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 今宵こよいは満月。


 雲が流れて月が顔を出し、草花が風にれている。ベアトリスの真正面から月の光が差して、彼女は悠然ゆうぜんと、氷のような視線で彼らを見つめた。


 それだけで、誰も、動こうとはしなかった。


「これではらちが明きません」


 先にしびれを切らしたのは、ジャン=ピエだった。


「早く片づけなさい。時間を掛けるつもりはありません」


「同感です」


 一歩、ベアトリスが前に踏み出す。


 同時に黒い影たちが、一歩、引く。

 

 ベアトリスから近付いて、彼らは距離を置いて、やがてベアトリスを中心に輪になった。


 「――ふっ!」


 背後からの襲撃。


 一人の男が短刀を抜いて飛び掛かった。それを皮切りに次々と輪が乱れて円の中心へと集まったが、彼らの隙間すきまを糸がうようにジグザグに紫の閃光が走ると、鈍い音と、うめき声がして――


 一斉に、侵入者達は地面に顔を伏せていた。


鍛錬たんれんが不足していますね」


 ベアトリスは、ジャン=ピエの後ろから話しかけた。先程まではジャン=ピエの正面にいたのに、乱戦の最中に追い越して、今は真後ろの、庭園の中央にある噴水の頂点に立っていた。タルト生地のような茶色の外枠に二つの皿を乗せた円柱の噴水。放物線を描く水が、静かに流れ落ちていく。


「……彼らは訓練生ですからね。これは長い夜になりそうです」


 ジャン=ピエは左のほほを流れる、赤い血をめた。


「いいえ、すぐに終わります」


 ベアトリスは、ポイっと、噴水の上から短刀を投げ捨てた。この短刀は、最初に彼女を背後から襲った男が持っていた。


「まさか屋形の護衛にまで魔族が関わっているとは思いませんでした。あなたのような上質の素材がこんな場末でメイド稼業にいそしんでいるのは――非常に不可解で奇妙なことです」


「天使が、強盗をしている時代ですから」


「私は保険屋をやっているだけです。それに天使だからといって、聖人である必要があるのですか?」


「いいえ。そんなことは言っておりません。ただ、天使、だなんて、随分ずいぶんとご大層な響きですから、つい、おかしくなっただけです」


 ベアトリスは冷笑した。


 ジャン=ピエの表情が、明らかに険しくなった。


「カルドナ! アーバイン! そこでサボっていないで手伝いなさい!」


 ジャン=ピエが腰の剣を抜いて、勢いよく天に突き出した。彼の呼びかけに、領主館の真上に浮かんでいる満月が横に割れて、二つの影が降りてくる。


「だっさ。全滅してんじゃん」

「全員、不採用だな、こりゃ」


 天使が二人。金髪ウェーブのロングヘアーの女に、銀色のツンツンした短髪の男。


「全員、ゼロ点だな」


 こう言ったのは、男の天使だった。


「こいつはよぉ、保護者の責任にもなるんじゃねーのか?」

「しょーがないんじゃない? あの女、結構、いい感だし」


「いい感じ、どころではないのです」


 ジャン=ピエが、コキコキと首を鳴らす。


「これほどの上質な相手は、初めてお目にかかります。どういう事情で彼女がここにいるのか、世情を専門に扱っている私としては興味が尽きません」


「あんたの趣味なんかに、付き合ってらんないんだけど」


 女が文句を言う。小馬鹿にするように肩をすくめて、右のブロンド髪を大きくかき上げた。


「で、どう始末すんの?」


「聖衣法陣をきます。今宵こよいは満月です。月影つきかげで仕留めるのがいいでしょう」


「モロバレじゃん。せめて暗号で言いなよ」


「バレても構わないから、言っているのですよ」


 ジャン=ピエの背中から二つの翼が生えて、大きく空に舞い上がった。彼に呼応した二人の男女も左右に分かれて、ベアトリスを取り囲んだ。


「天使の唄を、知っていますか?」


 ジャン=ピエが問いかけた。三人の天使は、ベアトリスを中心とした三角形の頂点に位置している。クルクルと囲みながら飛び回っている。


「存じています。あまり好きでは、ありませんが」


「では、上手に歌わないといけませんね」


 三人の天使が歌いだした。


 高い女の声に低い男の声が混ざって、嘆きのような叫びが耳を突いて、とても不快な音階だった。


  永遠の信仰は ラリラララ 

    アリーサの笑いは夜明けまで続く

  万遠 尊  ベルベットシューズと

    の 重を転んだ 歌いなさい

  葛藤の嫉妬  アーアー リリラハ

   夢に問え ハイルバンスト

  悲鳴は 託 ラリラララ  中へ

     宣 ラララ 森羅の渦 

  血の上 リ 幸せになりま

       ンゴを乗せ  しょうよ

      

「相変わらず、とても嫌いな歌」

   

 ベアトリスは簡潔に感想を述べた。ジャン=ピエは歌いながら、どういたしまして、とおじぎをしている。


「もう体が動かないでしょう。悪魔とは相性の良い、ステキなメロディですから」


 ベアトリスの両脚にくさりのような、黄色の光がまとわわりついていた。爪先からとぐろを巻いて、足首、すね、太腿ふともも、股の下へと絡みついてくる。


 ベアトリスは両腕を少し、上げた。


「手、だけで十分です。どうぞ、お好きに」


「では、お言葉に甘えますか――はあっ!」


 三人の天使は一度、停止してから、剣を水平に構えて突っ込んだ。三方向から貫くつもりで、左右の脇腹と、ジャンピエは正面からベアトリスの額を狙った。


「これで……おや?」

「……何だ?……こいつ」

「……嘘……でしょ? ……指……で?」


 三人が勝利を確信したのは、束の間だった。


 左右からの剣は、右手と左手の人差し指の爪だけで。


 ジャン=ピエの剣は、前髪だけで止めていた。


「どうなさいますか?」


 ベアトリスから青紫色の殺気が発せられている。禍々まがまがしい厄災を燃やすような迫力に、三人の全身から汗がき出して、猛烈な吐き気に襲われた。羽だけがバサバサと動くも、両脚は小刻みに震えていた。胸を恐怖が圧迫して、息ができない。


「私は確かに、悪魔です。あなた方の嫌う、魔族です。ですが、あなた方は本物の悪魔がどういうものか、少々、ご理解が足りていらっしゃらないと思います。ジャン=ピエさん? とおっしゃいましたね。これを最後の警告に致します。私達の平穏な日々を邪魔しないのでしたら、ここで見逃して差し上げましょう――それで、これから、どうなさいますか?」


 ジャン・ピエは、息を飲んで、うなだれた。


 二人の天使は、剣を捨てた。


 風が流れて、大きな雲が一つ、満月を覆い隠す。辺りは再び真っ暗になって、闇の中を颯爽さっそうと影が逃げていく。バサバサと羽音が遠ざかっていく。まだ倒れている者もいるようだが、朝までぐっすり眠って、起きたらさっさと帰るだろう。


 これで静かな夜になりそうだ。

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