4.覆水

 高校生活の中盤、私は一つ大きな選択をした。


 この年にもなると、いよいよ先を見据えなくてはならない。

 それは周囲の大人びた空気に誘われた末の帰結だった。


 夏休みの空いた時間を利用して、私はバイトをしてみることにした。

 普通の社会、普通の人間、そこに至るための必要な一歩だと考えたのだ。


 がやがやとした雰囲気のある飲食店は置いといて、とりあえず落ち着いた雰囲気の本屋などがいいのではなかろうか。


 こういったときに行うべきやり取りを何回も確認したあと、私は震える指を使ってどうにか番号を入力した。


 プルルルル……って、携帯電話の呼び出し音が鳴る。

 それはこれから会話を行うことの合図であり、私にあらゆる可能性を想起させるものであった。


 死へのカウントダウンのようなその音刺激に、私の心臓の鼓動が合わさって、まるで音楽みたいだなって。


 そんな想像で緊張を緩和しようとしたけれど、ついぞ意味はなかった。


 呼び出し音が止んで、繋がった。


「――はい、もしもし」


 相手の声が聞こえた瞬間、私は胸が締め付けられる感覚を覚えた。

 普段とは異なる目的を持つ会話、それも相手の顔が見えない電話口でのやりとりに、私は極度の緊張状態に陥っていた。


「………………」


 言葉を捻りだそうとしても、私の「間違い」は第一声を許してくれない。もしくは呼吸が上手く噛み合わなかっただけなのかもしれないが。


 とにかく、ここまで酷くなることは私の人生の中でも例がなくて、発言内容をあらかじめ考えてきたという防衛策も、あっけなく潰えてしまった。


 電話口の先にいる男性だか女性だか分からない人が、怪訝そうに私に呼びかける。

 それは何も責めるような声色ではなかったように思えるが、その時の私には脅されているかのように聞こえた。


「あ、あああ、あああの――」


 焦りや諸々から生じる緊張は、私の「間違い」を数倍にも悪化させた。

 あまりに可笑しい響きで、そんな声を聞かせたくなくて、自分の醜態に嫌気がさして。


 私はそれ以上の会話を続けることができず、一方的に通話を切ってしまった。


 そして私は自室に籠って、携帯電話を投げ捨て、布団にくるまって泣いた。


 相手に不義理をしてしまったこと。自分を過信していたこと。それゆえに醜態を曝してしまったこと。


 私は、私の「間違い」を甘く見ていたのだ。


 私が今まで苦労しながらも誤魔化せていたのは、それだけ私が行動に対して消極的で、本気で向き合ってなかったからだった。


 口を閉ざしていた中学時代も。うまく周囲の輪に馴染めなかったのを、こんなものかと無理やり納得させた高校時代も。


 手を抜いていたのだ。それで通用する世界に閉じ籠っていただけだったのだ。


 それから私は変に裏切られたような気分になった。嫌いだった自分がますます嫌いになっていった。


 私はこのままどこまでも堕ちてしまいたいと思った。


 しかし、時というのは残酷なくらいに人々を駆り立てるもの。


 私には再び、受験期が訪れようとしていた。




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