一日目 『花草子』ってなんですか?②

「すごい人み……」

 ここは後宮食堂。

 後宮に住む者たちの食事を一手に引き受けるしようしよく局の、いわば本部である。

 開け放しになった空間には長たくがずらりと奥まで並び、様々な人々がひしめき合って食事をしていた。

 はいぜん台にはおおなべや大せいろうが並び、めんいりめし、肉や魚に点心、ざっと見てもいろんな種類のそうが並び、見ているだけでよだれが出てくる。

「あっあそこの席空いた……って座られた! あっちが空いた……ってまたダメか!」

 目の前の御馳走を「待て」された犬のように、あたふたと座ろうとしては人波に押され、人波をかきわけようとしては押し出され、辺りをひようりゆうすることしばし。

「あんた、こんなところで何してんの?」

 振り向くと、がらによかんが立っていた。白いまえけをしているので尚食女官だろう。

「あれ? ここは??」

 いつの間にか、周囲の景色が変わっていた。

 あのけの大きな食堂はどこへやら、代わりにいくつものえんとつから湯気の立ち上る大きな建物が並んでいた。目の前の女の子と同じように白い前掛けをした女性たちがいそがしく立ち働いている。

 どうやら、人波にここまで押し出されたらしい。

「ここは後宮くりやだよ。迷ったの? 新人さん? お昼、食べてないの?」

「あー、ええと……」

 ぐうううう。花音が言うより先に腹の虫が答える。女官はほがらかに笑った。

「今、食堂がいちばん混んでる時間だからねえ。ちょっと待ってて」

 女官はさっと厨の中に入るとすぐに湯気を上げる蒸篭を大きなぼんせてきた。

「これいつしよに食べない? あたしもちょうど昼食なの」

 新人とお昼出まーす、とちゆうぼう内に一声さけび、女官は花音を連れて戸口をはなれた。

 少し離れた場所に厨房で使うのであろうまきが積んであり、その周囲に丸太で作った、というより丸太が放置されてできたぜいの卓子と椅子いすが点在している。

 尚食女官はその一つに盆を置いた。

「厨の裏手はあたしたち尚食女官のきゆうけい場所なの。あたしたちは食堂へ行って食べる時間はないし、昼時は行っても座る場所もないからねえ」

「たしかに」

 食堂の様子を思い返し、今後の昼食の算段が不安になる。

 花音の不安を察知したのか、尚食女官が笑った。

「だいじょうぶ。食堂が混んでたり食べる時間がなかったら後宮厨に寄って。手の空いてる女官が食べ物出すから」

「本当ですか!? そんなことしてもらっていいんですか?」

「あはは、大げさねえ。みんなやってるからだいじようだよ。気楽に寄ってって」

「あ、ありがとうございます」

 花音が頭を下げると、こちらこそと女官は笑った。

「今日はあんたのおかげでやっと抜けられたよ。もう忙しいったらありゃしない。ありがとね」

 女官は片目をつぶって蒸篭のふたを取る。湯気と一緒にふわんといいにおいが立ち上った。

「ふわあぁああ美味おいしそう……!」

 花音は思わずかんせいをあげた。ふっくらしたパオがいくつも入っている。

 形ちがいがあるので、あんに種類があるのだろう。包子まで種類豊富とは、さすがは貴人の住まう後宮の厨である。

「ふふふ、あたしが作ったんだ」

 黒目がちなくるりとした目、背が低く、全体的に少しふくよかでえくぼの可愛かわいい女官は花音と同じとしごろだろう、愛らしい小動物を思わせる。

「あたし、ようぎよく。見ての通りの尚食女官。あんたは?」

「白花音といいます。華月堂の司書女官です」

 陽玉はくるりと丸い黒目がちの目をさらに丸くした。

「華月堂! あのうわさの! おきさき様のゆうが出るって本当?」

「いや、それはまだわからないですけど」

じゆほんは?」

「ええ、噂ではあるらしいですけど」

「上司がおにって本当?」

「あ、それは本当です」

 花音は迷わずそくとうする。

「へえ……やっぱり火の無いところにけむりは立たない、ってね。かわいそうに。はい、肉まんでも食べて元気だして。熱いから気を付けてね」

 女官がねじり型の包子を花音にわたした。

 花音はそのあつあつの包子にかじりつく。

「美味しい!」

「でしょう? あたしが作ったんだ。あたし、料理のうでだけがまんだから」

 陽玉は笑った。

 二人はしばらく夢中で包子をほおばった。肉餡、餡子、野菜餡、どれもほっぺたが落ちる美味しさだ。

 ひとしきり食べてすいとうの水を飲み、花音はおそるおそる聞いてみる。

「あの……さっきの華月堂の噂のこと、くわしく知ってますか?」

「もちろん」

 陽玉はうれしそうに身を乗り出した。噂話が好きなのだろう。

「華月堂の噂は後宮じゃ有名よ。上司が鬼なのが本当なら、ほかの噂も本当なのかなあ」

 確かにそうかもしれない。花音はごくりとつばをのむ。

「昔、麗春殿のお妃様が……それはおれいな方だったらしいのだけど、読書が好きでね。華月堂にもよくお越しになっていたんですって。お妃様は身体からだが弱くて、をお産みになってから亡くなってしまわれたの。それからというもの、夜になると華月堂には、あかしや上衣を羽織ったお妃様の幽鬼がしよの間を彷徨さまよっているんですって」

「へ、へえ……」

 想像しただけでゾッとするが、幽鬼が出るのが夜ならば問題ないと気を取り直す。

「呪本はね、華月堂のどこにあるか、わからないんだけれど、だれかをにくんだりうらんだりしている人をじゆりよくで引き寄せるんですって。そして確実に人をのろい殺せる力をあたえる代わりに、呪った人もその本に呪われるんですって」

こわいですね……」

『花草子』といったか。人を呪わば穴二つ。その愛らしい題名からは想像のつかないおそろしさだ。

「で、花音の話じゃ、鬼みたいな司書がいるのは本当、と。鬼司書にかいだんじみた噂話。華月堂にはほとんど人が行かないはずよね」

「そうなんですか!?」

 どうりでかんさんとしているはずだ。本があんな状態だとはいえ、らく室である蔵書ろうに官人──しかも鳳伯言だけ──以外にまったくひとかげがないのはおかしい。

「うん。噂を気にしない人は行くみたいだけど、怖がっている人が大半かな。華月堂は身分関係なく誰でも入れる娯楽室だから、みんな気にはなってるけどねえ」

 そのとき、後宮厨の裏から陽玉を呼ぶ声がした。

「陽玉! 食べたらすぐに明日あしたの点心の仕込みやっておいて! あんたの点心がいいって清秋殿からたつしがきてるから!」

 陽玉はいやそうに顔をしかめつつ「はあいただいま」とよく通る声で返事した。

「ねね、あんた、明日ヒマ? お妃様たちのお茶会の手伝い、一緒に行ってくれない?」

「え? えーっと……」

 花音はそくに断る理由が三つかび、そのうちのどれを言おうか迷っていると、陽玉が顔の前で手を合わせた。

「ね、お願い。明日の昼も明後日あさつての昼も、ていうかずっとあんたのゴハンはあたしが保証するから。今日の夜食にこれ持って帰っていいから。ね?」

 陽玉は蒸篭に残っている形ちがいの包子を次々とぬぐいに包む。

「もちろん行かせていただきますっ」

 花音は力強くうなずいた。断る理由はしゆんさつされた。

 今後の美味しい食事が約束されるなら、他局の手伝いをするくらいお安いようだ。はいの時間をけずっても行く価値はある。今日の調子では、明日も伯言はすぐに華月堂からいなくなるだろうから、問題はない。

「でも、何をすればいいんですか? ていうか、他局のあたしなんかがお手伝いに行ってもいいんですか?」

「うん、大丈夫。まえけすれば他局のによかんってバレないから」

 確かに、陽玉のじゆくんも花音と同じ桜色と水色なので、前掛けをすれば外見からは尚食女官に見える。

 陽玉は申し訳なさそうに苦笑した。

「ただ点心とお茶をお運びすればいいだけなんだけど……誰も行きたがらないからさ、四季殿がらみのお茶会は」


 四季殿とは、こう候補の四人の貴妃が住まう殿でんしやだ。

 麗春殿、爽夏殿、清秋殿、凛冬殿。貴妃はそれぞれの殿舎の季節をかんし、しゆんしゆうとうしようされる。

 十年前、今上帝の皇后がほうぎよした後、ちよくめいによりひんはすべて後宮から出された。皇太子は未定なので名目上は今上帝が後宮のあるじであるが、実質、今上帝は後宮をほうしている。

 しかしちかごろ、立太子の話がちようていで持ち上がった。

 その動きを察知して、昨年末いち早くじゆだいしたのが、朝廷の実力者である中書令のむすめようらん。秋妃である。

 次いで入内したのが禁軍大将軍の娘、そうれん。夏妃である。

 少しおいて冬妃、春妃、と入内し、皇太子不在のまま四季殿の貴妃がそろったのだった。


「で、秋妃と夏妃の仲が悪くてね。この二人が同席すると、必ずひともんちやく起こるのよ」

 花音は首をかしげる。

「仲が悪いなら、お茶会で仲良くなればいいのでは? お茶会って、なごやかに点心やてんしよくを食べて、お妃様たちが語らう場所ですよね?」

 花音は後宮をたいにした物語もたくさん読んでいる。お妃様たちのお茶会というのは、後宮から出ることのかなわない彼女たちがせめて美味しいお茶を飲み、おたがいをはげまし合うだんらんの機会としてえがかれている。

 陽玉は顔をしかめて首をった。

「とてもそんなふんじゃないわね。楊秋妃はしようが激しくてすぐにおこるし、宋夏妃はそれをたんたんと流しているし、冬妃と春妃も静観を決めこんでいるし。楊秋妃が茶器を投げつけても、冬妃も春妃も平静をよそおって座っているんだ。怖くない?」

「茶器が投げつけられる……」

 茶器が飛び交っても座っていなくてはならないなんて、苦行のようなお茶会だ。確かに団欒とはほど遠い。

 お妃様というのはあんがい大変な仕事なのかもしれない。

「とにかく、いつしよに行ってくれて本当に助かるよ。明日、よろしくね」

 陽玉はパオでいっぱいになった手拭を花音にうやうやしく差し出した。


    ● ● ●


 太陽が明るいうちに一冊でも多く配架を、と思う。

 夜は明かりが必要になる。蔵書楼という場所がら、火気厳禁なので、とうろうを使うことはできない。尚儀局へ行けば灯火石の入った灯籠が借りられるだろうが、今はその時間がしかった。

 だんだん作業に慣れてくると、本が印別に分けられているため、どこにどんな本が置いてあるのかがなんとなくわかってきた。一冊一冊本の表紙をみがき、書架に収めると、本があるべきところに収まったようで気持ちがいい。

 夢にまでみたこうぐうの蔵書。そして花音の期待を裏切らない量と質の本が、山のように揃っている。本を開けないのが心からつらい。

 しかし手に取れば題名は目に入るしそうていの素晴らしさや状態もわかる。

「さすがは後宮の蔵書。やっぱり装丁が美しいわあ……」

 思わずほおゆるめつつ、花音はかわいた布を片手にさっと表紙を磨き、配架していく。本を磨くのは幼いころからの花音の習慣だ。

「そもそも本は装丁のらしさも込みの芸術品。ぼうほんのざらっとした手軽なかんしよくもいいけど、この表紙のしっかりと頁を守ってくれる感触、色、しようされた模様……あぁ素晴らしすぎる!」

 うっとりとひとり言をつぶやく姿ははたから見れば非常にだろうが、

(いいんだもん。今、華月堂ここにはあたししかいないし)

 となつとくする。

 その直後だった。

「本が好きなんだね」

 背後からの声にぎょっとしてり返り、もう一度ぎょっとする。

(誰……っていうかなんで??)

 その人物は、顔をすみいろふくめんかくしていた。

 長身にこいみどりほう

 くすんだ緑は内侍省の色、その濃色をまとっているということは、内侍省の高官だ。

「決してあやしい者じゃないよ」

 覆面をしている時点で怪しい者っぽい、と花音は思ったが、そのていねいものごしけいかいするのも忘れ、ついたずねてしまう。

「あの……もしかして、見てました?」

「幸せそうな人って、つい見つめたくなるでしょ」

 くすくす笑うふくめんかんがんを前に、花音はずかしさでもんぜつ死しそうになった。

(いやあぁああ見られてた! 恥ずかしすぎるっ)

 そして言い訳するようにあわてて言う。

「いやっ、そのっ……あたし、華月堂の司書女官なんです! だから配架をしていて……新人で……まだ上官からしようをもらってないですけど……」

 しどろもどろでが消えそうになるのが我ながら情けない。

 しかし覆面宦官はさわやかな微笑ほほえみが似合いそうな声で言った。

「徽章がなくても司書女官だってすぐにわかったよ。本のあつかいがとても丁寧だ」

「えっ、本当ですか……?」

 鳳伯言はぜったいに言わないであろうめ言葉に、花音は思わずい上がるような心地ここちになる。

「僕はないぼう局の宦官で、らんという。君は?」

「白花音と申します」

 答えつつ、(内坊局!?)と花音は内心、ぎようてんした。

 内坊局とはとうぐういつさいを取り仕切る内侍省の一局、そこの宦官ということは、男性皇族の身近に仕えているちよう高官である。

「君が華月堂の司書女官ならちょうどいい。たのみたいことがあるんだ」

「あの……失礼ながら、あたしみたいな下っの新人に頼みごとって……あたし、何かお役に立てるんでしょうか」

 上司には司書未満として扱われている身である。

 内坊局の超高官相手にそうでもしたらそつこく、鳳伯言に徽章を燃やされてしまいそうだ。

「華月堂にある『花草子』という本を探してほしいんだ」

「……花草子」

 それは華月堂のどこかにあるという『じゆほん』ではないか。

「どうかした?」

「あ、いえ……」

のろわれるんでしょ? 手にしたら呪われるんだよね、『花草子』)

 花音の心中を見かしたのか、覆面宦官はくすりと笑った。

「だいじょうぶ。うわさのように、さわったら呪われるとか、そんなことはない。内容はともかく、見た目はただの本だと聞く。だから、探してくれないかな、司書女官殿どの

 司書女官というひびきに花音は反射的にうなずいてしまい、ハッとする。

(バカバカあたし、なんで引き受けちゃうのよ!)

 できません、という言葉は、覆面宦官の低い声に消された。

「それと……このことは僕と君だけの秘密にしてほしい。だれにも知られたくないんだ。いいね?」

「は、はあ」

 超高官に念を押され、花音は頷くしかない。

(自分から呪本に近付くハメになるなんて……)

 花音ががっくりしていると、藍が花音をのぞきこんできた。相手は覆面なので表情かおは見えないが、こうも接近されるとさすがに心地ごこちの悪さを感じる。

「あ、あの……なにか?」

「いや、ちょっと気になって。この本の山、まさかと思うけど、君が一人ではいしているの?」

 花音は顔を引きつらせつつ「そのまさかです」と答えた。

「なんてことだ」

 藍は信じられないと呟くと、手近にあった本を拾ってしよもどしはじめたではないか。

 花音は慌ててそれを制止した。

「藍様おやめください! そんなことはあたしがするので!」

 内侍省の超高官に配架をさせるなど、もってのほかだ。しかし藍は覆面を大きく横に振る。

「このじようきようだまって見ていられるほど僕は非情じゃないよ。かよわいによにんにこんなこと全部させるなんて」

 やさしい一言に胸をかれクラクラした。

(神っ……このかたは神だわ)

 その後ろ姿に後光が差している。呪本はこわいけど、この御方がだいじょうぶというならだいじようだろう。

(探すわ、『花草子』)

 藍の持っている本を花音はそっと受け取る。

「配架をどんどん進めて、『花草子』を見つけ出して、必ず藍様におわたしします。司書によかんとして初の資料提供業務ですから」

「それは頼もしいね。では仕事をらいした対価ということで僕も配架を手伝おう。それでいいかな?」

「で、でも」

 ちゆうちよする花音のかたに、藍が手を置いた。

「君は、なんとなくほうっておけない」

 そのこわの優しさに、思わずどきりとする。

花猫フアマオのようでね」

「花猫?」

「昔、そういう名の子ねこを飼っていたんだ。君のようなすい色の目をしていて、くるくるとよく動くから目がはなせなくてね」

「はあ……」

「書架の高い場所は僕に言ってくれ。その方が効率がいいだろう」

「は、はい。わかりました。では、こっちの山から印別に分けますね」

 実際、高い場所に配架してもらえるのは助かる。はしをいちいち移動させなくて済む。

(よ、よし、今はとりあえず、お言葉に甘えて手伝っていただこう)

『花草子』という本を探すという、司書女官らしい仕事が増えた。花音のやる気も三倍増しだ。



 小窓から見える空には、いつの間にかやみ色のとばりが降り、美しい月がのぼっていた。

「くれぐれも無理しないように。明日あしたも来るから」と言い残して、藍は夕方近くに帰っていったのだが。

「内坊局の超高官と配架なんて、やっぱりおそれ多いわよね」

 しかし藍のあの様子では、花音がどう言おうと手伝ってくれそうだ。

「なんとかもっと効率よく片付けられないかしら」

 せめて効率を上げれば配架速度が上がり、藍に手伝ってもらう時間も減る。

 陽玉にもらったパオを食べつつ、花音は室内を見て回った。何か使える物はないだろうか。

 うすぐらい室の奥、かべ書架の近くに、高窓から月光が差しこんでいる。その月光に照らされて、大きな黒いかげが見えた。

「よし。これを使うわ」

 この蔵書室内でおそらく一番大きい梯子。車輪の付いた移動式のものだ。ここに本をせれば手で運ぶよりたくさんの本を移動できる。

 その周辺の本を印別に集めて、梯子のみ板の上にぬぐいき、その上にていねいに本を積み上げていく。梯子は踏み板部分のはばがあるので、かなりの冊数が積めた。

「いい感じ。うまくいきそうだわ」

 花音はにんまり笑った。

 しかし、梯子を押してみると、びくともしない。よくよく点検すると、車輪がきしんで動きにくくなっている。

「油を差さないとダメかな」

 事務室に探しに行こうとした、そのとき。


 さあ、と外から風がき込んできた。

 顔を上げるととびらが大きく開いている。明るい月を背景に、背の高い人影が立っていた。

 あかしや上衣が、風にれている。


うそ!? 華月堂のゆう……!)

 麗春殿に住んでいた、紅い紗上衣をまとった読書好きのおきさきの幽鬼──陽玉から聞いた話がのうをよぎって花音はいつしゆんおののいたが。

 次のしゆんかん、月明かりの中のその光景に思わず息をむ。

 月光と共に地上へ降りたった月神──そんな題名のいつぷくの絵のようだった。

 近付いてきてわかった。女人じゃない。青年だ。

 せいかんな立ち姿、上がった意志の強そうなまゆの下、切れ長のそうぼうきとおるむらさきずいしようのようなとう。羽織っているのは女性物の紅い紗上衣で、その下は月白のしんというな格好だが、青年にはしっくり似合っている。

 無造作にくくった長いくろかみが、肩の上で黒曜石のようなつやめきを放っていた。

 青年はおどろいたようにその紫色の双眸を見開いた。

「誰だ」

(だいじょうぶ、怖がらなくてだいじょうぶ)

 花音は一生けんめい自分を落ち着かせる。うわさの幽鬼はお妃だ。目の前のうるわしい姿は青年じゃないか。

「あたしは華月堂の司書女官、白花音です。あ、貴方あなたは?」

 勇気をふりしぼって答えると、青年は一瞬ぽかん、とした後、可笑おかしそうに笑った。

「な……なにが可笑しいんですか!」

「いや、大に聞くからさ。──後宮ここでオレに誰何すいかするやつがいるとは」

 後半の方は小声で花音には聞き取れなかったが、青年はまだニヤニヤしている。

(ぜったい幽鬼じゃない。ほんものの人だわ。しかも意地悪な)

「名乗るのはれいでしょう」

「それは失礼、司書女官サマ」

 そのバカにしたような態度に花音はいささか腹が立った。

 このうるわしさだ。そんな態度からして、四季殿のかんがんかもしれない。

 だから派手な格好をしてこんなけにウロウロしているのだ。

 今朝のことを思い出し、これ以上四季殿の鼻持ちならない人々とは関わり合いたくない花音は、扉を閉めようとした。

「ちょっ、待っ、なんでめ出すんだよ」

しん者を見たらすぐに家の扉を閉めるよう、父に言われて育ちました」

 本当のことだ。えんらいいまごろくしゃみをしているだろう。

「オレは不審者か!」

「いきなりおとないも入れずに扉を開けて名乗りもしない人は、立派な不審者だと思います」

 を言わさず扉を閉めようとする花音に、青年はあわてた。

「わかった、わかったって。オレは……こうという」

 花音は名乗った青年を頭のてっぺんからつま先までろんげに見た。れい姿を引き立てる紅い紗上衣。名前は紅。

(見たまんまじゃん)

 どうもあやしい。

 しかし四季殿の宦官かもしれない者を無下に追いはらうわけにもいかない。

「紅さんは、ここに何かようですか?」

 形式的に聞いてみるが、逆に質問された。

「花音って言ったな。おまえこそ何やってんの?」

「何、って……」

 上司がおにとかしようもらえないとか過重労働とか、いろんな言葉が頭の中を流れていったが、花音は一言、

「仕事です」

 とたんてきに答えた。

「こんな時間に?」

「ええ。上司はどうも、仕事配分感覚が常人とはいちじるしく異なっているみたいで」

「上司って……ああ、伯言か! ははっ、確かに常人とは異なるな」

 どうやら伯言の変人ぶりは有名らしい。

(笑いごとじゃないんですけど)

 可笑しそうに笑っている青年を見て、花音は半眼になる。

「ていうか、だから貴方は何しにここへ? しがないによかんを笑いに来たんですか?」

 そうだとしたら相当なヒマ人だが、さっきからこの美青年のしていることといえば花音を笑っていることだけだ。

 仕事を中断され幽鬼かもというきようおそわれ、おまけに笑われ、ふつふつと腹の底がえてくる思いがする。

 まだ笑いぶくみの顔が、さらに笑いを深くした。

「おまえ、おもしろいな」

「あたしは全っ然、面白くないですけど」

 花音は冷たく言い放ち、うすやみの蔵書室内に影を作る本の山を見てげんなりする。

 本の山を見てげんなりするのは生まれて初めてだ。かなしくなって、つい夢を口にしてしまう。

「この本を、全部読めればいいのになあ……」

「は? 全部読む? どんだけ本好きだよ。いくらなんでもこの量全部は──」

 言いかけた紅が急にハッと口をつぐんで周囲をうかがった。

「?」

「くそっ……しつこい奴らだな」

 たんれいな顔からみが消え、するどい表情になった。

「な、なに? どうかし──」

「花音」

 紅はふわりと受付たくを飛びえると花音の前に降り立つ。すずやかなほうこうと間近にある端麗な顔に、花音の心臓は脳天までね上がった。

「な、なんですか」

 紅はふところから何かを取り出した。

「悪いがこれ預かってくれ。オレにとっては、命よりも大事な物なんだ」

 手に押し付けられたのは、どこにでもあるようなりのきんちやく

「命よりも大事!? そんな貴重品、預かれませんっ。それは司書女官の仕事じゃありませんからっ」

 花音はあわててき返そうとするが、間近にせまった紫水晶のひとみは、しんけんで。

 思わず、押し付けられる勢いに負ける。

「決して中身を見るな。オレが取りにくるまではだはなさず持っててくれ。いいな?」

「え!? あ、ちょっと!」

 しかし紅はばやく身をひるがえし、扉の外へ消えた。

 花音は巾着をまじまじと見て、かんしよくを確かめる。何か四角くて、かたくて、うすい物。

「…………本?」

 命よりも大事な物、と言っていた。本、もしくは帳面だろうか。

「なんであたしに預けていくのよ……」

 ほうに暮れていると、とつじよ、外で物々しい音がした。

「こ、今度は何!?」

 花音はとっさに巾着を懐にしまった。

 蔵書室の扉が大きな音をたてて開き、ずらりと並んだ人影に花音は思わず後じさる。

 月明かりをにぶく照り返す、赤黒いかつちゆうの一団が、扉を開けた人影の背後にかんぺきな隊列を作る。その一糸乱れぬ動きは、闇にうごめ百足むかでを連想させた。

 先頭のおさらしき武官が花音に近付き、よくようのない声で言った。

「終業の時刻はとっくに過ぎているはずだが」

 表情のない、だけがけいけいと鋭い能面顔。後ろにひかえる武官すべてが同じ能面顔に見えるが、この男だけはひだりほほに大きな傷がある。

「すみません。上官の命で、残業を」

「そういうことは内侍省に届け出てもらわねば困る」

 何かが月光にひらめいた次のしゆんかんはくじんが花音に突き付けられていた。

「っ……!」

「我らは後宮のちつじよの番人。何人たりとも後宮の秩序を乱す者は許さぬ。届け出なくば、われら内侍省じゆんかい武官にられても文句は言えぬと心得よ」

 ふるえで声が出ず、首を縦にるのがやっとだった。武官長は能面めいた顔でかすかにうなずいた。

「ところで我らは人をさがしている。ここに、あかしや上衣をしになったかたがこられたはずだが」

(紅い紗上衣……紅のことだ)

「しつこい奴らだ」と言っていたのは、きっとこの不気味な一団のことだろう。だから慌てて出ていったのだ。

 見つかれば斬られてしまうかもしれない。

「……いいえ。どなたもいらしてません」

 花音は、必死で震えをおさえた。うそがバレないように願って。

 武官長はじっと花音を探るように見る。

 そのやいばのような視線にえきれない、と花音が思ったとき、外で「いたぞ」とごうが上がった。

「いました! 凛冬殿の方へ向かっています!」

「四季殿へ入られるとやつかいだ。行け」

 ざっ、と音を立てて、赤黒い一団がいつせいきざはしを下りていった。

「そなたは、司書か」

 武官の長がかたしに振り返った。

 自分のことを聞かれているのだとわかって、花音はあわてて頷く。

「ならば、いま一つ。『花草子』という本を見つけたら、内侍省のろうほうに必ず届け出るように」

 そう言って、武官長はとびらを閉めた。

 気味の悪い虫が出たときのように、その存在がいなくなってもねんえきが残っているような、身体からだにまとわりつくいやな感じが消えない。

(あの武官長も『花草子』を探しているなんて)

 同じ日に、同じ本を探す人が二人。

 おまけにその本は『じゆほん』だという。

「『花草子』って……一体どんな本なの?」

 ゆかからしようにゆうせきのごとく本の山が積み上がる蔵書室。その闇に、花音は問いかけた。

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華月堂の司書女官 後宮蔵書室には秘密がある 桂 真琴/角川ビーンズ文庫 @beans

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