3.白米と漬物は困ります

 21時を回り、ときおり客席から大きな笑い声が聞こえてくる。

 その居酒屋は、飲み屋を中心とした飲食店が立ち並ぶ商店街の、その内の一つだった。金曜の夜ともなると、既に酔っぱらった客が二件目にと訪れることも多く、時間と共に賑やかさを増していく。

厨房スタッフの陽斗あきとはタブレット画面に表示された料理を黙々とこなしていた。

「杉谷さん、今日なんかイライラしてます?」

 ホールスタッフの横井なぎさが、客席から回収した皿をシンクに置きに来る際に、陽斗に声をかけた。

「なんで?」

「いや、なんとなくですけど」

 なんとなく、ということは不機嫌が雰囲気に現れていたらしい。事実、仕事をしている最中にも、陽斗の頭の片隅には常に桜太朗さくたろうのことがあった。出勤前に、桜太朗からラインのメッセージが届いていた。

『晩飯いっしょに食べよ♡』

 既読は着けなかった。どうも桜太朗は本気で陽斗と距離を縮めたいらしく、交流の機会を積極的に増やそうとしている。講義の際も隣の席に腰かけ、くだらない話題をふってきた。。

 面倒この上なかった。陽斗は、最後に桜太朗が泊まりにくる今晩を境に、関係を解消したいと考えている。話す機会はなるべく持ちたくない。二人きりで食卓を囲うなんて論外だ。

 陽斗の行動原理は、“面倒”が常だった。

 隣で皿を洗っている横井が、前髪を流すフリをしながら決め顔を陽斗に見せつける。

「私でよかったら…話聞きますよ?」

鬱陶しいと思った。

1つ年下の横井の、気の抜けた態度にも慣れたはずだったが、今の陽斗には心に余裕がないため、眉間に皺を寄せた皺を隠すこともしなかった。

「和むと思ったのにー」

「いいから皿洗えよ」

「はーい」

 横井は唇を尖らせ、洗い作業を再開させた。溜まっていた皿は多いが、横井はそれらを器用に並べながら片付けていく。

 正面のカウンターから、酔った壮年の男が横井に声をかける。

「姉ちゃん、いつも頑張ってるねえ」

「えー、ありがとうございます。何もサービスしませんよ?」

「いいのいいの、いつも元気を貰ってるからね」

「そうなんですか?えー、もっと頑張っちゃおー」

 横井は人の良さそうな笑みをその客に返した。腕は止まらず作業を続けている。

 陽斗は中身のない会話を聞くのが嫌で、調理に集中する。料理を皿に盛りつけて、台の上に置いた。

「8番さん、せせり、ずり、煮卵デース」

 陽斗は軽く咳き込んだ。確かに今日の自分は不機嫌そうに見えるのかもしれない。指摘されてから気づいたが、無意識に発する声はいつもよりトーンが下がっていた。

「お父さんいっつも同じもの頼んでますよねー」

 横井は陽斗に言葉を返さず、目の前の客に話を振る。

「横井」

 声量を上げて呼ぶ。

 横井はわざと片眉を下げて、挑発するように陽斗を睨んだ。

「ちょっと杉谷さん!私いまお父さんと話してるでしょ!ねー、お父さん」

「「ねーっ」」

 二人は息のあった動きで頭を傾けた。

 陽斗は彼らに見えない位置で拳を握りしめる。鋼のような理性が拳を止めていた。

 わざわざムキになるのは、不機嫌を認めてしまうようで癪だった。陽斗は置いた皿を盆に置き直し、席へと運んだ。

 二人掛けのテーブルだった。

客の一人が、陽斗に向かって声を荒げた。

「ちょっと遅いよ店員さん!何してんの!」

「すんませ……」

 料理を置いた次の瞬間、陽斗はその客の頭に拳を落とした。霧散した理性は、拳のスピードを抑えるに留まる。

「いてーよ陽斗!客に向かってそんなことしていいと思ってんのか?まったく本当にオチャメなんだから」

「なにしてんだ尾根田」

 陽斗の声は、腹の底に魔物でも飼っているように低くなる。桜太朗の前で不機嫌を隠す理由もないと思った。不機嫌の原因がそもそもコイツなのだから。

 桜太朗と目を合わせないまま、盆に空いたグラスや皿を載せていく。それなりの重さになり、いったいいつから店にいたのかと、ここ数時間の記憶を辿るが、来店した客の顔などいちいち確認していなかった。今日は普段よりも忙しいし、目の前の作業に集中していた。

 桜太朗の正面に座るもう一人は、終始薄ら笑いを浮かべている。陽斗は彼にとって構内で数少ない友人の一人、有峰尊ありみねたけるを睨んだ。

「タケ。尾根田にこの店教えたのお前だろ」

 尊はビールを一口煽ってから、陽斗に微笑み返した。

「だって、桜太朗が教えてほしいっていうから。ねー、桜太朗」

「「ねーっ」」

「レジはあちらになります」

 スマートホンを取り出し、注文アプリを開いて会計を終わらせるフリをする。

「だーっ、悪かったよ。勝手に他人に教えたことは謝るから」

 尊が陽斗の腕を掴んで制止させる。

 陽斗と桜太朗の関係を、尊が“他人”と表現したことに対して、陽斗は少しだけ安心感を覚える。反対に、桜太朗は不満そうに眉をひそめた。

「お前らもそんな仲良くねーだろ。なんで二人で来た?」

 陽斗は、大学でこの二人が会話しているのを何度か見たことはあるが、プライベートで付き合いがあるとは聞いていなかった。

「まあまあ、重いからそれ一回片付けてこいよ。またあとでな」

「わかった」

「陽斗、がんばってなー。居酒屋の制服も似合ってるよー」

 制服といっても共通のエプロンと、店名が印字された黒のTシャツを身に着けているだけだ。桜太朗の軽口に神経を逆なでされ、陽斗は返事を返すことなくその場を離れた。

 陽斗が厨房に戻ると、先ほどまで横井と話していた客は、席を離れていた。間髪を入れずに横井が話しかけてくる。

「杉谷さんって、尊くん以外に友達いたんですね。意外だぁ」

 陽斗の口角がわずかに上がる。

 回収した皿を流しに置き、横井の肩に手を置いた。

「今後、お前のまかないは白米と漬物だけだ」

「マジですいませんでした」

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