第3話 ドンドコ(その④)

「全然、食べてないじゃないですかぁ、〝えら呼吸〟さぁん」


 眼鏡の三十過ぎが、肉片をつまんで、ほらっ、と差しだしてきた。


「ほらぁ、食べてくださいよぉ」


「い、いや……」


 僕は後ずさりした。


「美味しいですよぉ」


「食べなさいよぉ」


 他の者らも同じように、箸でつまんだ肉片を差しだしてきた。


「食べろぉ」


「食べろぉ」


「食べろよぉ」


 食べろ食べろの大合唱が、僕を圧し潰そうとした。


 すると、白目をむいたままだった彼女が、グルっと眼球めだまをまわしてこう言った。


「食べるときは――わさび醬油で食べてね」


「ひっ⁉」


 引きつった声をあげ、僕はその場から逃げた。逃げた。駆け逃げた。追ってくる。追ってくる。追ってくる。あいつらが右手に箸を、左手に小皿を持って追いかけてくる。箸には一切れの彼女の肉片、小皿にはわさび醬油。しかし何故、何故に彼女はわさび醬油なのか。普通の醤油じゃダメなのか。ステーキ醤油はダメなのか。バター醤油もダメなのか。あぁ。あれか。殺菌性。殺菌性があるからか。わさびに。だけどおかしい。おかしい。あらおかしい。何故に、何故に出口が見えないのか。何処どこを、何処を走ってるのか。走って走って、ドンドコドン。太鼓のようなあの〝音〟が響いている。ドンドコドンドコドンドコドン。鳴りやまずにまだ響いている周りは闇だ闇のなか新宿は歌舞伎町の居酒屋のなかだったはずなのに暗闇の支配する〝神殿〟をずっとずっと走りまわっているここはいったい何処だ何処だ何処なんだ冬だというのに汗みどろでどろどろで駆けずりまわって何で何でこんなに暑いんだ暑くて暑くて気が狂いそうだ出口は何処だ何処なんだここはいったい何処なんだ僕はどうした、どうした? どうしたんだ⁉ あぁ! あの娘、僕がこのままおかしくなってしまったら、いったいどんな顔するだろう! ……ドンドコ。


 遅ればせながら、気づいた。


 これは――。


 〝幻視〟だ!


 幼い頃に繰り返し見、成長するにつれ見えなくなっていたあの〝幻視する癖〟が、今になってまた甦っていたのだ! それも、かつてなかったほど強烈に!


 進行方向の遠く向こうに、小さく白い点が見えた。


 光だ。


 光に向かって駆けていくにつれ、それが次第に大きくなっていく。


 出口だ。


 光あふれる出口に向かって、駆けていく。


 そのまま、白くまばゆい光のなかへ飛びこんだ。


 そして、僕は見た。


 〝あれ〟を。


 あの姿を――。

 



 

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