聞きたいのは君の声

皐月あやめ

1 電車の出会い

 その日、わたり正道まさみちは、朝からツイていなかった。推しの配信を見ている内に寝落ちしてしまい、充電を忘れていたので充電はもうあと数パーセントしかなかった。慌ててポータブル充電器をテレビ台から引っ張り出したら、コードが引っかかってゲーム機を足に落として悶絶した。朝食に食べようと思っていたパンにカビが生えていた。まだ六月なのにセミが鳴いていた。通勤中に固形栄養食を買おうとしたら、電子マネーのチャージが足りなくてレジを止めてしまった。後ろに並んでいた客に舌打ちをされたのが耳について離れない。会社では自分の番でコピー用紙が切れるし、食堂の定食についているお茶がなぜかやたら濃くて、最後まで飲みきれなかった。

 極めつけに。

「亘くん、ちょっと」

 今日の分の業務をこなして帰ろうとしたところ、上司に呼びとめられた。

「今急ぎのゲラが戻ってきたの。悪いんだけど、これだけ、やってくれないかな」

 そう言って渡された校正原稿の束はとても「だけ」という量ではなくて、亘は時計を確認する。

(今日は20時半から推しの生配信……)

 ふたたび上司に目線を戻すと、有無を言わせない笑顔がそこにあった。

「ごめんね、亘くんの仕事は正確だから頼りにしてるわ。よろしく」


 結局一時間やそこらで終わる量ではなくて、推しの配信をPCでリアタイできなかった。肌にまとわりつくようなぬめり気のある暑さに、疲労も倍増してため息をつく。気がついたら電車待ちの列の人数も増えていて、よりいっそうげんなりした。

(まあ、たまには残業もしないと、スパチャも気軽に投げられないしな)

 そう思って自分を納得させようとしたけれど、朝からの不運続きに打ちのめされた気持ちは消えなかった。

 せめて携帯でリアタイしながら帰ろうと、電車に乗ってすぐにスマホを取り出した。人混みの中でイヤホンを耳に入れたとき――近くに女子高生を見つけてしまった。胸まである長くまっすぐな髪と、べっ甲のような色のバレッタ、空色のセーラー服が目を引いた。

(ああ、ツイてないな)

 亘は女子高生が苦手だった。

 高校は男子校だったから、自分が学生のときに女子高生とは接していない。けれど、あの制服やカバンを見ると、自分とは全然別の世界にいる生物のような気がしてしまう。

 女子高生のほうから見ても、32歳の自分は疲れたおじさんに見えるだろう。

 それでいて、相手は未成年だから大人の自分には何かあった時に保護責任が求められる。こちらはたとえば、痴漢冤罪になっても守ってもらえやしないというのに。

 もう21時になろうというのに、こんな時間の電車に女子高生がいるなんて、やはりツイてないと思った。

 あまり見ているとそれだけでも訴えられそうな気がして、スッと視線を外した。人に押されながらも気を取り直してスマホの動画アプリを開く。亘の推しである〈陽太ひだまりの〉は画面の左下にいて、焼き肉を焼くゲームをしていた。今日は雑談配信の予告があったけれど、簡単なゲームもしながら話すことにしたのだろう。


『――思ってたより並んでて、でも私並ぶのって結構好きだからわくわくしながら並んでたのね。だって並んでる間ってさーあ、いろんなことをのんびり考えられるじゃん? どんな味なのかなー、とか、やりかけのゲームの続きはどんなのかなーとかとか、前のカップル付き合って何年目かなーとか、……っあはは! コメント「わかる」派と「待つの嫌」派で割れてるっぽい。じゃあねじゃあね、わかる勢のみんなはさ、何時間までいける?』


 当然ながらもう話は進んでいて、今の流れについていけないのがもどかしかった。親指でコメント欄を少し遡り、どうやら創作クレープが美味しい店に行ったときの話のようだと知る。陽太まりの、通称〈ひだまり〉は甘いものを食べに色んな店をめぐっては雑談枠で感想を言う。設定上は「お花の国にあるお店」ということになっているが、一部ファンの間では彼女の行ったらしい店も特定されている。


(あとでアーカイブチェックして、切り抜きに使いたいところを……やっぱり頭から聞かないと、正しい流れが読めないからな……それはそれとして声が聴きたいから、聞くけど……)


 ざっくりと内容を把握したら彼女の話に集中しようと、イヤホンに手を添えて耳に押し付ける。そうしたところで音質が変わるわけではないのだが、何もしないより集中できる気がするのだ。

『――でさ。私の二人くらい前に一瞬空きができたんだけど。そのときしれっと女の子が――』


「……さい」


 何か聞こえた気がしたが、亘は彼女の声を追うのに集中していた。

 だから。


「やめてください!」


 前に立っていた女性が大きな声を出して振り返った時、亘は驚いて手に持っていたスマホを落としてしまった。

「あ」

 スマホを拾おうとかがみかけたとき、前方の女性の声が〈ひだまり〉の声の間を抜けて突き刺さる。


「すみません、この人痴漢です!」


(え、どのひと?)


 そう思って顔を上げると、周囲の人々の視線が自分に降り注いでいた。本能的に状況を把握してサッと血の気が引く。


(これは、やばいやつ、なのでは)


「ヤダ、痴漢?」

「だれかつかまえた方がいいんじゃ……」


 ――痴漢冤罪。

 実際にその渦中に放り込まれるなんて。

「っ、いや──」

「触られる前、録画するときみたいな音も聞こえました。盗撮も、したんじゃないですか」

 確かこういうとき、対策があった。けれども、いざ自分が注目の的になると頭が真っ白になる。

 車内アナウンスと耳に流れ続ける〈ひだまり〉の声が混じって、隣にいた男性に乱暴に引っ立てられる。スマホを拾うことも出来ぬままに取り押さえられてまず考えたことは、(会社クビになったら、しばらくスパチャは出来なくなる)だった。

 視線の先にあったスマホが、誰かの細い指に拾われる。



「──そのひと、チカンじゃないですよ」



 ざわめきの中、澄んだ声が響いた。

 ハッとして声のした方に顔を向けると、あの女子高生が、じっとこちらを見ている。

 亘を取り押さえていた男性の手が少しゆるんだ。

 痴漢を訴えた女性が、女子高生の発言に「なっ」と声を上げた。


「こ、この人です。ずっと後ろにいた男性は、この人でした」


 女子高生は「ちがいます」と首を振る。


「だってこのおじさん、ずっと動画見てました。わりと夢中で。ほら」


 そう言って彼女は、人の隙間をぬってさらに近くまで来ると、亘のスマホを印籠いんろうのように突き出した。スマホの画面では〈ひだまり〉が、最後に見たときと変わらず、明るい笑みで口を動かしている。

『──かっこいいよね、さらっと正しいことをできちゃう人って──』

 公衆の面前でVtuberオタクであることがさらされてしまったことに、血が逆流するような感覚になった。が、次の瞬間には痴漢冤罪よりは遥かにマシだと気がつき、亘はかすれた声で、「そうです」と言った。

「ぼくは……ずっと、動画を……」

「おじさん、乗ってから右手はずっとスマホ持ってて、時々左手でイヤホンも触ってたし、チカンしてるヒマは無かったんじゃないかと思います。それにもし盗撮してたなら、消す暇もなかったと思うし」

 女子高生は亘のスマホを勝手にすいすいと操作してカメラロールも見せた。そこにはソシャゲのガチャ画面や〈ひだまり〉の配信のスクショがずらりと並んでいる。イヤホンから流れていた〈ひだまり〉の声は途絶えた。

「――ほら、カメラロールにも盗撮は無いですよ。さっきの動画のスクショとかはあるけど」

 ダメ押しの弁護に、とうとう亘を取り押さえていた男性は手を離した。痴漢をされたという女性は、赤くなって首を振る。

「そんな……でも、ウソじゃ……」

「うそだとは思わないです。でも、別にいるはず。私の位置では、このおじさんしか見えませんでしたけど……」

 女子高生はそこで躊躇ためらうように言葉を切った。次の駅に到着するアナウンスが流れたとき、女性の二つ隣の男性が「あの、」と手を挙げる。

「気になってたんですけど……隣の人、なんかもぞもぞしてて……」

 次に注目の的になった中年男性は、「なんで俺なんだ!!」と大きな声を出し、カバンごと腕を振って暴れた。悲鳴が上がり、酒臭い呼気が亘のところまで臭ってくる。隣にいた男性が今度は酔っ払いを取り押さえようと動いた。そのとき、電車が駅にすべりこみ、酔っ払いは振り向くと人をかき分けてドアにまっすぐ突進する。

 おそらく反射的に、女子高生も動いた。

「すみません! その人止めて! 逃げちゃう!」

 彼女のはっきりした声が酔っ払いの背を追う。ドアが開くのが見え、亘もさらにその後を追うようにして電車から降りた。そのときはただ一刻も早く電車から離れたい一心だったが――ホームに降り立ったとき、ちょうど酔っ払いが女子高生に向かってカバンを振りかぶったのが目に入った。亘は体勢を崩しながら斜め前方にいた彼女の腕を掴んで引いた。

「わっ」

 女子高生の驚いた声を横に聞いた次の瞬間、亘の肩にごすっ、という衝撃と痛みが襲う。

「いっ……!!」

 ホームからも悲鳴が上がり、近くにいた駅員がすっ飛んでくる。周囲の男性の協力もあり、何とか酔っ払いをおさえたようだ。いつの間にか電車から降りていた痴漢された女性が、駅員に何か説明しているらしい。

 しゃがんで痛む肩をさすっていると、横から誰かに覗き込まれた。


「大丈夫です?」


 心配そうな声だった。先程の女子高生が、こちらを見ている。かがんで流れた長い髪が、夜風に揺れていた。亘は目を泳がせたのち、こくりと一つ頷いた。

「……痛いけど。さすがに折れたりはしてないだろうから」

「引っ張られたときはびっくりしましたけど。おかげでこっちは尻もちついたくらいでした」

 それから女子高生は連行される酔っ払いを見て、立ち上がった。

「ついて行って、事情を説明しなくちゃ。おじさんも立てますか?」

「え……ああ……」

 痴漢冤罪をかけられてから駅長室に行くと詰む、と聞いたことがある。立ち上がるのは立ち上がったが、歩き出すのをためらっていると、女子高生はこちらの不安を察してか力強く頷いた。

「大丈夫! また私が証言してあげますから。ただ、一つ残念なことがあって……」

 女子高生が、後ろ手に持っていたものを亘の前に差し出した。それは亘のスマホだったが――スマホの液晶が思いっきり割れていた。


「あっ!?」


 思わず大きな声を上げてしまう。女子高生はすまなそうに眉を下げた。

「さっき尻もちをついたとき、手放しちゃって、お姉さんのヒールで……。車内で拾ったときは大丈夫だったのに。データは無事だといいんですけど」

 オタクにとってスマホは生命線である。データが全部吹っ飛んでいたら、と思うとめまいがして眼鏡の下から目頭をおさえた。


(今日は本当に、最悪な日だ)


「おじさん、とりあえず行きましょ。あのお姉さんにも、ちゃんと謝ってもらわないとだし」


 女子高生は後ろに回って亘の背中を押す。それで強制的に踏み出すことになった一歩をきっかけに、重い体を引きずりながら亘は女子高生と共に駅長室に向かうのだった。

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聞きたいのは君の声 皐月あやめ @satsuki-ayame

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