一章 運命の日③

〝ウルズガンド〟。

 古い言葉で、〝狼のむれ〟を意味するこの国は、周囲をえんかん状の大山嶺にかこまれた、とこふゆの王国である。

 人間の姿に似ながらも、獣の耳とを持つ獣人。

 数多くの種族が存在する獣人種の中でも、ろうじんしゆの獣人達が暮らすこの国の王は、代々白雪とまがう毛並みを持つことから白狼王の名でおそれられている。

 日暮れ前。大勢の臣下達を率い、贄姫をむかえるために城門前に現れた白狼王──ヴォルガ・フェンルズ・ウルズガンドは、ゆうやみい散るせつに月色の瞳を上げた。

「降ってきたな……」

「陛下、ここは冷えます。どうか、宮中でお待ちください」

 背後からの声に、白銀の髪の間に生えた獣耳みみがぴくりと動く。ヴォルガは振り向くと同時に牙を震わせ、いかにもげんそうにグルル、とうなった。

「構うな、ファルーシ。俺は外で待つと言ったはずだ。あと、口調を直せ。お前のそのしやべり方は、むずがゆくてかなわない」

「──はいはい。わかったから、こわい顔でにらまないでくれ。君にまで体調をくずされるわけにはいかないんだ。ここのところ、おそくまでしつ室にこもっているだろう?」

 ファルーシと呼ばれた獣人の青年は、人当たりの良いおもちを困ったようにかしげた。

 まなじりやわらかなすいりよくの瞳。かたのあたりで切りそろえた髪と、ぴんと立った獣耳は、背後でれる尾と同様、明るい小麦色をしている。

 ファルーシはヴォルガの側近であり、幼少の頃からしんらいを置く腹心だ。臣下というより親友同士として育ったあいだがらのため、ヴォルガは彼に改まった態度を求めない。ファルーシもまた、公の場以外ではくだけた口調で接していた。

 ねむれるものか、とヴォルガは唸る。

「アルカンディアの王から譲渡の申し出を受けて以来、長年待ち望んできたにえひめとうちやくだ。これで、ようやく望みがかなう……だろう、ファルーシ」

「ああ、わかっているよ。じゃあ、せめてこれを羽織ってくれ」

 差し出されたのは、雪原を思わせる白銀の毛皮をあしらった外套マントである。代々受けがれてきた王のあかしを身につけることを、ヴォルガはかたくなにこばみ続けてきた。だが、季節や体格に合わないといった言い訳はもう通らない。してやったりと言いたげな顔のファルーシを睨みつけ、ヴォルガはしぶしぶとそれを羽織った。白銀の外套をまとう彼の姿は、二十二歳という年若い王でありながらもそうごんうるわしく、集まった臣下達からかんたんの声がれた。

「気がくな。後でたっぷりほうを取らせてやる」

「お気持ちだけで結構だよ。──さて、どうやら獣車が到着したみたいだね。ヴォルガ、わかっていると思うけど」

 近づいてくる獣車の足音に獣耳を向けながら、ファルーシがしんけんな顔つきになる。

 言わんとすることをさとり、ヴォルガはうなずいた。

「贄姫は、おのれの運命を知らない。俺達もけっしてそれを知らせない、だったな」

「そう。贄姫は、その命をもって白狼王に力を与える神聖な存在だ。これは、彼女が最期をむかえるしゆんかんまでこころおだやかに過ごせるようにというはいりよであり、彼女の命をうばう側である僕達が示せる最大限の敬意でもある。けっして乱暴な真似まねをしないこと、おびえさせないことを約束してくれ。特に、君は器量が良いくせに顔が怖いから」

「余計なお世話だ。……わかっている。条約で取り決めた通り、な危害は加えない。ていちように王宮に迎え入れてもてなすさ」

〝氷晶の牙〟──しんほうはしにかかっていたしんゆうが、その白い牙の内に飲みこまれていく。標高の高いさんがく地帯にあるウルズガンドの夜は長い。今宵こよいは贄姫の到着を祝い、せいだいうたげが開かれる予定だ。

 残照の一筋に照らされて、舞い散る雪華が真紅に染まった。

 ヴォルガが差しのべた手のひらの上で、形を覚える間もなくけていく。

にえひめか……。あわれだと思うのは、ごうまんなんだろうな」

 つぶやきとともに、うすぐらい夕闇の向こうから獣車が現れた。しかし、なにやら様子がおかしい。もうスピードで到着したのはたった一頭のみで、づなにぎぎよしや役の姿しかない。

 迎えにやらせた他の従者達はどこへ行ったのか。異変を察したヴォルガは、そくに獣車へとけ寄った。輿を運ぶのはヌークと呼ばれるきよだいな山岳牛である。険しい山脈も半日で越えるきようじんあしを持つが、無理な走行をいられたためか興奮している。その背には、もぬけのからとなった輿があった。

 どういうわけか、とびらがない。

「一体何があった……!? まさか、贄姫を奪われたのではないだろうな!? 護衛はじゆうぶんに付けたはずだぞ!」

「いいえ、陛下! 贄姫様が自らとうぼうなされたのです……っ!」

 暴れるヌークを必死でなだめながら、御者がそうな声でじようきようを告げた。

「アルカンディアとの国境へきえ、はりの森に差しかかった辺りで、輿の扉が内側からり破られました! 輿から飛び出した贄姫様は、リスのように大木を駆け上がり、枝から枝へと飛びわたって、あっという間にげ去ってしまわれたのです……っ!」

「なにっ!?」

 耳を疑うとはこのことだ。他の従者達は、逃亡した贄姫のそうさくのために、針葉の森に残ったという。ふざけるなと声をあららげなかったのは、御者の態度があまりにも真剣だったためだ。しかし、人間であるはずの贄姫に、リスの真似事などできるはずがない。

 十五年前、血色のかみひとみを有して生まれた贄姫は、物心がつく前に母親から引きはなされ、ひとざとはなれた森の奥でひそかに育てられた。自身が敵国の王の贄としてみつがれることはおろか、ぞくも知らないじゆんすいな少女である──と、アルカンディアからの書状には記されていた。そんな少女が、かぎのかけられた輿の中から、どうやって逃げたというのか。

 ヴォルガは暴れ続けるヌークの背に飛び乗って、輿の中をのぞき込んだ。座面にかれていたはずの、しろてんの毛皮がぎ取られている。内側から扉が蹴り破られたと御者は言うが、きやしやな少女にそんな真似ができるだろうか。本来扉があるべき部分を調べたヴォルガは、あることに気づき、目を見張った。

「扉の金具が外されているだと……? 贄姫がやったのか」

 ふと、頭にかんだのは純粋な疑問だ。どうして彼女には、そこまでして逃げる必要があったのか。迎えにつかわせた従者達には獣人であることをかくさせ、くれぐれも丁重に王宮へ招くよう命じた。かれに怯えて逃げ出したとは考えにくい。

「──っ、まさか!」

 深く考える前に、答えを確信した。

 ──知っているのだ。

 贄姫は、己の運命を知っているにちがいない。

 ヴォルガは輿こしを飛び降りるなり、えるようにするどく命じた。

「ファルーシッ!! 贄姫を追う! 総員を率いて俺に続け!」

「ええっ!? それってどういう──ま、待ってくれ、ヴォルガッ!」

 ファルーシの目の前で、ヴォルガの身体からだが純白の光に包まれた。

 見る間に巨大なはくろうの姿へとへんぼうしたヴォルガは、ファルーシの制止を聞かず、降りしきる雪の中をもうぜんと走り出す。

 獣人は本来、人間に似た姿に獣の耳と尾が生えた獣人の形態と、獣の姿の両方に身体の形を変えることができる。獣の姿になる場合、獣人だけが持つ〝じゆう〟と呼ばれる気の流れで衣服ごと身体を包みこみ、変貌する。このわざを〝じゆう〟といい、獣化中は運動能力および、視覚、ちようかくきゆうかくなどの身体機能を極限まで高めることが可能になる。

 だが、ぼうだいな獣気を必要とするこの技をあつかえるのは、今ではヴォルガただ一人だ。

『よりにもよって針葉の森とは、やつかいな場所でのがしたものだ……!』

 ヴォルガはじゆうこうな石造りの建物が並ぶ王都の街並みを一陣の風のごとく駆けけ、氷雪におおわれた平野部に出た。ひづめあとは雪原を越え、そのふち洋墨インクを垂らしたような針葉樹の大森林、針葉の森へと続いている。

 針葉の森は、りんごくアルカンディア神聖王国との境に横たわる広大な樹海だ。父王の崩御後、そくしたヴォルガは両国の間に国境壁を築き、人間のしんにゆうを厳しく禁じた。山岳部のけいしやに沿い、複雑に根をうねらせる大樹の森は暗い上に足場が悪く、天然のじようさいの役目を果たしている。

 しかし、同時に、多くの行方ゆくえ不明者を生んでいるの森としても有名だ。柔らかな肉を好むじゆうおそわれれば、無垢な少女でしかない贄姫などひとたまりもない。

 一刻も早くらえなければと、ヴォルガは真っぐに平野を渡り、森の中に飛び込んだ。幸い、迎えに遣わした従者達の隊列を見つけるのに、そう時間はかからなかった。彼等はその場に現れたヴォルガの姿を見るや、悲鳴をあげてへいふくした。

 そこに、馬に乗ったファルーシが駆けつける。

「ヴォルガ! 夜間のこの森は危険だ。じきにしやくけんろうゲーリウス様が到着する。贄姫の捜索は彼が率いるろう兵師団に任せて、王宮にもどってくれ!」

『無理な相談だな、ファルーシ。三賢狼などあてにできるものか! よくを満たすためなら平気で他人の命を利用する、れつきわまりない連中だぞ。……それに、お前にもわかっているだろう? 俺にはどうしても贄姫が必要なんだ』

「充分に、わかっているつもりだよ……! でも、君はウルズガンドの王だ。王は群を率いるものだ。こんな風に、単独でっこむ真似はするべきじゃない」

『単独で動いたつもりは──』

 ない、と後方をり向き、ヴォルガはちんもくした。巨大な白狼と化したヴォルガのしゆんそくについて来られたのは、旧知の仲であるファルーシだけのようだ。

「あのねぇ。わかっていないようだから言わせてもらうけど、獣化した君に兵達が追いつけるわけがないだろう?」

『ぐ……っ!』

 あきれ混じりにたんそくする彼に、グルル、とヴォルガは歯列をめる。

『ついて来られない者を待っている時間はない……まだわからないのか、ファルーシ。にえひめは自分が贄にされることを知っている。だからこそ、扉をこわしてでも逃亡したんだ!』

「な……っ!? まさか、そんなこと──」

 ありえない、とろうばいするファルーシをしりに、ヴォルガは毛並みを逆立て獣気を高めた。

 五感がさらにまされ、周囲の空気がえ渡る。それまで深いやみの底にしずんでいた針葉の森が、まるで真昼のようにせんめいに浮かび上がった。

 同時に、ぎ慣れないにおいにも気がついた。人間の匂いのようだが、戦場で嗅いだ不快さはない。むしろわく的な、自然ときつけられてしまう不思議なかおりだ。

『ありえない話ではない。ぐうぜん耳にしたか、あるいは何者かがらしたか──なんにせよ、贄姫が、この場所で獣車の輿から飛び出したのはちがいないようだな』

 鼻を高く上げ、空中に線をえがくように遺臭をなぞっていく。蹴り飛ばされたという扉の側に、血色の髪が一本落ちていた。さらに追っていくと、すぐ近くの針葉樹の幹にくつぞこはだけずられたあとがあった。遺臭はいつしか鮮明な映像となり、獣化したヴォルガの目には、血色の髪をなびかせたがらな少女が、目を見張るしゆんびんさで輿から飛び出し、小さな足できよぼくを駆け上がっていく姿がありありと見えた。

 にわかには信じがたい光景だが、とヴォルガは感嘆のため息を吐く。

『なるほど、確かにリスだな……! いつから人間は、こんなに身軽になったんだ』

 枝から枝へ飛び渡ったという御者の報告通り、遺臭はかなり高い位置の枝先へと続いている。ヴォルガのたいではとても登れない。匂いをたよりに追うのは無理だ。

 ならば、と今度は雪に覆われた地面にせた。針葉の森のこずえは、連日の雪をかかえている。枝の上を走れば、そのしんどうで雪は落下し──

『……見つけたぞ』

 点々と落ちたせつかいは積雪をくぼませ、ものの行方を示す足跡となる。

ついせきする! 来い、ファルーシ!』

「ああもう! 相変わらずいつぴきおおかみなんだから! ──みな、ご苦労。そのまま周辺の捜索を続けてくれ! 私は陛下を追う。後続の灼賢狼様にも伝えるように!」

 ヴォルガは白狼の姿で森をけ、ファルーシは馬で後を追った。わずかなこんせきを頼りに雪の森をひた走り、やがて、二人は切り立ったきようこくの縁へと辿たどり着いた。

 落雪のしるべは、縁でれている。ヴォルガは、ぼうぜんと谷底を覗きこんだ。

『まさか、この谷に落ちたのか……!?』

らく谷〟──またの名を〝断罪の渓谷〟。かつて罪人の処刑地として使われた、垂直に近いだんがいぜつぺきはさまれた大地のけ目である。

 底が深すぎて、獣気で視力を高めても闇しか見えない。足をすべらせたか、あるいはい殺されることをおそれて自決したか。

 崖の縁には確かにかつらくした跡があり、輿の座面から持ち去られた白貂の毛皮が岩場に引っかかっていた。間違いなく、彼女はここから谷へと落ちたのだ。ファルーシもまた、絶望的な顔で闇の底を覗き込んだ。

「おしまいだ……! 断罪の渓谷に落ちたら、獣人だって助からない。ましてや、人間の女の子なんてひとたまりもないよ!」

『……は、……ははっ!』

「ヴォルガ?」

 とうとつに笑い出したヴォルガに、ファルーシはぎょっとする。ぼうになったのかとあわてる彼を横目に、ヴォルガはクックッとのど奥で笑いを噛み殺した。

『まったく、なんてやつだ』

 あれを見ろ、とヴォルガは鼻先でがけの側面を指す。

『崖から突き出たあの岩場の位置で、かつらくこんが止まっている。贄姫はわざと転落したんだ。──転落したと見せかけて、岩場を利用し、別の場所からい上がった』

「なんだって!?」

 ヴォルガ自身も信じ難いが、推測通り、谷沿いに進んだはなれた位置に、這い上がった痕跡を見つけた。雪上に残された痕跡から獲物の動きを想像するに、贄姫は足跡を残さないよう、すぐさま手近なに駆け上がり、ふたたび枝を飛びわたってげたらしい。

 逃げ去った方向は、真北だ。

「すごい……!」

『それに、さっきは気がつかなかったが、贄姫のこの遺臭……ひぐまの血肉の臭いが混じっている。それも、の奥深くまで染みこむほどの膨大な数だ。気を引きしめろ、ファルーシ。俺達が追っているのは、じゆんすいな少女などではない』

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