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 独立を宣言したばかりのラナールでは、課題が山積さんせきしていた。


 盆地として山々に囲まれた豊かな辺境のユートピアだから、先日のオーク襲撃もそうだし、盗賊だの、新興宗教だの、ここを狙う連中は多くいる。また、国家間の紛争地域から少し離れた場所に位置しているとはいえ、戦略的な要所として領地を奪い合った過去まであるらしい。ロイは改めてラナールの歴史を調べるにつれて(セリアスに任せていたので事前に何も調べていなかった)、とんでもない領地を任されたものだと、さっきから鼻水が止まらない。


風邪かぜですか、領主様」


 執務しつむ室の机に向かって、ズビズビと鼻をかんでいるロイに、毛布ごと、ベアトリスが覆いかぶさってきた。とても暖かくて、凄くやわらかくて、いろんな要素で、これでは発熱までしそうだ。


「いや、花粉かな。空気がキレイだから、花粉症にはならないと思っていた」


 鼻水に混ざって鼻血まで出そうになったが、ロイはあくまで冷静を装っている。英雄たるもの、部下を相手にひるんではならない、というわけの分からない矜持きょうじからだった。要するに、ベアトリスが部下じゃなければ良かった。


「東側からの風かもしれませんね。そういえば悩み箱に、そういう投函とうかんがありました」


 ベアトリスは毛布から出て、部屋から出て、手紙の束と一緒に戻ってきたが、また、毛布の中にモゾモゾ入ってきた。


 椅子から半身が落ちそうになる。とても窮屈きゅうくつだ。


「こんなにまった? やれやれ……」


 ロイは先週から領内に『お悩み相談用の箱』を設置していた。政治的な課題にも取り組む必要があるが、それよりも、もっと切実な、領内の生活において領民がどのような問題を抱えているかを知ろうとしてのことだった。それで自分から設置しておいて、いざ取り組むとなると、急に面倒くさくなるロイである。



 ――ちょっと、引っ越してきたオークさんの(主に見た目が)が怖いの。すっごいイヤラシイ目で見てくるし。



「これは若い女性かな? まあ、そういう意見もあるか……ちょっと安直だったかな」


「いえ、男性です。ちなみに、オーク達が味方になってくれて頼もしいという声も聞いています。トロールは私の言うことを聞いてくれるようになりましたし、もう悪さはしないかと」



 ――小麦が不足しています。今年は、不作でした。だから食卓がピーマンばかりです。



「自給自足の辛いところだ。近くに交易できる国はないかな」


「南のエルフなら、応じてくれるかもしれませんね」


「……どうだろ。あそこの女王は人間嫌いで有名だ」



 ――どうすれば、彼女ができるでしょうか。ちなみに、パン屋のショートの店員が可愛いと思います。



「……こういうのも領主の仕事かな?」


「さあ……ですが、真剣に悩んでいるようですね。何かしらの助言をなさった方がよろしいかと」


「あんまり得意じゃないんだよなぁ……いくさで例えればいいか? 押して、引いて、押して、引いて、みたいな」


「私は、特攻あるのみ、と思っています、恋愛も。ちなみに領主様はショートカットはお好きですか?」


 こんな投書がしばらく続いて、



 ――最近、花粉がひどいです。煙と一緒に砂まで飛んできます。洗濯物が汚れます。



 やっと、花粉症の話題に戻った。


「東の山沿いに住んでいるらしい。あっちの海側は……ラーゲンザイルだったか」


 山を挟んで、ラナールの真東にあるラーゲンザイルは東方の大陸でも一、二を争う領地と軍事力を誇る国家である。このラナールは百年ほど前にラーゲンザイル領地だった過去があり、その時に移住した人が今も住んでいたりする。


「大気汚染にいそしんでいるのかな。それがこっちにまで流れてきていると……すれば、ラーゲンザイルには、あまり良い印象が持てないなぁ」


「印象が悪いだけでは済みませんよ、警戒すべきです」


 ここで、無関心だったセリアスが話に入ってきた。ずっとソファに座って読書をしていたが、パタンと本を閉じて、視線をロイとベアトリスに向けた。


「ラーゲンザイルはここ最近、隣国と小競り合いを繰り返しています。このラナールもかつてはラーゲンザイル領でしたから、他人事では済みません。治安維持の懸念けねんはあるのかもしれませんが、オーク達を住まわせたのは個人的には賛成です。住んでしまえば土地に愛着がいて、侵略された時に共通の防衛本能が働きますから」


「俺はそういうつもりで呼んだんじゃないけどな。門番として期待したのは事実だが、戦争のこまとしては考えてない」


「多くの兵を率いた人が、随分ずいぶん偽善ぎぜん的な……今はそれでいいかもしれませんが、早めに警備の者に本格的な鍛錬たんれんほどこすことをおススメしますよ」


「おっかしいなぁ……そういうのとはオサラバする予定だったはずなのに……おや、これは何だろ」


 雨と泥で汚れた手紙が目に入った。急いで書いたのか、字が震えている。



 ――領主様。どうか、お助け願えますか。人さらいに追われて、ここまで逃げてまいりました。南の町外れの、小屋を借りています。幼い子供たちもいます。どうか、ご慈悲じひを。



「人さらい……か……」


 ロイの目付きが変わった。西方でも戦争孤児が増えていたから、そういう子供を狙う組織が暗躍あんやくしている。東方まで手を伸ばしていると噂には聞いていたが、本当だと知って、しかも領内にまで迫っているとあっては放っておけない。


「これも過去の因果か……神がつぐないをしろと言っている。お前の言う、偽善ぎぜんかもしれないが」


 そう言って、ロイは抱き着いたままのベアトリスをべりっとがして、「ちょっと会ってくる」と言い残してから部屋を出ていった。


 毛布にくるまったままのベアトリスと、また、読書を再開するセリアス。


「先程のはいったい、どういうつもりですか、セリアス?」


 二人だけになったので、不満を述べるベアトリス。セリアスの振舞いに納得ができなかった。


「ロイ様に兵の鍛錬たんれんすすめるなんて、どのような想いで今の生活を望まれたのか知らないわけではないですよね?」


「もちろん、知っています。ですが、これも宿命です」


「……よく分からないことを言いますね。鍛錬たんれんなど不要です。いざとなれば私一人で侵略者を追い払ってみせます」


「千人規模では、あなた一人でいいでしょう。ですが、そういう規模では済まなくなるのですよ、いずれ」


「この小国で、ですか? 仮にそうだとすれば、そのような場所にロイ様を導いたのですか? では、もうここから離れるべきです。ロイ様は戦など望んではいません」


「本人の望む、望まないに関わらず、巻き込まれたら一緒なんですよ。それは向こうにいても同じことでした」


 セリアスの回りくどい言い方に、ベアトリスは内心、イライラしていた。メイドである時は、つとめて、極めて、冷静に、無感情に振舞っているつもりだが、本来のベアトリスは直情的だった。


「分かりません。私にも分かるように、説明してください」


「……帝国ですよ。あのまま、あそこにいて、私達が平穏無事でいられたと思いますか?」


「……それは、どういう?」


 八大将軍の一人として仕えていたから、帝国のことはベアトリスもよく知っている。そういう不穏な気配は、彼女にはとても感じられなかった。だが、セリアスが言うからには何らかの思惑しわくがあるのだろう。軍師と実働部隊という間柄もあって、二人の間には、そういう信頼関係は築かれていた。


「皇帝は私達にも、特にロイ様には良く接してくださいましたが……」


「人の感情は、そのように簡単なものではありません。まあ、今は忘れていいです。訪れない未来である可能性も十分にありますから」


 セリアスは昔から全てを語らない性癖せいへきがある。こういう時は尋ねても無駄だし、もしかすると、セリアス自身にも確証はないのかもしれない。だからベアトリスはこれ以上、質問しないことにした。また、彼女としても、こうして話題にすることで不穏な未来へと誘導してしまうことが怖くなった。


 あまり深くは、考えないようにしよう。


 ロイ様の平穏をおびやかす者がいれば、排除する。ただ、それだけのこと。


 セリアスはソファの前の丸テーブルのティーポットを手に取って、空ですよ、という仕草をしている。


「紅茶を入れて、参ります」


 ベアトリスはティーセットのお盆を持ち上げて、部屋を出る前に振り返って、ちらっとセリアスを見た。


 セリアスは、窓の外を見ている。


 執務しつむ室の窓は西に向いていて、遥か遠くからのかすんだ灰色が、ラナールの空にまで伸びていた。

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