最終話 覆う影(完結)

 あの日から、数週間が過ぎていた。


 正月特有の狂騒的な馬鹿騒ぎもようやく終わり、地に足をつけた日々が戻ってきていた。不幸な事件や出来事は数あれど、世の中はおおむね平和で平凡だといえた。


 だが僕は、懸命に不安を抑えながら、これを書いている。カーテンを閉め切ったワンルームの自室で震え怯えながら、これを書いている。書くことで、少しでも怖れを抑えられるよう願いながら。会社は無断欠勤を続けていた。夜も昼も眠れない。食事も喉を通らない。そうだ。この期に及んで普段通りの仕事や生活を送ることに、何の意味があるというのか。


 あのオフ会の日。


 出しぬけに〝幻視する癖〟が甦ったあの日、ほうほうのていで暗闇の〝神殿〟から白く眩い光のなかへ飛びだしたあの時、光は一瞬にして夜の闇へと切り変わった。


 そして、新宿は歌舞伎町の丈高いビル群の向こう、星ひとつない凍てつく夜空に、僕ははっきりと見たのだ。


 〝あれ〟の姿を。


 〝あれ〟は巨大だった。


  人とも龍ともつかぬ、あるいは両者を一緒くたにしたような巨体。


 それを支える爬虫類じみた表皮の太い脚。腕も太く、指先には鋭いカギ爪が生えていた。それに比して貧弱な、背の小さな二対の翼。頭は蛸や烏賊などの頭足類のかたちを思わせ、口にあたる部分には無数の触手が生えていた。うねうねと、独立した生き物のごとく蠢いていた。


 〝あれ〟が何なのか、僕にはよくわかっていた。


 H・P・ラヴクラフトが創造し、それに魅せられたA・ダーレスやR・ブロック、その他の作家らが一緒になって紡ぎあげた〝神話〟に登場する、〝邪神〟の姿だった。全てを覆う黒い影。蹂躙する巨大な魔王。破壊する神。


 僕は恐怖した。


 いや、違う。


 あの邪神の姿に恐怖したのではない。


 あの邪神が〝象徴〟、あるいは〝予兆〟するものに恐怖したのだ。


 前にも言ったはずだ。


 僕の〝幻視〟には〝象徴性〟、〝予兆性〟がある場合がある、と。


 その証拠に、ここ数日の新聞や雑誌、TVなどのマスコミは、とある集団内で行われた殺人事件の話題で持ちきりだった。ホラー小説や映画好きのファンサークルを隠れみのにしたカルト集団が、ひとりの女性を〝宗教的儀式〟のために殺害、食人したという事件――それは1967年カリフォルニアで儀式殺人や食人行為を行ったとされる悪魔主義サタニズム集団、〝4P運動〟の都市伝説を彷彿とさせた――で一色だった。


 つけっぱなしのTVのワイドショーは、今日も見覚えのある顔を映していた。


 被害者の顔は、巫女めいたあの彼女。


 加害者であるカルトの首謀者にして事件の主犯は、眼鏡をかけた三十過ぎのあの男。


 ――とまれ。


 〝あれ〟が〝象徴〟し、〝予兆〟するものとはいったい何なのだろうか。


 いつか起こるといわれている、南海トラフなどの列島規模での大地震や富士山噴火などの自然災害だろうか? それによって、多くの反対を押しきって再稼働した原子力発電所が、二度目の大事故を引きおこすのか? はたまた、集団的自衛権にもとづいて米国にくみし、その対立国との争いに巻きこまれての戦争か? 対立国からの細菌兵器や自爆テロなどの報復の恐れは? 北の某国からの飛翔体、弾道ミサイルの雨が降ってくる可能性は? ひょっとしたらまた、致死率の高い新たなウィルスが現れて、未曾有の大規模感染を引きおこすのかもしれない。いや、あるいは、もっと、別な、何かが――。


 いずれにしろ、この平凡で慎ましいながらも幸せな日常の全てを呑みこみ、押し流し、連れ去っていく、巨大な津波のようなものには違いあるまい。


 それに対し、僕みたいな小さな一個人が、何ができるというのか。


 どう抗えるのか。


 巨大津波が来るその時を、虚しく待つことしかできないのではないか。


 為すすべもなく、ただただ怯え――。


 震え、慄きながら。

 






                                        了              

                    

                 

(2023)

 

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