2.ドアインザフェイス


 2限終わりのチャイムが鳴り、10分と経たないうちに食堂は喧騒に飲まれた。

 簡素なテーブルが立ち並ぶその奥で、ちょうど窓から陽の差す位置で、陽斗あきとはひとり昼食を取っている。冷房の効きすぎた空間で、7月末に差し掛かり勢いを増す日差しが、中途半端に心地いい。

 宗教で肉を食べられない留学生向けに用意されたメニューの一つである豆カレーは、やはり誰でも食べやすいように甘口でまろやかだった。陽斗は菜食主義者ではないが、卒業までに食堂メニューの全てを味わっておかなければと、密やかに使命感を持っていた。

 これはもう頼まないな。

 陽斗は殊に刺激物を好んだ。豆カレーのパンチの弱さを、酸味の効いた福神漬けでカバーして口に運んだ。

 不意に、肩をたたかれた。

「アキト、おはよう!」

「……来れたのか」

 そこにいたのは、まだ若干の酒気を漂わせている桜太朗さくたろうだった。シャツとハーフパンツは、陽斗のものを身に着けていた。

馴染んだ自分の服でも、自分以外の人間が着るとイメージが変わるな。桜太朗のよく跳ねた明るい金髪が、そう見せているのかもしれない。

「昨日はホンットーにありがとう!すげー助かったよ。何も覚えてないけど」

「気持ちが安いな…」

「でもこの心に嘘はねーよ。はい、購買で買ったおにぎり。陽斗にあげる」

 桜太朗は隣に腰かけ、手に持っていたビニール袋の中身をテーブルに広げる。

「今俺がカレー食ってるの、わかるか?」

「じゃあこのおにぎり俺が食べていい?ちょっと小腹が空いてて」

「面倒くせぇ。なんなんだコイツ」

 あまり親しくない人間が、我が物顔でパーソナルスペースに入ってくる不快感に顔をしかめた。陽斗は小学校の頃、親戚のおじさんが苦手だったことを思いだした。

 だが深入りされる理由を作ったのは自分自身に他ならない。昨晩の行いの軽率さを恨むしかなかった。

「あんな優しくされちゃったら、もう友達になるしかないでしょ。どうせ陽斗おなじアパートじゃん」

 先ほどから下の名前で呼ばれていることにはわざわざ突っ込まなかった。

 曖昧な理由付けの提案に、陽斗はあからさまに顔をしかめた。これ以上は関わりたくない。助けたのはほんの気まぐれで、面倒ごとはもともと嫌いだ。

「仲良くなれんの?俺とお前が?」

 突き放す言い方をした。わざとだった。

 桜太朗は、鳩が豆鉄砲を食らったような反応を見せた後、元々の童顔がさらに幼く見える笑みを浮かべた。

陽斗は相手の心意を読めず、訝しむ。

「だって俺、陽斗のこと気に入ったし」

「俺はそうじゃねぇけど」

 食い下がる桜太朗に、陽斗はなおも反論する。

「そうなんだ。俺のわがままに付き合わせてごめんな。よろしく」

 傾いた陽の光が、桜太朗の顔を照らしていた。

 眩しい。眩しすぎる。なにより、圧が強い。

 これ以上反論するのも気が引けて、陽斗はため息を吐いた。諦めと肯定を意味していた。

「つーかそもそも、仲良くするしかねーのよ。俺たち」

「は?」

 言葉の意味が汲めず、陽斗は首をかしげる。

「鍵、見つかんなかったの。鞄の中とか、アパートの周りとか、ぜんぶ確認したんだけど、やっぱなかったんだよ」

「そうなのか」

 陽斗自身、桜太朗を家に運ぶ前に、彼の荷物から鍵を探してはいたが、見つからなかったため桜太朗を自室に引き入れた。やはりアパートまでの道中で紛失してしまったらしい。

「で、来週末に母さんが家に来るんだけど、そんときに開けてもらおうと思って!

スペア渡してるから」

「その間お前はどうすんの?」

「友達ん家に泊めてもらう!」

「うん?」

 陽斗はその話が自分とどう関係するのか読めず、曖昧に頷き返す。

 カレーを食べ終え、口の周りを紙ナプキンで拭う。給茶器で淹れたお茶を胃に流し込む。陽に当たり少し生温くなっていた。

 桜太朗が、陽斗の肩を抱く。

「つーわけで、よろしくな。親友」

「なんでそうなるんだよ」

 手に持ったコップを、隣に並ぶ顔面に叩きつけたい衝動にかられる。

「マジで助かる、ありがとう陽斗」

「うるせぇ。つーかさっきから名前で呼んでんじゃねえ」

「俺のことも名前で呼べって!サクとか、女友達はさっくんって呼んでくれるよ?」

「離れろ。離れろ尾根田」

 どういう神経で頼みごとをしているのか理解できない。さっきまでの仲良くしたいだのの発言は下心でしかなかったのか。

「また鍵無くしたって大家さんに言ったら、めちゃくちゃ怒られる。大家さん超怖いじゃん」

「知らねーよ」

「じゃあ、今日だけ。どうしても今日だけ泊めてくんない?明日は他当たるから。頼むよ陽斗」

 桜太朗は、射貫くようなまっすぐな目を陽斗に向け続ける。

 無下にし続けるのが心苦しくなっている。一日だけなら、と傾きかけている自分がいることに辟易する。今までの人生でこれほどまでに圧された経験がないため、自分が圧しに弱いという事実を、このとき初めて知った。

 食堂の喧騒に、再び陽斗のため息が呑まれていった。

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