一 迷子と勅命③



 数日後。

 いつもと同じく各人の予定報告から始まろうとした周家の朝は、思わぬ来客のせいで中断することになった。

「──ちようていの使者が来ただと?」

 日課であるしゆはいかたむけていた父、高堅がとびらへと目をやる。取り次ぎにきた使用人が紙のように白い顔でぶんぶんうなずくのをいぶかしげに見ていたが、はたと目をかがやかせた。

「もしやあれか。秦様の温泉接待が実ったのだな? それで商業けいやくのために役人が来たのであろう!」

 わぁっ、と朝食の席がいた。

「おめでとうございます。大口のお仕事が入って周家もあんたいですわ」

「お父さますごいわ! これまでのがめつさが実ったのね!」

「さすがはだん様っす」

 手をとりあう静容と翠鈴、はくしゆをする隼をよそに、伝えに来た使用人はそうはくのまま今度はぶんぶんとかぶりを振っている。

「ん? なんじゃおまえは、白い顔をして。喜びのあまり腹でも下したのか? まあよい、とにかくむかえてごあいさつせねば!」

 早くもみ手しながら父が出ていき、翠鈴は母と隼とともに接待の準備に取りかかった。よくあることなのでかんたい用の一式がまとめてそろえてあるのだ。

 かざり付け用の布や置物の入った箱を客間に運んでいると、後ろからきた隼がひょいとそれを取り上げた。

「俺やるんで。先に空気入れえといたらどうすか。最近あの部屋使ってないでしょ」

「そういえばそうね。ありがと、隼」

 ありがたく荷物を任せ、客間に入って窓を開けていると、すぐに隼も入ってきた。たくいたり置物を並べたり、手分けしてやっていたが、ふと思い出したように彼が話しかけてきた。

「そういや、この前の持ち場にはもう行かないんすか? ほら、戴様のしきの近く」

「ええ。あのあたりがきつぽうだったのはあの日だけだったから」

「けどあの若君様と約束してたんじゃ? またあらためて会いましょうって」

 翠鈴はきょとんとして彼を見返した。

「なんの話?」

「あれ、ちがいます? 宋さんが言ってましたよ。お嬢さんがりようえんめぐまれそうでやったわねーって。色男でしたもんねー。俺には負けますけど」

 翠鈴はしばし考え、やっと思い当たって目をみはった。食器売りの宋おばさん、想像力が豊かにもほどがある。

「そんなわけないでしょ! ただ通りすがりに会っただけなんだから」

「その通りすがりの出会いから生まれるものもあるって話じゃ」

「ないってば。あれはただの人助けよ。つまり善行よ、いつものやつ!」

 まあ助けたはずが助けられたのだけれど。とにかくそれ以上に何か発展するわけがない。

 しかし隼はそうは思っていないのか、意味ありげに見ている。

「善行善行ってじゆもんみたいに言ってないで、そろそろいた話も聞いてみたいっすけどねー」

「いやよ、一生善行し続けるわ。死ぬまでずーっと徳を積みまくってやるんだから」

「……」

「さ、次のを運びましょ。お酒も取ってこなくちゃ」

 あっさりと話を切り上げた翠鈴に、隼は何か言いたそうにしていたが、結局はかみをかきつつ「へーい」と従った。

 元の部屋にもどり、母の指示のもとたくを続けていると、ガタンと大きな物音がした。

 見れば、高堅が部屋の戸にもたれるようにしながら入ってきたところだった。小一時間前は勇んで出て行ったはずが、さっきの使用人よりもよほど真っ白な顔色になっている。

「……大変なことになった…………」

 つぶやくなりがっくりとゆかひざをついたので、みな、何事かと顔を見合わせる。

「どうしたの? 接待作戦が失敗したの? でもそんなの今までもあったじゃない」

「おしまいじゃ……。周家一族……全員らわれてけいまっしぐらじゃ……」

「ええっ!?」

 翠鈴は目をむいて立ち上がった。

 まったく意味がわからないが、いつでも自信満々な父がここまで打ちひしがれているのだからよほどの事件が起きたようだ。

「どうしてっ? も、もしかして、不正をしたってお役人についきゆうされたとか!?」

「不正も何も、一緒に温泉行っただけでしょ。それで死刑とかないっすよー。せいぜいばつきんかひどくてけいだってのに。俺、もっとすごいことやったお歴々のことチクってきましょうか?」

「まさかお父さま……、わたしたちも知らないうちに、人の道にはずれたごくあくなことをやってたんじゃ……!」

「旦那様が極悪なのは人相だけっす。誤解があるなら俺が代わりに解いてきますけど」

 浮き足立つ翠鈴と、のんに言いつつも目が殺気だっていく隼をよそに、ただ一人無言だった静容はしよくたくから酒器を取ってくると夫の頭上に中身をぶちまけた。

「うぷ……っ、ななな何をするかっ、酒がもったいないであろうがっ」

「死刑とはおだやかじゃございませんわね。何がありましたの?」

「う、おおっ、そうじゃ、これじゃ!」

 妻のてつぺきともいえる冷静さと、けちな精神をげきされたことで我を取り戻したらしく、高堅があたふたと書状を差し出した。

 静容が開いたそれを隼とともにのぞきこんだ翠鈴は、思わず息をんだ。

「え……、ちよくめい!?」

 言うまでもなく、こうていが下す命令が勅命である。黄金でふちられたそれはいんのされた勅書だったのだ。

 もちろん、こんな下町の商家に届くようなしろものではない。勅書を運んできたとなると使者の規模もぎようぎようしいもののはずだ。父がこしかしたのもなつとくである。

(いやいや、納得できないっ。どうしてうちに皇帝陛下の勅書が届くの!?)

 混乱しながら文面を追おうとしていると、高堅がうめくように口を開いた。

「つまりは……太子殿でんおぼしらしい。殿下のはつこいむすめさがしておられるのだそうだ」

 ちんもくが落ちた。

 皇帝の勅書と初恋の娘というのがとつに結びつかず、問いかける言葉も出てこなかった。

「太子殿下というと、確か、皇帝陛下のお一人きりの皇子様であらせられましたわね。ゆえに生まれながらに皇太子となられたとか」

 最初に我に返った静容が言うと、高堅も重々しくうなずく。

「そうじゃ。幼少時からお身体からだじようでなく、二十歳はたちまで生きられるかわからぬと予言を受けたこともあったらしい。さっきの使者が言っておった」

「まあ……」

 翠鈴はまゆくもらせた。雲上の世界の方々にえんなどあるはずもないから知らなかった。二十歳まで生きられるかわからないとは、なんてお気の毒なきようぐうだろう。

さきごろ、煌国の公主とえんだんが持ち上がったそうじゃ。太子殿下も初めのうちはお受けになられたが、急に態度をひるがえされてな。けつこんする前に一目でいいから初恋の相手に会いたいとおおせらしい。会うまでは公主をむかえても結婚せぬ、と。それで困り果てたかんらは、皇帝陛下のご命令のもとにその初恋の娘を捜したらしいのじゃが……」

 苦々しげに説明をした高堅に、ふーん、と隼が相づちを打つ。

「なんか平和っすね。太子様のわがままに皇帝様も朝廷もり回されて」

「でもわからなくもないわ。お身体が弱くていらっしゃるんだもの、皇帝陛下もそりゃ大切になさるだろうし、なんでもお願いを聞いてあげたいと思われるでしょう。朝廷の官吏さま方だってそうよ。たったお一人の皇子さまなんだし……」

 ゆいいつの皇子であり皇位けいしよう者である人が、二十歳まで生きられるかわからないと言われるほど病弱なのだ。いろんな意味でしんちようになるのは理解できる。

 見たこともない太子やその周辺の人々に対して同情していた翠鈴は、ふと首をかしげた。

「ん? じゃあこの勅書を持ってきたのはその初恋相手を捜してる官吏さまってこと? なんでうちに来たの?」

「まさか、おじようさまうるわしの初恋の君……?」

「そんなわけないでしょ。お目にかかったこともないのに」

 隼のつぶやきにあきれ半分に答えると、「ですよねー」と返ってきた。彼だって本気で言ったわけではないのだ。

「とにかくはかなげでたおやかな美少女を求めてきたと使者は言っておる。そんな娘はうちにはおらぬと言ったのじゃが、聞かぬのじゃ」

「ちょっと、それどういう意味? ──でもわたしもそう思うわ」

 父の失礼な発言に翠鈴は目をむいたが、すぐに首をひねった。儚げで嫋やかな美少女だなんて、確かに自分を形容した言葉とは思えない。

「となると奥様か、俺っすかね」

「なんで自分も入れるのよ。捜してるのは『娘』なのよ。だったらお母さまだって違うわ」

 太子が年上好みという可能性もなくはないが、それなら『初恋の女性』という表現になるのがとうだ。第一、下町で家の奥の仕事に専念している母が太子と出会えるわけがない。

「たぶんちがいだったのよ。近所の家とちがえたんじゃないかしら。もしくはそれとは別件の勅書があったのにこっちを持って来ちゃったとか」

「別件って、皇帝様がここにどんなようで勅書を出されるんすか」

「それはそうなんだけど、でもほかに思いつかないんだもの。うちにはわたし以外に娘はいないんだし──」

 困り顔で反論していた翠鈴は、はたと口をつぐんだ。

 ある人物の顔がのうに浮かんだのだ。

 見ると、母も隼もきよかれた顔をしていた。同じことを考えたらしい。

 冷やあせき出すのを感じながら、翠鈴は父へと目をやった。

「お父さま……。ま、まさか」

 がっくりと高堅が再び床に膝をつく。

「その娘の名は…………萌春というそうじゃ」

 ──その場にいた全員の顔がそうはくになった。



「なんで萌春姉さまが太子さまと初恋なんかはぐくんでるの──!?」

 道理で父があれほど取り乱し打ちひしがれていたわけだ。みように納得しつつも翠鈴は動転してさけんでいた。

 周萌春。それは翠鈴の姉にあたる人である。──表向きは。

「まずくないっすか。万が一、萌春様が初恋の君だったとして……あのお方が大人しく太子のお召しに従うとは思えないんすけど」

 さすがに隼の顔も引きつっている。静容もちんつうおもちでうなずいた。

「そうね。ご使者をらしたあげく勅書に落書きしてたたき返しかねないわ」

「もしくはめんくさがっていつしゆんで山にげるか──わずらわせんなってぶち切れて皇宮になぐり込みかけるかも」

「どちらにせよ周家はお終いね……」

だん様のおつしやったとおり……一族全員けいっすね……」

「ちょ……ちょっと待ってよっ!」

 うなずきあう二人に、翠鈴はめまいを覚えながら割り込む。

 確かにこれはとんでもない事態だ。だからといってすんなり死刑を受け入れたくはない。

「ねえ隼、姉さまは今どこにいらっしゃるんだっけ? わたし、呼びに行ってくるわ」

「いやいや、無理っすよ。住まいはほうばくざんっすけど、基本は住所不定でしょ。ああいうお方って」

「蓬白山におられたとしても、たどり着くのに何ヶ月かかるかわからないわ。その間に太子殿下にさいそくされたらとてもごまかせないでしょう」

 隼と母から口々に言われ、ますます翠鈴は頭をかかえた。

 そうなのだ。姉は今、この家にいない。それどころか采国にいる可能性すら低い。

 それに、たとえ訪ねていったとしても勅書に応じていつしよに帰ってきてくれるとは思えない。隼や母が言ったように、まあ、そういう人なのである。

 ならばこちらでどうにかするしかない。

「お父さま! 姉さまは今留守にしてるって、ご使者に話したら? 仕事で遠くへ行ってるとか静養中で当分もどらないとか、何か口実を考えて」

「もうとっくに話したわい……。しかしあちらも必死なのじゃろう。血走った目をして、とにかく太子のもとへ上がれの一点張りじゃった……やっぱり死刑じゃろうな……」

「じゃ……じゃあ、思い切って本当のことを話してみるのはどうかしらっ? それなら仕方ないなって、納得してもらえるかもしれないわ」

 うなだれていた高堅ががばりと顔をあげる。彼の目もまた血走っていた。

「本当のことじゃと!? 萌春は我が娘ではなく五代前のご先祖で、今はせんせきに入ったせんによ様じゃと言えというのかっ!? それこそ不届き者だとして引っらえられるわ!!」

 父のぜつきように、翠鈴は耳鳴りを覚えつつ目をつぶった。

(ですよね……)

 そう、萌春は今や人ではない。仙人のとしてしゆぎよう中の仙女なのである。

 つうなら仙籍に入った者は深山にみ、人の世界との縁は切れる。ところが萌春はぞくからはなれることを選ばず、今も子孫が住む生家にたびたび訪ねてくる。若いころから容姿が変わらない彼女を何十年かぶりに見かけた近所の人がそつとうした、という事件も過去にはあったらしい。

 そのため今では、訪ねてくる時は目立たぬようにと念を押し、表向きは当主のむすめということにしている。だがその実、当主にとっては数代前のおお伯母おばというつながりなのだ。

「やっぱりまずいのよね? 姉さまが仙女だってことが知られるのは……」

 おそるおそる口を開いた翠鈴に、静容がうなずく。

「神代の昔ならいざ知らず、今じゃ仙人は伝説の存在ですからね。それを口実にお断りするのは難しいでしょう。娘を差し出したくないあまりにお上をたばかったと思われかねないわ」

「街で仙人とぐうぜん会ってうんぬんというのはおとぎばなしじゃ。あの家の先祖で時々遊びにきてる、なんてことはあってはならん。そのあり得ぬことをやらかすのはあの方くらいなものじゃ」

 高堅がぶつくさ毒づくのも無理はなかった。

 確かに世間には仙人と出会って不思議な体験をしただの、変わった物をもらっただのという伝聞がごろごろ転がっている。それらをまとめた説話集もあるくらいだ。

 その一方で、仙人をかたって人心をまどわしたとしてばつせられるようじゆつ師が存在するのもまた事実だった。そんな者のけいるいだと思われてはたまらない。母の言ったようにしんせんは今や伝説上の遠い存在であり、人界にはかかわらないとされているのだ。

「仙女だからと断るのもだめ、他の口実も通用しない。逆らえば太子をできあいするこうてい様にキレられる、しかし萌春様は絶対応じない。こりゃどうしようもないっすねー」

「だから死刑じゃと言っておろうがっ」

 他人ひとごとのような隼のぼやきと父のなげきを聞きながら、翠鈴は必死の思いでちよくしよに目を走らせた。命が助かるためになんとしても方法を探さねばならない。

 何度も読み返しながら考えていたが、はっと思いだし、顔をあげた。

「お母さま。姉さまの里帰りの日取りって、確かそろそろじゃなかったかしら?」

 かたわらで同じく書面を見つめていた静容が、小さく息をむ。

「そうね……。ちょうど一月後よ」

 全員の目がこよみに注がれた。父が商売のため作った特製のもので、一年分の日付がいっぺんに見られるのだ。翌月の半ばに印がつけてある。

「姉さまは毎年この時期にお戻りになるわ。そして必ずなじみのお店に立ち寄る。それを変えたことはないと言ってらしたわ。その日に姉さまをつかまえてお願いするしかない。条件が合えば聞き入れてくださるはずよ」

 翠鈴は目をかがやかせ、開いた書状を指さした。

「ここを見て。太子殿でんは姉さまを後宮に入れようとなさってるわけじゃない。ただ話し相手になってほしいとおっしゃってるのよ。そしてそれが終われば好きなだけほうをつかわすって。お金大好きな姉さまにとっても悪いお話じゃないわ。まあばくだいな褒美を要求するおそれはあるけど」

「なるほど。一月だけ時間をかせげば丸く収まるかもしれないってわけっすね」

 感心したように隼がつぶやいたが、高堅の顔色はさえない。

「ご使者に出されたゆうは二日だけなんじゃ。とても一月もはごまかせぬわ」

「二日!? そんなぁ……」

 せっかく名案だと思ったのに。これもだめとなるといよいよしん退たいきわまってしまう。

 しかし落ち込む翠鈴とは逆に、なぜか高堅の顔が急にいきいきとしてきた。

「そうか……。確かにそうじゃ。要は一月だけごまかせればよいのか。なるほどなるほど」

 ぶつぶつ言いながら考えていたようだったが、やがて頭の中でそろばんをはじき終えたのだろう。いつもの悪役面に戻り、とんでもないことを宣言した。

「よし! 翠鈴。おまえが代わりに『はつこい相手』として皇宮にあがるのじゃ!」

 たっぷり五はくほど父の顔をながめてから、翠鈴は目をむいた。

「はいぃ!?」

「案ずるな。一月後に大伯母上をかくし、なんとしても皇宮へお連れする。それまでの代役じゃ。むかえの使者がくるのをなんとか引き延ばせば六、七日は稼げるはず。つまり実際は二十日ほどのまんということじゃ」

「は……、いや、いやいやいやっ、なに言い出すのよお父さま! そんなのだめに決まってるじゃない!」

「何がいけぬと言うのじゃ?」

「だ、だって、太子様が会いたがっておられるのは萌春姉さまなのよ。わたしが代わりに行ったってごまかせるわけが」

「いいや。おまえと大伯母上はおもかげがよく似ておる。そもそも太子殿下の初恋というのは数年前のこと、しかも遠目にお見かけされたという奥ゆかしい出会いなのじゃ。別人と気づかれるおそれは低い」

「な……」

 思わぬ初恋話に一瞬絶句したすきをつくように、高堅がずいっと身を乗り出してくる。

「勅書にもあったじゃろう? 皇宮にあがるとはいえ、太子殿下のお話し相手をするだけじゃ。難しいことではない。それに役目が終われば褒美をいただけるのじゃぞ。話すだけで金銀財宝が手に入るとはなんとありがたいことか」

「お父さま……、お金目当てに娘を売るつもり!?」

「人聞きの悪い! けいかいと周家はんえいさくした末の策じゃ! おまえとてその若さでけいじようつゆと果てるより太子の後宮できらきらしく過ごしたいじゃろう!」

「死ぬのはいやだけど後宮できらきらも無理よ! わたしみたいなしよみんにそんなこと」

 ぎゃんぎゃん言い合ったせいで頭痛がしてきた。翠鈴は額を押さえ、ため息をつく。

「だいたい、なんでそんなに話をせっつくの? 姉さまが帰ってくるのはわかってるんだからどうにかして引き延ばせばいいじゃない。丸め込むのはお父さまの得意技でしょ」

「わしとてできるならやっておるわ。言ったであろう、使者も必死なのじゃと。太子殿下のお加減がすぐれぬゆえに早く進めたいということなのじゃろう」

 しかつらの父の言葉に、はっとした。

 頭に血が上っていたのが、すーっと覚めていくようだった。

 そもそもなぜこんな無茶苦茶なことを押しつけられようとしているのか。

(そうか。太子殿下にはあまり時間がなくていらっしゃるんだわ……)

 二十歳はたちまで生きられるかわからないという太子。めた初恋の相手と会いたいとほつしたのは、この世にいを残したくないからではないだろうか。

 この時期に初恋うんぬんと言い出したことを良く思わない者もいただろう。それでも、どうしても萌春が忘れられなくてなりふり構わず求めたのかもしれない。

(会わせて差し上げたい……けど……)

 顔も知らない太子が、かいろうからさみしげに空を見上げている。萌春を思い出しながら──そんな情景がかび、胸をつかまれたようになる。

「……あ。これ善行のごん出てきてますね」

 眺めていた隼がぼやいたが、翠鈴は気づかずなおも考え込む。

(一月待てば姉さまに会えるわ。けど、太子様のお身体からだがどれほどえられるかはわからない)

 一人寂しく待たせておくか、別人であっても真心を持って話し相手を務めるか。太子がなぐさめられるのはどちらだろう。

 いつわってぜんに出るのは心苦しい。けれど勇気を出して求めたであろう太子に──時間があまりないという人に、理由も言わず一月待てとっぱねるのはとてもできない。

 そもそも、突っぱねることは不可能なのだ。それをするということは父の言ったように周家の終わりを意味する。

(どうしよう……)

 ここで断ってみなで死を待つか。それとも、少しでも太子の慰めになる道を選ぶか。もしそこでうそがばれたとしても、どちらのほうがより人のためになるだろうか。

 死がおとずれるのはこわい。でもそれは太子も同じはずだ。二十歳までの残された日を、太子の本分と個人としての願いのいたばさみになって苦しんでいるかもしれない。

 翠鈴はぎゅっと目をつぶり──やがて息をついた。

 取るべき道は一つのみ。これも善行だと思って、やるしかない。

「……わかったわ。姉さまの代わりに行きます」

「おおっ!」

「ただし! 言っておきますけど、お父さまにくつしたわけじゃないわよ。褒美につられたわけでもなければけいが怖かったわけでも……まあそれはあるけど……と、とにかく」

 たんに目をぎらつかせた父に、翠鈴はおごそかに宣言した。

「余計な野心は燃やさないで。わたしは徳を積みにいくだけなんですからね!」


「──止めなくていいんすか?」

 やはりこうなったかという顔でいた隼に、静容が冷静な顔でため息をつく。

「現実的なことを言うけれど、わたくしも死刑は嫌なのよ」

「……さすが奥様っす」

「せめて翠鈴が困らぬようにたくをしましょう。手伝ってちょうだい」

 周家ずいいちの現実派である静容が足早に出ていくのを、隼はかたをすくめて追いかける。


 こうして、翠鈴のへいぼんな日々は激変することになったのだった。

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