第1話 奴(その②)
それは、ある日の休憩時間のことだった。
深夜の三時過ぎ。他の連中はまだ作業が終わっていないのか、粗末なベンチが並べられただけの小汚い休憩所には俺ひとりだった。
夜食の菓子パンをかじっていると、樽のような肥満体をゆすって蟇田が現れた。他に空席があるにも関わらず、何故か隣に腰かけてきた。独特のすえた体臭がぷうんとし、俺は思わず顔をしかめた。
「えぇと……沢渡サンでしたっけ? お話するのは初めてでしたっけねぇ。ま、これを機会にひとつ、よろしく」
話しかけてきた。
蟇田のことを嫌ってはいたが、面と向かってこられると拒絶できないのが、俺の性格的な弱さだった。
奴は続けた。
「ボクが夢や希望や思ったことを現実にできる〝力〟の持主なのは……勿論、あなたも知ってますよねぇ?」
「え、えっ?」
何の前置きもなく唐突に話を切りだすのが、奴独特の癖だった。それが、俺を戸惑わせたのだ。
すると、蟇田が半開きの眼で見据えながら、
「おや? 何だかボクの言うこと、疑っているようですねぇ?」
「い、いや、別に……」
「よろしい。じゃあ、沢渡サンにだけ、証拠を見せてあげましょう。権堂って、いるじゃないですか」
権堂とはこの運送会社の社員で、俺たち派遣の管理・監督をしている男の名だった。
「あなた、権堂にムカついているでしょう」
「お、おいっ⁉」
いきなり何を、と文句を言おうとすると、奴は芋虫みたいに太い指を広げて制した。
「わかってますよ。ここにいるボクら派遣社員全員、多かれ少なかれ思っていることですから」
権堂が皆の反感を買っているのは事実だった。正社員であることを妙に鼻にかけており、その所為か俺たち派遣を邪険に扱うことが多かったためだ。
しかし、休憩所で話すのに適した話題ではなかった。他の正社員の耳目がどこにあるかわからないからだ。
「権堂が苦しむところ、見たくないですか? いいや、あなたは見たいはずだ。そうでしょう、そうでしょうとも。よろしい。あなたに特別、見せてあげましょう」
「な⁉ 何を決めつけ……」
そこへ、ガヤガヤと他の同僚たちが休憩所へ入ってきた。
それが合図のように奴は腰をあげると、遠く離れたベンチへと移動していった。そしてそのまま、もう何の関心もないふうに、こちらへ顔を向けもしなくなった。
な……何なんだ、あいつ。
心の中で独言した。奴のすえた体臭からは解放されたが、黒いもやもやしたものは胸中にわだかまったままだった。
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