一章 運命の日④

「いちかばちかで飛び出してみたけど、外が森だなんてツイてるわ!」

 せいりようかんのある香りが、冬の空気をいっそうするどく研ぎ澄ます。

 ニーナは雪の積もった針葉樹の森を枝から枝へと飛び渡り、真っぐに北を目指していた。いくにも重なった梢のせいで、星を頼りに進むことはできないが、方角は森の木々が知っている。葉の多さや、枝の生える向きを見ればわかるのだと、教えてくれたのはしようだった。躊躇ためらうことなく枝先へと駆け、次の枝に飛び渡ったところで足を止めた。幹に背を預け、はあっと白い息をく。

 冷気に肺がしめつけられる。だんよりも、息が切れるのがずっと早い。

(あの硝子ガラス窓のおかげで、かげの動きが測れて良かったわ。輿こしに乗っていた時間は半日ほどなのに、ここは真冬のように寒いし、雪も積もってる。きっと、標高が高い場所なのね)

 ニーナが住んでいた森からはるか東へ行った場所に、白のえんかん山脈と呼ばれる大さんれいがある。たいていの無茶は笑って許してくれた師匠がゆいいつ、危険だからけっして近づくなと言いふくめたさんがく地帯を、輿を運んでいた巨獣はやすやすえたらしい。


 ここに来るまでの道中、一度だけ、輿の進行が止まったことがあった。続いて、重いとびらが開くような音がひびいたため、国をへだてる関──師匠の手紙に書かれていた国境へきを越えたのだと、ニーナは確信したのだ。

 同時に、逃げるための行動を開始した。森での生活に適したしゆりよう服には、便利な道具がいたるところに収納してある。こしのポケットから取り出した小さなナイフで輿の扉を留めている金具をしんちように外し、扉がぐらつき始めたところで手を止めた。

 この扉の外に出たら、そこがどんな場所でも構わない。けっして足を止めることなく進むのだ。

 巣から飛び立つひなどりが、そらおくさぬように。

 ──行こう、と勢いよく扉をり破り、輿の外へと大きく飛び出したニーナは、目に飛びこんできた針葉樹の大木に迷うことなく飛びついた。そのまま幹を駆け上がり、手近な枝へと飛び移る。枝先に向かって走り、別の木の枝へとすぐさまちようやくした。異変に気づいた男達のけんそうが、みるみる後ろに遠ざかっていく。

 目の前に広がっていたのは、巨大な針葉樹の森だった。

 柱のようにそびえ立つ木々を飛び渡りながら、ニーナの口元にみがかんだ。

 これならいける。

 絶対に逃げ切れる。

 なら、ここは森だからだ。

 森の中で、ニーナにかなう獣などいない。


 ──そして、現状、見事におつり切り、逃げおおせている。

(それにしても、あの人達は本当に獣人だったのかしら? 服にかくれていたから耳も尻尾しつぽも見えなかったし、とぎばなしみたいに獣の姿にもならなかったけど)

 ニーナをき上げた男のうでは、確かに人間のものだった。言葉も聞き取れたし、獣のにおいがしたわけでもない。師匠の手紙の内容を疑うわけではないが、こればかりは自分の目で見定めるまで信じることはできない。

〝獣人〟──美しい人間の姿をしながらも、獣の耳とを持つ異形。

 どうもうな獣の姿に変身することができ、夜に乗じて人間をさらい、その血肉を好んで喰らうという──しかし、それはあくまで想像上のかいぶつだ。物語では定番の悪役でもあり、師匠からもらい受けたこいものがたりに登場する〝悪い獣人の王〟も、主人公の少女を攫って喰らおうとし、おそらくは助けに来た王子にたおされるという、悪そのもののしようちようとして描かれていた。

 自分は今、そんな怪物が実在し、かれが支配する国にいるのだ。師匠が手紙で知らせてくれなかったら、いまごろは──と考え、ブンブンと首を振る。

じようだんじゃないわ! きっかけはともかく、ようやく森を出られたんじゃないの。夢もかなえないうちに食べられて、たまるもんですか……!)

 深呼吸をひとつ。息を整えて、ふたたび枝の上を走り出す。相手はりが得意な獣人達だ。追跡されないよう痕跡を残さずに逃げたいが、躊躇っている時間はない。

(今なら、やみと梢が姿を隠してくれる。夜が明ける前に、北にある〝ひようしようきば〟を越えなくちゃ……! だいじよう、師匠の課題をすべて達成した私になら、絶対にやれるはずよ!)

 しかし、ニーナが次の枝に飛び渡ったとき、予期していなかったことが起きた。

 唐突に、森の景色が途切れ、視界が開けたのだ。

「……っ! こ、こは……」

 こうこうかがやく月の光の下、どこまでも、わたす限りに続く純白の雪原が広がっていた。

 ぎんのような星々がちりばめられた、あいいろの夜天。はるか彼方かなたに連なるしゆんけんな雪嶺。強い寒風にみがき上げられた世界はとうめいんで、い散るせつが月明かりにきらめいている。

 ──それは、ニーナが長い間ずっと夢に見ていた、森の外の世界にしかない光景だった。

「凄いわ、なんて、れいな所なの……!」

 思わず、その美しさに吸い寄せられた。高鳴るどうけいしようのように響くのに、樹を下り、森を出て雪原に近づいていく足を止めることができない。

 こんな雪原に足をみ入れたら最後、ぬぐい去れない痕跡を残すことはわかっていた。

 けれど、生まれてずっとうつそうしげった緑の世界に閉じ込められていたニーナにとっては、あらがうことなどできないしようどうだった。

 あの場所へ行ってみたい。

 子どものころから夢がれてきた森の外の世界へ、自分の足で飛び出したい──

「あ……っ!?」

 だが、雪原にけ出す寸前、一陣の風とともに、真っ白な影が目の前をさえぎった。

 雪原と同じ白銀の毛並みをした、信じられないほど巨大なおおかみだ。光るそうぼうでニーナをとらえたまま、狼は躊躇いのない足取りできよめてくる。

 その堂々たる姿に、何度もり返し読んだあの御伽噺が頭をよぎった。

 白銀の狼に身を変じ、逃げる少女をに追い詰める、じゆうじんの王。

 想像上のものでしかなかった存在に、目の前の巨狼がぴったりと重なったしゆんかん──白銀のきよから、ふわりと白い光があふれ出した。

 光は狼を包み込み、またたに姿をへんぼうさせていく。

「な、に……?」

 つややかになびく白銀のかみ。満月をめこんだような金のひとみ

 金糸のしゆうが美しい純白の服に、白銀の毛皮をあしらった外套マントを身にまとったせいかんな青年──しかし、彼の髪の間には、白銀色の狼の耳が生えている。加えて、その背でれる、豊かな毛並みの尾に確信した。

 人に似て非なるもの。

 この青年は、ちがいなく〝獣人〟なのだ。

 彼は光る瞳でニーナを見つめ、形の良いくちびるを開いた。響くこわは低く、落ち着いている。

「──私は、獣人の国ウルズガンドの王、ヴォルガ・フェンルズ・ウルズガンド。美しき人間のひめよ、よくぞ我等の国へ参られた。おそれることはない。そなたを心よりかんげいする。我等とともに、王宮へと参られよ」

 はくせきの美貌は、整いすぎているあまり感情が読み取れない。おごそかなその言葉を聞きながら、ニーナはただただぼうぜんとした。本当は、まだどこか半信半疑だった。けれど、物語の中だけの存在だと思っていた獣人がこうして目の前にいる。まるで、物語の世界に入り込んだようなとうさく感だった。師匠の手紙に書いてあった獣人の王──《白狼王》。

 彼がそうなのかとたずねようとしたが、頭を振って思いとどまった。

 自分を喰らおうとしている相手と、れ合う気はない。

「──ふざけないで!! なにが歓迎よ、やさしいふりをしたってだまされないわよ! 私はにえひめで、貴方あなたは私をい殺そうとしているんでしょう!? 全部知ってるんだから!」

 さけんだ瞬間、それまでいでいたヴォルガの双眸が鋭くすがめられた。

 ザッ、と背後の茂みが大きく揺れる。

「今だ、捕らえろ!」

 しまったと思ったときにはすでにおそく、ニーナの身体からだは背後の森から現れたフードの男達により、雪の地面に押さえこまれていた。信じられないほどの力だ。体格差も大きく、力任せに押さえつけられれば、あっという間に身動きが取れなくなってしまう。

「は、放して……放してよっ!!」

 長年の夢が叶ったことで、げる判断をおこたったこと。想像していたよりもずっと人間に近く、美しい獣人の姿にけいかいゆるめてしまったこと。それらすべてが、敗因となった。

 それでもまだ、最後の希望を信じて抗う。

「放してって言ってるじゃないっ!!」

 結んでいた髪がほどけるほど、なりふり構わず暴れるニーナの側にヴォルガがひざをつき、ごういんあごを取った。上向かされて視線が合う。金の双眸に宿る光は、彼の背後に照るいてづきよりも冷ややかだ。

あきらめろ。これ以上ていこうするなら、けんを切るぞ」

「やれるものなら、やってみなさいよ! ここまで必死に追ってくるんだもの、貴方には私が必要なんでしょう!? そんなことをしたら、今度こそ谷に飛び込んで死んでやるから!! ──ぐっ!!」

 雪の地面に無理矢理に頭を押さえつけられ、しんの髪がせんけつのように散った。

 ブーツががされ、膝まで服がたくしあげられる。知らない男の手があしれ、肉を切られるきように全身が戦慄わなないた。

 ──あんまりじゃないか。

 どんなにこくな課題にも取り組めたのは、達成したその先にある夢を叶えるためだったのに。十年以上かかって、ようやく外の世界に飛び出したのに。贄姫なんてわけも分からないものにされて、命をうばわれてしまうなんて。

 そんな運命、受け入れてたまるものか。

「私は、絶対に諦めないわ! たとえ脚を失っても、必ず逃げ切ってみせる……っ!!」

 ひたり、ととうけんがあてがわれる。

 はだから伝わるこうしつかんしよくに、おそい来る痛みをかくした。その瞬間、足首が冷たい重みにおおわれた。

 ガチャン、と金属音がひびく。

 ──かせをはめられたのだ。

 恐怖ときんちようから一気に解放され、だつりよくするとともに全身からあせき出した。

「……連れていけ」

 放心した頭で見つめる先で、ヴォルガはこおるような表情のままきびすを返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る