一 迷子と勅命③
数日後。
いつもと同じく各人の予定報告から始まろうとした周家の朝は、思わぬ来客のせいで中断することになった。
「──
日課である
「もしやあれか。秦様の温泉接待が実ったのだな? それで商業
わぁっ、と朝食の席が
「おめでとうございます。大口のお仕事が入って周家も
「お父さますごいわ! これまでのがめつさが実ったのね!」
「さすがは
手をとりあう静容と翠鈴、
「ん? なんじゃおまえは、白い顔をして。喜びのあまり腹でも下したのか? まあよい、とにかく
早くも
「俺やるんで。先に空気入れ
「そういえばそうね。ありがと、隼」
ありがたく荷物を任せ、客間に入って窓を開けていると、すぐに隼も入ってきた。
「そういや、この前の持ち場にはもう行かないんすか? ほら、戴様の
「ええ。あのあたりが
「けどあの若君様と約束してたんじゃ? またあらためて会いましょうって」
翠鈴はきょとんとして彼を見返した。
「なんの話?」
「あれ、
翠鈴はしばし考え、やっと思い当たって目を
「そんなわけないでしょ! ただ通りすがりに会っただけなんだから」
「その通りすがりの出会いから生まれるものもあるって話じゃ」
「ないってば。あれはただの人助けよ。つまり善行よ、いつものやつ!」
まあ助けたはずが助けられたのだけれど。とにかくそれ以上に何か発展するわけがない。
しかし隼はそうは思っていないのか、意味ありげに見ている。
「善行善行って
「いやよ、一生善行し続けるわ。死ぬまでずーっと徳を積みまくってやるんだから」
「……」
「さ、次のを運びましょ。お酒も取ってこなくちゃ」
あっさりと話を切り上げた翠鈴に、隼は何か言いたそうにしていたが、結局は
元の部屋に
見れば、高堅が部屋の戸にもたれるようにしながら入ってきたところだった。小一時間前は勇んで出て行ったはずが、さっきの使用人よりもよほど真っ白な顔色になっている。
「……大変なことになった…………」
つぶやくなりがっくりと
「どうしたの? 接待作戦が失敗したの? でもそんなの今までもあったじゃない」
「お
「ええっ!?」
翠鈴は目をむいて立ち上がった。
まったく意味がわからないが、いつでも自信満々な父がここまで打ちひしがれているのだからよほどの事件が起きたようだ。
「どうしてっ? も、もしかして、不正をしたってお役人に
「不正も何も、一緒に温泉行っただけでしょ。それで死刑とかないっすよー。せいぜい
「まさかお父さま……、わたしたちも知らないうちに、人の道にはずれた
「旦那様が極悪なのは人相だけっす。誤解があるなら俺が代わりに解いてきますけど」
浮き足立つ翠鈴と、
「うぷ……っ、ななな何をするかっ、酒がもったいないであろうがっ」
「死刑とは
「う、おおっ、そうじゃ、これじゃ!」
妻の
静容が開いたそれを隼とともにのぞきこんだ翠鈴は、思わず息を
「え……、
言うまでもなく、
もちろん、こんな下町の商家に届くような
(いやいや、納得できないっ。どうしてうちに皇帝陛下の勅書が届くの!?)
混乱しながら文面を追おうとしていると、高堅がうめくように口を開いた。
「つまりは……太子
皇帝の勅書と初恋の娘というのが
「太子殿下というと、確か、皇帝陛下のお一人きりの皇子様であらせられましたわね。ゆえに生まれながらに皇太子となられたとか」
最初に我に返った静容が言うと、高堅も重々しくうなずく。
「そうじゃ。幼少時からお
「まあ……」
翠鈴は
「
苦々しげに説明をした高堅に、ふーん、と隼が相づちを打つ。
「なんか平和っすね。太子様のわがままに皇帝様も朝廷も
「でもわからなくもないわ。お身体が弱くていらっしゃるんだもの、皇帝陛下もそりゃ大切になさるだろうし、なんでもお願いを聞いてあげたいと思われるでしょう。朝廷の官吏さま方だってそうよ。たったお一人の皇子さまなんだし……」
見たこともない太子やその周辺の人々に対して同情していた翠鈴は、ふと首をかしげた。
「ん? じゃあこの勅書を持ってきたのはその初恋相手を捜してる官吏さまってこと? なんでうちに来たの?」
「まさか、お
「そんなわけないでしょ。お目にかかったこともないのに」
隼のつぶやきに
「とにかく
「ちょっと、それどういう意味? ──でもわたしもそう思うわ」
父の失礼な発言に翠鈴は目をむいたが、すぐに首をひねった。儚げで嫋やかな美少女だなんて、確かに自分を形容した言葉とは思えない。
「となると奥様か、俺っすかね」
「なんで自分も入れるのよ。捜してるのは『娘』なのよ。だったらお母さまだって違うわ」
太子が年上好みという可能性もなくはないが、それなら『初恋の女性』という表現になるのが
「たぶん
「別件って、皇帝様がここにどんな
「それはそうなんだけど、でも
困り顔で反論していた翠鈴は、はたと口をつぐんだ。
ある人物の顔が
見ると、母も隼も
冷や
「お父さま……。ま、まさか」
がっくりと高堅が再び床に膝をつく。
「その娘の名は…………萌春というそうじゃ」
──その場にいた全員の顔が
「なんで萌春姉さまが太子さまと初恋なんか
道理で父があれほど取り乱し打ちひしがれていたわけだ。
周萌春。それは翠鈴の姉にあたる人である。──表向きは。
「まずくないっすか。万が一、萌春様が初恋の君だったとして……あのお方が大人しく太子のお召しに従うとは思えないんすけど」
さすがに隼の顔も引きつっている。静容も
「そうね。ご使者を
「もしくは
「どちらにせよ周家はお終いね……」
「
「ちょ……ちょっと待ってよっ!」
うなずきあう二人に、翠鈴はめまいを覚えながら割り込む。
確かにこれはとんでもない事態だ。だからといってすんなり死刑を受け入れたくはない。
「ねえ隼、姉さまは今どこにいらっしゃるんだっけ? わたし、呼びに行ってくるわ」
「いやいや、無理っすよ。住まいは
「蓬白山におられたとしても、たどり着くのに何ヶ月かかるかわからないわ。その間に太子殿下に
隼と母から口々に言われ、ますます翠鈴は頭を
そうなのだ。姉は今、この家にいない。それどころか采国にいる可能性すら低い。
それに、たとえ訪ねていったとしても勅書に応じて
ならばこちらでどうにかするしかない。
「お父さま! 姉さまは今留守にしてるって、ご使者に話したら? 仕事で遠くへ行ってるとか静養中で当分
「もうとっくに話したわい……。しかしあちらも必死なのじゃろう。血走った目をして、とにかく太子のもとへ上がれの一点張りじゃった……やっぱり死刑じゃろうな……」
「じゃ……じゃあ、思い切って本当のことを話してみるのはどうかしらっ? それなら仕方ないなって、納得してもらえるかもしれないわ」
うなだれていた高堅ががばりと顔をあげる。彼の目もまた血走っていた。
「本当のことじゃと!? 萌春は我が娘ではなく五代前のご先祖で、今は
父の
(ですよね……)
そう、萌春は今や人ではない。仙人の
そのため今では、訪ねてくる時は目立たぬようにと念を押し、表向きは当主の
「やっぱりまずいのよね? 姉さまが仙女だってことが知られるのは……」
おそるおそる口を開いた翠鈴に、静容がうなずく。
「神代の昔ならいざ知らず、今じゃ仙人は伝説の存在ですからね。それを口実にお断りするのは難しいでしょう。娘を差し出したくないあまりにお上を
「街で仙人と
高堅がぶつくさ毒づくのも無理はなかった。
確かに世間には仙人と出会って不思議な体験をしただの、変わった物をもらっただのという伝聞がごろごろ転がっている。それらをまとめた説話集もあるくらいだ。
その一方で、仙人を
「仙女だからと断るのもだめ、他の口実も通用しない。逆らえば太子を
「だから死刑じゃと言っておろうがっ」
何度も読み返しながら考えていたが、はっと思いだし、顔をあげた。
「お母さま。姉さまの里帰りの日取りって、確かそろそろじゃなかったかしら?」
「そうね……。ちょうど一月後よ」
全員の目が
「姉さまは毎年この時期にお戻りになるわ。そして必ずなじみのお店に立ち寄る。それを変えたことはないと言ってらしたわ。その日に姉さまを
翠鈴は目を
「ここを見て。太子
「なるほど。一月だけ時間を
感心したように隼がつぶやいたが、高堅の顔色はさえない。
「ご使者に出された
「二日!? そんなぁ……」
せっかく名案だと思ったのに。これもだめとなるといよいよ
しかし落ち込む翠鈴とは逆に、なぜか高堅の顔が急にいきいきとしてきた。
「そうか……。確かにそうじゃ。要は一月だけごまかせればよいのか。なるほどなるほど」
ぶつぶつ言いながら考えていたようだったが、やがて頭の中で
「よし! 翠鈴。おまえが代わりに『
たっぷり五
「はいぃ!?」
「案ずるな。一月後に大伯母上を
「は……、いや、いやいやいやっ、なに言い出すのよお父さま! そんなのだめに決まってるじゃない!」
「何がいけぬと言うのじゃ?」
「だ、だって、太子様が会いたがっておられるのは萌春姉さまなのよ。わたしが代わりに行ったってごまかせるわけが」
「いいや。おまえと大伯母上は
「な……」
思わぬ初恋話に一瞬絶句した
「勅書にもあったじゃろう? 皇宮にあがるとはいえ、太子殿下のお話し相手をするだけじゃ。難しいことではない。それに役目が終われば褒美をいただけるのじゃぞ。話すだけで金銀財宝が手に入るとはなんとありがたいことか」
「お父さま……、お金目当てに娘を売るつもり!?」
「人聞きの悪い!
「死ぬのは
ぎゃんぎゃん言い合ったせいで頭痛がしてきた。翠鈴は額を押さえ、ため息をつく。
「だいたい、なんでそんなに話をせっつくの? 姉さまが帰ってくるのはわかってるんだからどうにかして引き延ばせばいいじゃない。丸め込むのはお父さまの得意技でしょ」
「わしとてできるならやっておるわ。言ったであろう、使者も必死なのじゃと。太子殿下のお加減が
頭に血が上っていたのが、すーっと覚めていくようだった。
そもそもなぜこんな無茶苦茶なことを押しつけられようとしているのか。
(そうか。太子殿下にはあまり時間がなくていらっしゃるんだわ……)
この時期に初恋
(会わせて差し上げたい……けど……)
顔も知らない太子が、
「……あ。これ善行の
眺めていた隼がぼやいたが、翠鈴は気づかずなおも考え込む。
(一月待てば姉さまに会えるわ。けど、太子様のお
一人寂しく待たせておくか、別人であっても真心を持って話し相手を務めるか。太子が
そもそも、突っぱねることは不可能なのだ。それをするということは父の言ったように周家の終わりを意味する。
(どうしよう……)
ここで断って
死が
翠鈴はぎゅっと目をつぶり──やがて息をついた。
取るべき道は一つのみ。これも善行だと思って、やるしかない。
「……わかったわ。姉さまの代わりに行きます」
「おおっ!」
「ただし! 言っておきますけど、お父さまに
「余計な野心は燃やさないで。わたしは徳を積みにいくだけなんですからね!」
「──止めなくていいんすか?」
やはりこうなったかという顔で
「現実的なことを言うけれど、わたくしも死刑は嫌なのよ」
「……さすが奥様っす」
「せめて翠鈴が困らぬように
周家
こうして、翠鈴の
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