の中心には青年が腰掛けられるほどの岩が一つあるぐらいで、水は泉の下から絶えず湧き出ており、綺麗な水面を作っている。その水面に向かって、青年はためらいもなく足を入れ、じゃぶじゃぶと膝まで水に入り、中心にある岩へと向かう。

 が、ふいに青年は動きを止めた。

 自身が立てる音以外の、別の音を聞いたからだった。

「……ぅ、う……」

 いや、これは音というより、声か。

 青年は岩の向こう側を覗き込む。

 岩の向こう。青年が入ってきた反対方向の場所に、それは居た。

 まるでたった今、溺れかけて泉から陸へと這い出たかのような格好で、ずぶ濡れで意識が朦朧としている人間が。


 真白のドレスに身を包み、赤毛の長い髪を水面に揺らしながら。

 少女が、そこにいた。


 ×××


 少女は混乱していた。

 目が覚めるとまったく知らない家の中にいて、自分はずぶ濡れのままに火がついていない暖炉前の床に転がされており、見覚えなんて一切無い青年が、受話器の向こうの声に怒鳴られていたからだ。

 青年が手に持つ受話器からは男性らしき声が響いてきていて、かろうじて聞き取れたのは「とにかく今から向かう!」という言葉だった。その直後にガチャリと大きな音が聞こえたので、どうやら叩き切られたらしい。青年は受話器を下ろし、耳を押さえた。こちらにまで聞こえていたぐらいだから、相当な大音量だったに違いない。

 その青年が、こちらを振り向いた。少女は体を中途半端に起こした状態のままビクリと身を震わせる。

 まったく知らない青年に、まったく知らない場所だ。今この状況が一体どうなっているのかわからず、何を言われるのかと少女は身構える。

 が、青年は何も言わなかった。

 それどころか、表情一つ変えなかった。ただ少女を見やり、数秒置いてから部屋の奥へと向かうと、毛布を抱えて戻ってくる。

 そして、何も言わずに毛布を少女へと差し出してきた。使え、ということだろうか。少女は混乱した頭のまま、毛布と青年を交互に見る。

「あ……ありがとうございます……あの、でも、濡れてしまいますので……」

 そう言いながらも、ふと少女は自分が凍えていないことに気が付いた。

 慌てて自身を見下ろすと、身に纏っている真白のドレスがいつの間にか乾いている。レースやフリルがあしらわれた装飾が多いドレスである為に水分を含んで非常に重く、先程まで体を起こすことすら一苦労だったというのに。

 驚いて姿勢を正し、きちんと座り込んでみれば、濡れて頬やドレスに貼りついていたはずの自身の癖のある赤毛の髪が、ふわりと揺れている。ぽたぽたと水が滴り水溜まりになっていたはずの床も何事もなかったかのように乾ききっており、少女はただ戸惑って自身と辺りを見渡した。

 と、もう一度、青年から毛布を差し出される。

「あ、えと……」

 体は凍えていないが、冷えてはいる。

 差し出される毛布を受け取り、大人しくドレスの上から包まった。

 すると青年は少女の後ろを指差す。振り向いて見れば、安楽椅子が置いてある。

「……座って良いのですか?」

 返事はなかったが、そういうことで合っているようだ。誘導されるままに少女は毛布に包まったまま、おずおずと安楽椅子に身を預けた。青年はそれを見届け、今度は黙々と暖炉へと薪を放り込み始める。そんな青年の行動を少女はぼんやりと眺めた。

 自分は一体どうなって、どうしてここにいるのか。青年に問いかけてみたかったが、何故か聞けなかった。

 そうこうしている内にいつの間にか暖炉に火がつき、と同時に、外から荒々しい足音が近付いたかと思えば、バンッと大きな音をたてて扉が開かれた。

「おい来たぞ! 一体なにが――」

 息を切らしながら入ってきたのは黒髪の男だった。

 男は一瞬にして部屋の中を把握したらしい。暖炉に向かい火の具合を見ている青年と、毛布に包まった見知らぬ少女が、一緒の部屋にいるのだから。

 男は焦った顔から一転、眉間を顰めて困惑した顔をしたかと思うと、頭を押さえた。

「……待て、息を整えさせてくれ……」

 そう言い、男は盛大に息を吐いた。


 ×××


 どうやら受話器から聞こえてきていた声の主が、この男だったらしい。

 男は部屋の隅に置かれていた椅子を引き摺ってくると、少女の前に置いてどっかりと座った。

「俺の名はロキ・エルドランという。ここを管理している責任者だ。まず君の名を教えてくれないか」

「あ、えと……チガヤ、と言います」

「ではチガヤ。君がここへ至った経緯を話して欲しい。できるだけ詳細に、偽りなく」

「え、でも、あの」

 そうは言われても、少女とて先程目が覚めたばかりで、未だ現状が把握できていない。困ってしまって部屋の奥にいる青年へと目を向けるが、青年は何も言わず、壁にもたれてこちらを眺めているだけだ。

 そんな青年を、男――ロキも振り返りつつ、面倒そうに息を吐いた。

「あいつに聞いた方が早いというのは、俺もわかっている。だが、生憎とあいつは口が効けない。事情を聞こうにも聞けないんだ」

「……お話することができない、ということですか?」

「おそらく声帯に何らかの異常があるんだろうが、声を発すること事態ができないらしい。そういう訳で、俺としては君から話を聞くことしかできないというわけだ。なんでもいい、覚えていることを話してくれ」

「は、はぁ……えっと……」

 少女――チガヤは、ひとまず目が覚めてからのことを話すことにした。

 気付けばここにいたこと、先程までずぶ濡れだったこと、青年とは面識がまったく無いこと。ロキはある程度を予測していたのか、チガヤの話を驚くことなく、一つずつ確認するように頷きながら聞いていく。

 そしてチガヤが話し終えた頃合いで、質問を投げかけた。

「ここに至る前の記憶はどうだ。君が気を失う前、君がずぶ濡れになっていた理由に、心当たりはないか」

「心当たり……」

 チガヤは、少し言い淀んだ。

 包まれている毛布の端をきゅっと握りしめ、少女は目を伏せる。

「その……川に、落ちたのです……ですから、私は溺れたのだと……思っていたのですが……」

 困惑と、ためらいが交じり合っているような声で、少女は言う。

 と、ふいに部屋の奥にいた青年が動き出した。ゆったりと歩き、外へと通じる扉を開けると、素足のままに外へと出てしまう。

 チガヤは思わずその後ろ姿を目で追った。青年が開けた扉の向こうに、草原と泉が微かに見え、すぐに扉が閉じられる。

 その草原も、泉も、まったく見覚えの無い景色だった。少女は僅かに顔色を青くさせ、肩を震わせる。

「あの、ロキさん、ここはどこなのですか? 私、遠くまで流されてきたのでしょうか、一体、どこまで……」

 にわかに焦りだしたチガヤに対し。

 ロキは冷静に、少女を見据える。

「その質問に答える前にもう一つ、こちらの問いに答えて欲しい。川に落ちたと言ったな……チガヤ。それは事故か? それとも、故意か?」

「っ――……」

 少女は答えることができなかった。

 言葉に詰まり、口を閉じ、目を逸らす。

 そんなチガヤの様子を、ロキはただ見やり、溜め息を吐いて頭をガシガシと掻いた。

「……まぁいい。答える気になったら教えてくれ。とりあえずは移動するぞ。ここじゃ落ち着いて話ができないからな」

 先にロキが立ち上がり、ガタガタと椅子を元の場所へと戻す。

 つられて立ち上がったチガヤは、羽織っていた毛布を脱いで丁寧にたたんだ後、置き場所に困ってオロオロとする。結局どこから持ってこられたのかがわからず、安楽椅子の背にそっとかけ、ロキを振り返った。

「? どうしました?」

「あー……君のそのドレス……いや、今は聞かないでおこう。案内する。俺について来てくれ」


 外に出ると明るい日が照っていた。

 すぐそこには小さな泉があり、その泉を囲っている草原と森があり、泉を挟んだ向こう側には更に小さな家がある。

 チガヤは思わず呆然とした。自分はここに流れ着いたのだと思っていたのに、流れ着くための川が見当たらないのだ。

「え……? あれ……?」

「君の戸惑いは理解できるが、それも含めて後で説明させてくれ」

 チガヤの混乱する思考を遮断するように言い添えたロキは、顔を上げて息を吸い込む。

「おい! この子を連れて行くぞ! いいんだな!?」

 見れば、泉の中央にある岩に、こちらに背を向けて腰掛けている青年がいた。長く伸びきった白髪が岩からこぼれ落ちて泉の水に浸かってしまっているが、気にする様子は全くない。

 ロキの声に反応したのか、青年はこちらを振り返り、一点を指差した。視線で追えば泉の淵に何かが折りたたまれている。

「……あ」

 チガヤには見覚えがあった。駆けよって手に取ってみれば、その手触りで確信する。

「これ、私のものです」

「なんだそれは?」

「えっと……その……ベール、です」

「いや、それではなく」

 戸惑って口篭もるチガヤには構わず、ロキはベールの傍に添えられていた物の方を手に取った。

 一輪の花だった。茎の部分は不自然にねじれており、その形状からして、何かに編み込まれていたものか。

「どうやらそれに引っかかっていたみたいだな……ふぅん、なるほど」

 一人納得して、ロキは顔を上げる。

 泉の真ん中にいる青年は、もうこちらを見ていなかった。背を向けたままで、後は勝手にしろと言わんばかりの様子だ。

 行こう、とロキが声をかけ、歩き出す。

 ベールを胸に抱えたチガヤは、青年の背に深々と一礼した後、小走りでロキを追いかけた。


 ×××


 森の中は辛うじて人一人が歩けるほどの小道が一本あるだけだった。

 先程までいた家屋から続くその道を、ロキに続いて歩いていけば、唐突に森が開ける。

 そして目の前に巨大な壁が現れた。

 見上げれば首が痛くなりそうなほどに高い壁だ。それが僅かに湾曲しながら続いており、おそらく、この森をぐるりと囲っているのだろう。突然現れた高圧的な人工物に、チガヤは思わず胸に抱いたベールをぎゅっと握りしめる。

 対してロキは慣れた様子であり、壁に近付くと設置されている扉を開け「こっちだ」とチガヤを手招きした。促されるままにおそるおそる扉を潜れば、思いの外、中は明るく人の気配がし、生活感がある。いくつかある部屋の一つからは談笑らしき声も聞こえてきており、ロキはその声がする部屋の扉を開け放った。

「戻ったぞ」

「あ、おかえりなさいっす、所長~……」

 扉から一番近い席にいた男性が振り返り、そして固まった。

 賑やかだった談笑が消え、瞬間的に静まりかえる。部屋の中にいた全員からの視線がチガヤへと集中し、少女は思わずひゃっと小さく悲鳴を上げた。

 最初に我に返って声を上げたのは、先程の男性だ。

「……えっ、うぇぇえええっ?! おっおお、女の子?! どうしたんすか所長、その子、一体どこから?!」

「漂着物だよ。いや、漂着者、か?」

「えぇっ、漂着……ひえぇぇぇっ?! 一大事じゃないっすかぁぁぁっ!!」

「うっさい!」

 大袈裟に立ち上がって大声を上げる男性を止めたのは、奥側にいた女性だった。男性の頭上を手刀で殴って黙らせ、すぐにロキへと向き直る。

「ロキ所長、その子が今回の漂着物なのですか? 少女があの泉に流れ着いていたと?」

「どうやらそうらしい。すまないが、まだ彼女に何も説明できていないんだ。アルテ、彼女を会議室へ案内してやってくれ」

「わかりました――ごめんなさいね、驚かせてしまって。私はアルテ・ベルリア。貴方の名前は?」

「え、あ……チ、チガヤ、です」

「チガヤちゃん、ね。案内するわ。飲み物は紅茶でも大丈夫?」

 女性――アルテがにこりと穏やかな笑顔を見せ、チガヤの背を押して隣接している会議室へと連れて行く。

 二人を見送り、ロキは部屋の中を振り返った。頭を抑えて唸っている部下が一人と、それを呆れた様子でそれぞれ眺めている部下が三人残っているのを確認する。

「いってぇー……思いっきり殴るなよなぁ、も~……」

「ジャン、この花を見たことはあるか」

 そう言って、先程拾った花を見せる。痛む頭をさすっている部下は、目をぱちくりとしながら花を受け取る。

「んん……この近辺にはない花ですね。葉の形からして高山花の一種? それにこの茎のねじれ様、花冠にでもしたのか……時間を下さい。すぐに調べます」

「頼む。ユークリッド、ジャンの調べがついたら花の自生場所近くの村や町のことを調べてくれ。川に落ちたと言っていたから、人一人が流されるほどの大きな川がある場所だ。フィルは本部への確認を頼む。各部署に行方不明者の連絡が届いていないか、もしあればその詳細を。エリックは森で他に異常がないか見回りをしてくれ」

 ロキの指示に、部下たちはそれぞれ頷く。すぐさま動き始める彼らを確認した後、ロキは資料棚から書類を引っ張り出した。


 一方、チガヤは別室でアルテに淹れて貰った温かい紅茶を頂いていた。

 泉がある場所からここまでの道中で体が冷えてきていたので、この温かさがありがたい。少し心を落ち着けたところで、ロキがいくつかの資料を手に部屋へと入ってきた。そしてチガヤの対面の席に座ると、資料を捲りながら眉間に皺を寄せる。

「さて、どこから説明したものか……何せ、君のような事例は俺の代になってから初めてだからな」

「私のような?」

「生きている人間があの泉に漂着する、という事例のことだ。まぁ、そうだな、まずはこの場所のことを話すか。ここはサウスフィナンドに位置する特別保護地区観測所、つまりフィナンド国軍の私有地になる」

「……ぐ、軍の私有地っ?」

 驚いて声がひっくり返りそうになった。慌てて両手で口を押さえるチガヤの様子に、ロキとアルテは顔を見合わせる。

「アルテ、どう思う」

「本当に知らなかった、という反応に見えますね。と言いますか、私たちが軍人であるということもこの子はわかっていないと思いますよ」

「えっ、ロキさんもアルテさんも軍人様なのですか?」

 急に目の前にいる彼らが怖くなり、チガヤは慌てて背を正す。顔を見合わせていた二人は同時に苦笑いを浮かべた。

「軍と言っても、ここはサウスフィナンドの端にある田舎の観測所。それに、軍の私有地になっているのは今俺たちがいるこの壁内部だけだ。あの泉がある周辺は要保護観測地区であって、そこに不慮の事故で流れ着いた君を、俺たちは規則により救助し保護した形になる」

「貴女があの泉に自分から侵入したわけじゃないことは、私たちがよく理解しているわ。だからこの場合、不可侵入罪には問われません。安心して」

 二人の様子に、チガヤは肩の力を抜いて「は、はぁ」と曖昧な返事をする。

 が、すぐに別のことに気が付いた。怖々と、確認する為に質問する。

「あの……ここ、サウスフィナンドって言いました……? 私がいた村はノースフィナンド方面なのですが……」

「うん? それはまた遠くから流れ着いたものだな。アルテ、ジャン達にノース方面らしいと伝えてきてくれないか」

 戸惑う少女に対して、アルテはロキの言葉に頷くと部屋を出て行く。

 残ったロキは改めてチガヤに向き直ると、腕を組みながら椅子の背にもたれ掛かった。そして逡巡しながら、口を開く。


「……君が流れ着いたあの場所には、泉へと繋がる川もないというのに何故か様々なモノが漂着する。それも国内外問わずだ。そのほとんどは植物や小さな人工物ばかりなんだが、ごく稀に生き物が流れ着く時がある。今回の君がそうだ。そしてあの場所に人間が漂着したのは、君を含めて三人目になる」

 ロキは持ってきていた資料の頁を捲り、チガヤへと提示する。

 促されて資料を覗き込んでみれば、厳つい顔をした男性の顔写真が載せられていた。

「一人目はアルクハイト・グレイス氏。この観測所を設営して森を囲む壁を建築指揮した人物で、観測所の初代所長だ。氏がここを発見したのは五十年前。セントラル本部軍の指示でとある山岳警備をしていた際、野党に襲われ川に落ちたのだが、気が付けばあの泉にいたのだという。幸い怪我はなく、自力で森を抜けて近隣の村へと辿り着き、本部へと連絡すると共にあの場所の存在を軍へと知らせた」

 ロキの説明に、チガヤは森を囲っている壁を思い出す。まるであの泉周辺を遠巻きながらに閉じ込めているかのような、高くて大きな壁だった。

 ロキは更に頁を捲る。

「二人目は赤子だった。生後一ヶ月にも満たない乳飲み子が、籠に乗せられた状態で泉に流れ着いたらしい」

「あ、赤ちゃん……?!」

 再び声がひっくり返りそうになった。

 そんなチガヤには構わずに、ロキは淡々と話を続ける。

「グレイス氏以外の人間が、それも意思疎通ができない赤子が流れ着くなんて思いもしていなかった当時の現場は、酷く混乱したそうだ。赤子の身元を調べようにも何も手掛かりがなく、最終的には壁周辺の村に軍が頭を下げ、孤児院へと預けられた。これが二十五年前になる」


 そして、今回。

 資料を閉じ、ロキは視線をチガヤへと向けた。


「そして君が三人目、ということだ。グレイス氏の件と、君からの話を聞く限り、何らかの理由で川に落ちると一定条件で流れ着くということなのか……まぁ、そういうことだ。観測所の方針としては、モノが漂着する原因や条件を調べていきたい。幸いにも今回の君は意識がはっきりしている方だし、調査に協力してもらいたい。手始めに君の故郷について調べさせてほしいのだが、良いだろうか」

「え、あ……は、はい……」

 咄嗟に頷いたが、ほんの僅か、チガヤの表情が曇った。

 その変化に気付いているのか、ロキは少女をじっと眺めた後、ふぅ、と息を吐く。

「……まぁ、気になることや思い出したことがあれば知らせてくれると有り難い。こちらは現象の原因を調べたいだけだからな」

 それだけを言うと、ロキは机に広げていた資料を片付け始めた。

 慌ててチガヤは身を乗り出す。まだロキに聞いておきたいことがあったのだ。


「あの、ロキさん。泉にいた、あの人は……あの方は、誰なのですか?」


 今度はロキが表情を曇らせる番だった。意図的に話を逸らしていたのだろうか、彼は暫く唸り、渋々と片付けかけていた資料を開いて別の頁を提示する。

「あいつは……あー、なんというか、えー………………邪神だよ」


 邪神。


 チガヤは首を傾げる。意味がわからず、ロキが提示した資料へと目を落とした。

 資料には写真が一枚。あの泉の風景に、不自然に輪郭がはっきりとしていない人影のようなものが映り込んでいる。

 風景は細部まで映り込んでいるというのに、人影だけがまるで靄がかかっているかのように、不自然に。

「おとぎ話として言い伝えられているだろう。かつて、世界を滅ぼした、元は火神だったという、あの邪神だ」

「邪神様……? あの方が、おとぎ話に出て来る神様だというのですか?」

「そうだ」

 ロキは真顔で頷く。

 が、すぐに眉を顰め、口調を弱めた。

「……とはいえ、明確にアイツが神であるという証拠はないし、証明もできない。そうなのだろうと思われる事例は山ほどあるが、そのどれもが再現不可能なことで、観測する側としては推測することしかできないからだ……ただ、一番最初に流れ着いたグレイス氏が目撃した時から五十年間、アイツがあのままの姿で、ずっとあそこに居ることだけは、事実だ」

 

 チガヤは先程見た光景を思い出す。

 明るい日に照らされた静かな泉と。

 そこにいる、白髪の青年の後ろ姿。

 ずっと変わらずに居て、あそこに居続けている――


「信じられないのは当然であるし、世迷い言だと思うのなら、それでいい」

 そう言い、ロキは今度こそ資料を片付ける。そして咳払いをした。

「とにかく、今は実際に起こってしまっている現象を調べることが優先事項だ。調査の間、君の身柄は保証するから、協力してくれると有り難い」

 真っ直ぐに見つめられ、チガヤは戸惑いながらも曖昧に頷いた。


 ××× 


 巨大な壁、もとい観測所から暫く歩けば、町があるようだった。

 ロキ曰く、この近辺には元々小さな村しかなかったそうだが、あの壁と観測所が作られるにあたって物資の流通が整備され、村から町へと成長したらしい。

 その町の中に、エルドラン邸はあった。

「アルテがいるとはいえ男所帯である観測所に君を置いておくわけにもいかないし、部屋数の関係と君の面倒を見れる者がいることを考慮した結果、ここになった。まぁ、好きに使ってくれ」

「ひぇ……」

 町を歩くのにそのドレスでは目立つからとアルテが貸してくれた外套の襟元を、きゅっと握る。

 調査の間の借り住まいを用意するということで連れてこられたチガヤだったが、ロキの邸宅がこんな豪邸だとは聞いていない。驚きの声も弱々しいものしか喉から出なかった。ロキが振り返って首を傾げる。

「どうした?」

「いえ、あの……今日はいろいろと、驚きすぎて疲れちゃいました……」

「ああ、それはそうだろうな。少し待ってくれ、すぐに部屋を用意させる」

 チガヤが何に対して驚いているのかわかっていないのだろう、ロキはさっさと邸宅の中へと入っていってしまう。

 チガヤも後に続き、おそるおそる中を覗き込む。邸宅の玄関内は外から見た通りに広々としていたが、落ち着いた色調の家具と壁紙で統一されており、思いの外質素に見える。が、そんな中で一際目を引くような、美しい女性が立っていた。

 すらりとした体付きは指の先まで洗練されたようにしなやかで美しく、花が咲いたかのような華やかであり穏やかにも見える笑みを浮かべている顔は、同じ女であるチガヤでも思わず見入ってしまうほどだ。

 そんな女性と一つ二つ会話をしたロキは、チガヤを振り返る。

「チガヤ、紹介する。俺の妻だ」

「つ…………お、奥様でしたか」

 もはや驚く元気も出なかった。チガヤは我に返ってあたふたと頭を下げる。

「チガヤです。あの、えっと、暫くの間、お世話になります」

「あら……ふふ」

 笑い声が聞こえる。顔を上げれば、美女が上品にくすくすと笑っていた。

「主人から連絡をもらった時は驚いたけれど、こんなに可愛らしい子が来てくれるなんて、嬉しいわ。わたくしはプリシアと申します。こちらこそ、どうぞよろしくね」

 微笑みかけられ、思わずまた見とれてしまう。

 そうこうしている間にロキが屋敷の奥へと向かったかと思えば、すぐに慌ただしく戻ってきた。そしてプリシアへと声をかける。

「すまない、すぐに戻らないといけなくなった。後のことを任せてもいいだろうか」

「はい。じきに暗くなりますから、足元にお気を付けくださいませ」

「ありがとう。行ってくる」

 そしてロキは足早に屋敷を出て行ってしまった。

 観測所で何かあったのだろうか。ぼんやりとする頭でぐるぐると考えるチガヤを、ふいにプリシアが覗き込んだ。

「顔色が悪いわね。大丈夫?」

「え……あぁ、はい……いろいろあって、疲れてしまって……あ、外套、アルテさんに返してくださいって、ロキさんにお願いしなきゃ……」

「それなら主人が帰ってきた時に、わたくしからお願いしておきます。貴女は少しベッドで横になった方がいいわ。お部屋に案内するから、外套をわたくしに渡してちょうだい」

 プリシアに促され、チガヤは外套を脱ぐ。

 と、プリシアが驚くように瞬きし、微笑んだ。

「あら、素敵なドレスね。まるで花嫁衣装のよう」

「え……あ……そう、ですね」

 言われて、ようやく、自身が今どんな格好をしているのかを思い出す。

 真白のドレスを見下ろし、チガヤは曖昧に頷いた。

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