一日目 『花草子』ってなんですか?②
「すごい人
ここは後宮食堂。
後宮に住む者たちの食事を一手に引き受ける
開け放しになった空間には長
「あっあそこの席空いた……って座られた! あっちが空いた……ってまたダメか!」
目の前の御馳走を「待て」された犬のように、あたふたと座ろうとしては人波に押され、人波をかきわけようとしては押し出され、辺りを
「あんた、こんなところで何してんの?」
振り向くと、
「あれ? ここは??」
いつの間にか、周囲の景色が変わっていた。
あの
どうやら、人波にここまで押し出されたらしい。
「ここは後宮
「あー、ええと……」
ぐうううう。花音が言うより先に腹の虫が答える。女官は
「今、食堂がいちばん混んでる時間だからねえ。ちょっと待ってて」
女官はさっと厨の中に入るとすぐに湯気を上げる蒸篭を大きな
「これ
新人とお昼出まーす、と
少し離れた場所に厨房で使うのであろう
尚食女官はその一つに盆を置いた。
「厨の裏手はあたしたち尚食女官の
「たしかに」
食堂の様子を思い返し、今後の昼食の算段が不安になる。
花音の不安を察知したのか、尚食女官が笑った。
「だいじょうぶ。食堂が混んでたり食べる時間がなかったら後宮厨に寄って。手の空いてる女官が食べ物出すから」
「本当ですか!? そんなことしてもらっていいんですか?」
「あはは、大げさねえ。みんなやってるから
「あ、ありがとうございます」
花音が頭を下げると、こちらこそと女官は笑った。
「今日はあんたのおかげでやっと抜けられたよ。もう忙しいったらありゃしない。ありがとね」
女官は片目をつぶって蒸篭の
「ふわあぁああ
花音は思わず
形
「ふふふ、あたしが作ったんだ」
黒目がちなくるりとした目、背が低く、全体的に少しふくよかでえくぼの
「あたし、
「白花音といいます。華月堂の司書女官です」
陽玉はくるりと丸い黒目がちの目をさらに丸くした。
「華月堂! あの
「いや、それはまだわからないですけど」
「
「ええ、噂ではあるらしいですけど」
「上司が
「あ、それは本当です」
花音は迷わず
「へえ……やっぱり火の無いところに
女官がねじり型の包子を花音に
花音はそのあつあつの包子にかじりつく。
「美味しい!」
「でしょう? あたしが作ったんだ。あたし、料理の
陽玉は笑った。
二人はしばらく夢中で包子を
ひとしきり食べて
「あの……さっきの華月堂の噂のこと、
「もちろん」
陽玉はうれしそうに身を乗り出した。噂話が好きなのだろう。
「華月堂の噂は後宮じゃ有名よ。上司が鬼なのが本当なら、
確かにそうかもしれない。花音はごくりと
「昔、麗春殿のお妃様が……それはお
「へ、へえ……」
想像しただけでゾッとするが、幽鬼が出るのが夜ならば問題ないと気を取り直す。
「呪本はね、華月堂のどこにあるか、わからないんだけれど、
「
『花草子』といったか。人を呪わば穴二つ。その愛らしい題名からは想像のつかない
「で、花音の話じゃ、鬼みたいな司書がいるのは本当、と。鬼司書に
「そうなんですか!?」
どうりで
「うん。噂を気にしない人は行くみたいだけど、怖がっている人が大半かな。華月堂は身分関係なく誰でも入れる娯楽室だから、みんな気にはなってるけどねえ」
そのとき、後宮厨の裏から陽玉を呼ぶ声がした。
「陽玉! 食べたらすぐに
陽玉は
「ねね、あんた、明日ヒマ? お妃様たちのお茶会の手伝い、一緒に行ってくれない?」
「え? えーっと……」
花音は
「ね、お願い。明日の昼も
陽玉は蒸篭に残っている形ちがいの包子を次々と
「もちろん行かせていただきますっ」
花音は力強く
今後の美味しい食事が約束されるなら、他局の手伝いをするくらいお安い
「でも、何をすればいいんですか? ていうか、他局のあたしなんかがお手伝いに行ってもいいんですか?」
「うん、大丈夫。
確かに、陽玉の
陽玉は申し訳なさそうに苦笑した。
「ただ点心とお茶をお運びすればいいだけなんだけど……誰も行きたがらないからさ、四季殿がらみのお茶会は」
四季殿とは、
麗春殿、爽夏殿、清秋殿、凛冬殿。貴妃はそれぞれの殿舎の季節を
十年前、今上帝の皇后が
しかし
その動きを察知して、昨年末いち早く
次いで入内したのが禁軍大将軍の娘、
少しおいて冬妃、春妃、と入内し、皇太子不在のまま四季殿の貴妃が
「で、秋妃と夏妃の仲が悪くてね。この二人が同席すると、必ずひと
花音は首を
「仲が悪いなら、お茶会で仲良くなればいいのでは? お茶会って、
花音は後宮を
陽玉は顔をしかめて首を
「とてもそんな
「茶器が投げつけられる……」
茶器が飛び交っても座っていなくてはならないなんて、苦行のようなお茶会だ。確かに団欒とはほど遠い。
お妃様というのはあんがい大変な仕事なのかもしれない。
「とにかく、
陽玉は
● ● ●
太陽が明るいうちに一冊でも多く配架を、と思う。
夜は明かりが必要になる。蔵書楼という場所
だんだん作業に慣れてくると、本が印別に分けられているため、どこにどんな本が置いてあるのかがなんとなくわかってきた。一冊一冊本の表紙を
夢にまでみた
しかし手に取れば題名は目に入るし
「さすがは後宮の蔵書。やっぱり装丁が美しいわあ……」
思わず
「そもそも本は装丁の
うっとりとひとり言を
(いいんだもん。今、
と
その直後だった。
「本が好きなんだね」
背後からの声にぎょっとして
(誰……っていうかなんで??)
その人物は、顔を
長身に
くすんだ緑は内侍省の色、その濃色を
「決して
覆面をしている時点で怪しい者っぽい、と花音は思ったが、その
「あの……もしかして、見てました?」
「幸せそうな人って、つい見つめたくなるでしょ」
くすくす笑う
(いやあぁああ見られてた! 恥ずかしすぎるっ)
そして言い訳するように
「いやっ、そのっ……あたし、華月堂の司書女官なんです! だから配架をしていて……新人で……まだ上官から
しどろもどろで
しかし覆面宦官は
「徽章がなくても司書女官だってすぐにわかったよ。本の
「えっ、本当ですか……?」
鳳伯言はぜったいに言わないであろう
「僕は
「白花音と申します」
答えつつ、(内坊局!?)と花音は内心、
内坊局とは
「君が華月堂の司書女官ならちょうどいい。
「あの……失礼ながら、あたしみたいな下っ
上司には司書未満として扱われている身である。
内坊局の超高官相手に
「華月堂にある『花草子』という本を探してほしいんだ」
「……花草子」
それは華月堂のどこかにあるという『
「どうかした?」
「あ、いえ……」
(
花音の心中を見
「だいじょうぶ。
司書女官という
(バカバカあたし、なんで引き受けちゃうのよ!)
できません、という言葉は、覆面宦官の低い声に消された。
「それと……このことは僕と君だけの秘密にしてほしい。
「は、はあ」
超高官に念を押され、花音は頷くしかない。
(自分から呪本に近付くハメになるなんて……)
花音ががっくりしていると、藍が花音をのぞきこんできた。相手は覆面なので
「あ、あの……なにか?」
「いや、ちょっと気になって。この本の山、まさかと思うけど、君が一人で
花音は顔を引きつらせつつ「そのまさかです」と答えた。
「なんてことだ」
藍は信じられないと呟くと、手近にあった本を拾って
花音は慌ててそれを制止した。
「藍様おやめください! そんなことはあたしがするので!」
内侍省の超高官に配架をさせるなど、もってのほかだ。しかし藍は覆面を大きく横に振る。
「この
(神っ……この
その後ろ姿に後光が差している。呪本は
(探すわ、『花草子』)
藍の持っている本を花音はそっと受け取る。
「配架をどんどん進めて、『花草子』を見つけ出して、必ず藍様にお
「それは頼もしいね。では仕事を
「で、でも」
「君は、なんとなくほうっておけない」
その
「
「花猫?」
「昔、そういう名の子
「はあ……」
「書架の高い場所は僕に言ってくれ。その方が効率がいいだろう」
「は、はい。わかりました。では、こっちの山から印別に分けますね」
実際、高い場所に配架してもらえるのは助かる。
(よ、よし、今はとりあえず、お言葉に甘えて手伝っていただこう)
『花草子』という本を探すという、司書女官らしい仕事が増えた。花音のやる気も三倍増しだ。
小窓から見える空には、いつの間にか
「くれぐれも無理しないように。
「内坊局の超高官と配架なんて、やっぱりおそれ多いわよね」
しかし藍のあの様子では、花音がどう言おうと手伝ってくれそうだ。
「なんとかもっと効率よく片付けられないかしら」
せめて効率を上げれば配架速度が上がり、藍に手伝ってもらう時間も減る。
陽玉にもらった
「よし。これを使うわ」
この蔵書室内でおそらく一番大きい梯子。車輪の付いた移動式のものだ。ここに本を
その周辺の本を印別に集めて、梯子の
「いい感じ。うまくいきそうだわ」
花音はにんまり笑った。
しかし、梯子を押してみると、びくともしない。よくよく点検すると、車輪が
「油を差さないとダメかな」
事務室に探しに行こうとした、そのとき。
さあ、と外から風が
顔を上げると
(
麗春殿に住んでいた、紅い紗上衣をまとった読書好きのお
次の
月光と共に地上へ降りたった月神──そんな題名の
近付いてきてわかった。女人じゃない。青年だ。
無造作にくくった長い
青年は
「誰だ」
(だいじょうぶ、怖がらなくてだいじょうぶ)
花音は一生
「あたしは華月堂の司書女官、白花音です。あ、
勇気をふりしぼって答えると、青年は一瞬ぽかん、とした後、
「な……なにが可笑しいんですか!」
「いや、大
後半の方は小声で花音には聞き取れなかったが、青年はまだニヤニヤしている。
(ぜったい幽鬼じゃない。ほんものの人だわ。しかも意地悪な)
「名乗るのは
「それは失礼、司書女官サマ」
そのバカにしたような態度に花音はいささか腹が立った。
この
だから派手な格好をしてこんな
今朝のことを思い出し、これ以上四季殿の鼻持ちならない人々とは関わり合いたくない花音は、扉を閉めようとした。
「ちょっ、待っ、なんで
「
本当のことだ。
「オレは不審者か!」
「いきなり
「わかった、わかったって。オレは……
花音は名乗った青年を頭のてっぺんからつま先まで
(見たまんまじゃん)
どうも
しかし四季殿の宦官かもしれない者を無下に追い
「紅さんは、ここに何か
形式的に聞いてみるが、逆に質問された。
「花音って言ったな。おまえこそ何やってんの?」
「何、って……」
上司が
「仕事です」
と
「こんな時間に?」
「ええ。上司はどうも、仕事配分感覚が常人とはいちじるしく異なっているみたいで」
「上司って……ああ、伯言か! ははっ、確かに常人とは異なるな」
どうやら伯言の変人ぶりは有名らしい。
(笑いごとじゃないんですけど)
可笑しそうに笑っている青年を見て、花音は半眼になる。
「ていうか、だから貴方は何しにここへ? しがない
そうだとしたら相当なヒマ人だが、さっきからこの美青年のしていることといえば花音を笑っていることだけだ。
仕事を中断され幽鬼かもという
まだ笑い
「おまえ、
「あたしは全っ然、面白くないですけど」
花音は冷たく言い放ち、
本の山を見てげんなりするのは生まれて初めてだ。
「この本を、全部読めればいいのになあ……」
「は? 全部読む? どんだけ本好きだよ。いくらなんでもこの量全部は──」
言いかけた紅が急にハッと口をつぐんで周囲をうかがった。
「?」
「くそっ……しつこい奴らだな」
「な、なに? どうかし──」
「花音」
紅はふわりと受付
「な、なんですか」
紅は
「悪いがこれ預かってくれ。オレにとっては、命よりも大事な物なんだ」
手に押し付けられたのは、どこにでもあるような
「命よりも大事!? そんな貴重品、預かれませんっ。それは司書女官の仕事じゃありませんからっ」
花音はあわてて
思わず、押し付けられる勢いに負ける。
「決して中身を見るな。オレが取りにくるまで
「え!? あ、ちょっと!」
しかし紅は
花音は巾着をまじまじと見て、
「…………本?」
命よりも大事な物、と言っていた。本、もしくは帳面だろうか。
「なんであたしに預けていくのよ……」
「こ、今度は何!?」
花音はとっさに巾着を懐にしまった。
蔵書室の扉が大きな音をたてて開き、ずらりと並んだ人影に花音は思わず後じさる。
月明かりをにぶく照り返す、赤黒い
先頭の
「終業の時刻はとっくに過ぎているはずだが」
表情のない、
「すみません。上官の命で、残業を」
「そういうことは内侍省に届け出てもらわねば困る」
何かが月光に
「っ……!」
「我らは後宮の
「ところで我らは人を
(紅い紗上衣……紅のことだ)
「しつこい奴らだ」と言っていたのは、きっとこの不気味な一団のことだろう。だから慌てて出ていったのだ。
見つかれば斬られてしまうかもしれない。
「……いいえ。どなたもいらしてません」
花音は、必死で震えを
武官長はじっと花音を探るように見る。
その
「いました! 凛冬殿の方へ向かっています!」
「四季殿へ入られると
ざっ、と音を立てて、赤黒い一団が
「そなたは、司書か」
武官の長が
自分のことを聞かれているのだとわかって、花音はあわてて頷く。
「ならば、いま一つ。『花草子』という本を見つけたら、内侍省の
そう言って、武官長は
気味の悪い虫が出たときのように、その存在がいなくなっても
(あの武官長も『花草子』を探しているなんて)
同じ日に、同じ本を探す人が二人。
おまけにその本は『
「『花草子』って……一体どんな本なの?」
華月堂の司書女官 後宮蔵書室には秘密がある 桂 真琴/角川ビーンズ文庫 @beans
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