一日目 『花草子』ってなんですか?①

 ほうじゆ皇宮後宮は、うすべにかすみに包まれているかのようだった。

 春本番のこの季節、ももや桜がき乱れ、吹く春風に散り、それが霞がかっているかのように見えるのである。後宮の内はさながらとうげんきようのようだ。

 そんな後宮の往来で、花音かのんぼうぜんと立ち止まっていた。

「すごい……あれが同じによかん衣とは思えない」

 ゆめまぼろしのごとく花びら散る中、はなやかなよそおいの女官たちが行き交っている。

 おのおのの職場へ急ぐ出仕風景は、美しいちようの群れのようだ。

 後宮の女官の多くはゆうな商家や高級かん、貴族など、良家の子女から選ばれる。彼女たちは支給された女官衣に、自前のかんざしや帯留めやくみひもなどで装うらしい。道行く女官たちが華やかに見えるのはそのためだ。

 対して、同じ女官衣を着ているとは思えないくらい地味な女官もちらほら見かける。

「試挙組」と呼ばれる女官だ。

「試挙組」の女官は試挙を受けて女官になった者たちで、才あふれても経済的にめぐまれていない。そのためそうしよく品というものをまったく持っておらず、支給された女官衣を支給されたままに着る。

 そうすると、花音のようなで立ちになる。

 桜色のじゆに、水色のくん。以上。

 それでも花音にとっては、じゅうぶん着かざっていると言える。

 いずれにせよ、自分の装いが華やかかいなかは花音にとってどうでもいいことであった。

(ああっ、あの簪を売ったら、ぼうほんが何冊買えるかしら。あっ、あの帯紐留めはさいしき装丁本三冊分の価値があるわね)

 花音は華やかな往来をきょろきょろしつつそんなことを考えていたのだ。

 いつぱん的な十六歳のむすめなら華やかな装いをうらやましがったりするのだろうが、花音はおしゃれにはとんととんちやく

 というより、本以外のことにはほとんど興味がない。

(早く本が読みたいなあ)

 なんといっても花音が司書女官になったのは、後宮の蔵書を読みあさるため。

 ちんぽん貴本、大量の本で溢れているにちがいない職場を目指して、花音はえいの立つひときわ大きな門──ずいうん門をくぐった。

「……ここはどこ??」

 瑞雲門の先は、きつしようぐう──宝珠皇宮後宮の中心である。

 それは知っている。知っているが思わずつぶやいたのは、この世のものとは思えないけんらんそうれいな景色が広がっていたからだ。

 後宮の中心と呼ぶにふさわしく、ごうしや殿でんしやがこれでもかと林立している。

 金色しゆりのらんかんに柱、みがき上げられた回廊、ずらりとるされた見事な金銀細工の吊灯籠、美しく整えられた庭院にわの光をはじがわらは、ゆうだいな河の波のようにきらめき、どこまでも続く。

 そのごう絢爛さにめまいを覚え、方向感覚を失ったそのとき。

「!?」

 後ろからのしようげきに花音はよろめき、きんこうくずしててんとうした。

「いったあ……」

 したたか打ったおしりをさするのもつかの間、

「どこを見て歩いている!」

 厳しい𠮟しつせきの声にあわてて顔を上げると、吊り上がった細目の女官が花音を見下ろしていた。

 あざやかなこいだいだい色の襦裙を着て、後ろには花音と同じとしごろうす橙の襦裙の少女たちを引き連れている。少女たちのきんちようしたおもちは花音と同じく新入女官と思われた。

 試挙のために学んだ知識とにゆうぐう式で聞いた知識を、花音はしゆんに頭の中で整理する。

 後宮の女官は後宮六局に所属し、その襦裙は青と赤、局をかたしようで示し、階級を襦裙ののうたんによって見分ける。襦裙の色がいほど階級が高いことを示し、それはひん付きの女官でも同様。

 ただし、殿でん付きの女官は仕える殿舎の殿てん色の襦裙を着る。

 よって目の前の女官の襦裙の色が濃いのは、高位女官のあかしだ。

 花音はすぐに先頭の女官に平伏した。

「申し訳ございません」

「……そなた、簪一つも持っておらぬのか」

 頭上から降ってきた冷ややかな質問に、なぜ急に簪の話が、と花音はいつしゆん返答にまる。花音がだまっているのを返答と受け取ったらしい女官は、鼻で笑った。

「若い娘が簪一つも持っていないとはな。まあ無理もないか。そなた、試挙組であろう?」

「はあ……おおせの通りにございます」

 言ったたん、女官の高笑いがひびいた。

「やっぱり。試挙組のしよみんゆえ、装飾品も上流社会の常識も教養も無くて当たり前。だから我らせいしゆう殿の女官の前を横切るなどという失礼きわまりないことができるというもの」

(いや……横切ってないけど。というか、ぶつかられたんだけど、貴女あなたに)

 客観的事実を心の中で呟くが、もちろんそれは女官には聞こえない。

「おおいやだ、女官も試挙で登用するとは、どうかしている。女官は良家の子女からのみ選ばれればそれでよろしいというのに」

 どうしてこんな庶民のひんそうな娘と同列に、とき捨てるように言って、女官は濃橙の裙のすそおおひるがえした。

(……相手が悪かったわ)

 花音は大きくためいきをついた。

 橙色は、清秋殿の御殿色だ。

 清秋殿とは、こう候補の貴妃がじゆだいする四季殿の一つ。四季殿はれいしゆん殿、そう殿、清秋殿、りんとう殿、の四殿舎から成る。

 そこは豪華絢爛、華やかな絵巻物の世界。そして四季殿付きの女官というのは、ほとんどが良家出身の子女だ。

 そんな彼女たちが、花音のような庶民の娘をちりあくたのように見るのは仕方ない。

 けれど「庶民のくせに女官になるなんて」と面と向かって言われると、必死で勉強して試挙にきゆうだいした身としてはやはりへこむ。

 美しく装った新人女官たちは一様に冷笑をかべ、こうべを垂れる花音の前を通り過ぎていく。

 だが、さいこうの女官だけは申し訳なさそうに笑みを作った。

 女官はそっと列を外れるとかすかにしやくをした。先頭の女官ほどではないがやや濃い橙の襦裙。ったかみに差したひかえめな簪が陽光を弾く。美しいしまようのうやさしくれた。

「道に迷われまして? 入宮されたばかりだと、広くてお困りでしょう。よろしければ、目的地までお送りしますわ」

「そんな、いいです」

 内心その申し出に甘えたい自分をぐっとおさえて言うと、女官は花音の耳元でそっと言った。

「同じ『試挙組』のよしみで。私も入宮したばかりのころは煌びやかな後宮に気おくれしたものですわ」

「貴女も『試挙組』なんですか?」

 たおやかなふんや所作は根っからのおじようさまのように見える。目を丸くしている花音に、女官は微笑ほほえむ。

「清秋殿はもうすぐそこ、新人女官たちは私がおらずともだいじようですから、えんりよなさらず。どちらまで行かれるのです?」

 そこまで言われ、花音は思わず、「では……げつどうまでお願いします」と言ってしまった。

「華月堂……ですか」

 によかんは一瞬、とまどったように見えたが、

「わかりました。では参りましょう」

 と先に立って歩きだした。



「すごいですね。こんなに広い場所を、迷わずに歩けるなんて」

 花音は心から感心した。女官は、時折すれちがう女官たちに会釈をしながら水に泳ぐ魚のように白玉石のかれた道を進んでいく。

 せっかく案内してもらうのだから道を覚えなくては、と必死に周囲を観察するが、人は多いし建物はいちいちまばゆいし、覚えられているか自信がない。

「もう慣れましたわ。後宮にきて、三年になります」

 女官はどこかさびしげに微笑んだ。

「最初は広いし人もたくさんいるし、こわかったです。でも、慣れてしまうものです。すべてのことに、良くも悪くも」

「はあ……」

 そんなものかと花音は思う。自分もあと三年てばこんなふうに落ち着いて行動できるのだろうか。

「貴女、お名前は?」

はく花音といいます」

「私はえいりんと言います。花音さんは、失礼ですが、おいくつ?」

「十六です」

 英琳はまあ、とうれしそうに破顔した。

「やっぱり思った通り。私の妹と同い年ですわ」

「妹さんがいらっしゃるんですか?」

「ええ……故郷に一人。甘えんぼうでね」

 幼い頃から身体からだの弱い英琳の妹は、英琳が入宮してからも姉こいしさによくふみを送ってくるのだという。困った子だと言いながら、英琳の顔は優しく微笑んでいる。

「仲良しなんですね。いいなあ」

「花音さんは、兄弟はいらっしゃらないの?」

「はい。一人っ子です。父一人むすめ一人で。母は、あたしが小さいときに亡くなりました」

 英琳は「まあ……」とまゆくもらせて、それからふんわりと微笑んだ。

せんえつですけれど、後宮では私を姉とも思ってくださいましね。これも何かのえんですわ。さきほどの場所──清秋殿の南西の角に、なぎの木がありましたでしょう」

 確かに大きな梛の木があった。あれは清秋殿の南西の角なのか、と花音は頭に刻み込む。

「相談事があったらお一人でなやまず、そこに何か花を結んでください。花音さんだと思って、いつでも会いに参りますわ」

「あ……ありがとうございます!」

「試挙組の女官」と悪しざまに言われた後なので、この温かい言葉は胸にみた。

「でも、英琳さん、すごいですね。試挙組なのに、その……清秋殿の、高位の女官でいらっしゃるのでしょう?」

 四季殿の女官はほとんどが良家の子女出身。試挙組の女官が推挙されるには、相当な苦労と実力がなくてはなれないはずだ。そんな高位の女官にこんなに気安くしてもらっていいのだろうか、と思いつつ言うと、英琳はなぜか表情を曇らせた。

「そんな……私など、すごくもなんともないのです」

「……?」

 その思いつめたような言い方が気になり、花音が口を開こうとしたとき、英琳がり返った。

「あれが華月堂ですわ」

 気が付けば吉祥宮のなんたんへいが見えており、ずいこうの低いかきもれるように小さないしどうろうが並ぶ場所に出ていた。

「あれが?」

 花音は目の前の建物を見上げる。

 大きさはそこそこだが、これまで見たけんらんな建物群からすると、物置蔵か倉庫とちがうほど地味な建造物だ。

 りっぱなしの赤茶けたかべそうしよくのない屋根やらんかん

 窓が小さい造りは蔵書ろうだからだろう。

 ぐるりと半周めぐると、きざはしの上にとびらが見える。建物の地味さに比して立派な扉で、不可思議な学模様がしようされていた。

 庭院にわというには小さすぎる場所には瑞香の低木がかぐわしいかおりを放ち、小さながある。

 吉祥宮で今まで見てきたごう絢爛きらびやかな風景とは真逆な、地味な風景──だが。

てき……建物から古い紙のにおいがする! きっと大切に保管されてきた本がたくさんあるんだわ」

 花音は目をかがやかせて英琳の手をにぎった。

「こんな後宮のすみっこまで来ていただいて、本当にありがとうございました」

「い、いいえ、とんでもない。わたくしこそ、楽しいひと時をありがとうございました」

 英琳は微笑んだが、ふと気づかわしげに声を落とした。

「わたくしも人づてに聞くだけですが、華月堂にはいろいろなうわさがありますの。ぞんじですか?」

「ええ、たしかに……」

 花音も、入宮式で小耳にはさんだ。

 上司がおにでいびり殺された女官がいるとか、読書好きだったきさきゆうが出るとか、そんな他愛たわいもない噂だ。

「だいたいは取るに足らぬ噂話ですが……ただ一つ、華月堂に『じゆほん』がある、というのは本当らしいんです」

 思わぬ言葉に花音は目を見開く。

「呪本?」

 幽鬼とか上司が鬼とかは聞き流せるが、呪本となると気にかかる。本好きのこうしんがむくむくと頭をもたげる。

「その本の名前、御存じですか?」

「え、ええ……古参の女官から聞いた話では、『はなぞう』というのだそうです」

「花草子……」

 なんだか可愛かわいらしい題名だ。呪本というより、いやし本という感じすらする。

「その本を手にした者はのろわれた力を手に入れるとか、身をほろぼすとか。後宮に古くから伝わる話だそうです。どうか、お気を付けになって」

 花を結んでくださいね、と英琳は微笑んで去っていった。

「『花草子』か……」

 本を手にしただけで身を滅ぼすとは、確かにおそろしい呪本だ。

「だ、だいじょうぶかしら、華月堂……」

 自分の職場への不安が大きくつのる。

 ふと思い出し、花音はかかえたひらつつみからすいとうを出した。

 ていねいられた山桜と花音の名にれると、不安な気持ちが少しやわらぐ。

「ありがとう、父さん。あたし、負けないよ」

 うそをついてまで故郷に残してきた父のことを思い、花音は自分を奮い立たせた。

「たくさんの本に囲まれて好きなだけ読めて、お給金までもらえる。こんなおいしい仕事ないわ。幽鬼が出ようが呪本があろうが、本があるかぎりそこは理想郷。読みまくって、働きまくるわ!」

 花音は力強く決意表明を春空にさけび、ぐびぐびと水を飲んで平包にった。

「よし、行こう」

 幾何学模様のえがかれた扉に向かって階を一歩一歩上っていく。

 美しく不思議な気持ちになる幾何学模様。花音はあせにぎる手でそっと扉をたたいた。

「失礼します。この度のにゆうぐう式で、華月堂司書女官の任を拝しました、白花音と申します」

 いつぱくおいて「どうぞ」とゆうな声が返ってくる。

 女性? それにしては声が低いような。

「失礼します」

 扉を両手で思いきって開け、花音は理想郷への一歩をみ出した。

 うすぐらい室内、長たくの奥に大きなとう椅子いすがあり、優雅に足を組んで座っている人物がいる。

 その姿を見たしゆんかん、「地味なうすねずほうに丸眼鏡の老かんがんが待ち構えている」、という脳内予想がガラガラと音をたててくずれていった。

(この人、だれ??)

 あざやかなむらさきの袍に、すみ色のはかま。籐椅子に預けた身体のたけからいって明らかに男性だ。しかしここの官人、というにははなやかすぎる。

しよう……してるよね??)

 いらっしゃい、と動いた形の良いくちびるにはうっすら紅を差しているように見える。薄暗くてもそれとわかる整った顔立ちは中性的で、いずれの殿でんしやひんと言われてもおかしくないぼうだ。

(も、もしかしてすごく大きいお妃様、とか…?)

 あたふたする花音とは対照的に、その人物は妃嬪もかくやという優雅な身のこなしでおうぎを動かし、えんぜん微笑ほほえんだ。

「華に遊び月に歌う──ここは書に親しみたい者がせんの別なくおとずれる、後宮ゆいいついこいの場。ようこそ華月堂へ。あたしはここの司書長官、ほうはくげんよ」

(司書長官!)

 これが噂の鬼上司なのか? というきんちようが走る。

『新人司書がいびり殺された』という噂話がのうをよぎり、あわててきようしゆした。

「改めまして、白花音と申します。どうぞよろしくお願いします」

 花音は目線をちら、と上げ、目の前の上司を見た。

 深いふたの大きなそうぼう、それをふちる長いまつ、高いりようにすっきりとした口元。

 甘いたんせいな顔立ちは、い化粧でむしろ台無しになっている感があるくらいだ。化粧などしなければいいのに。

 鬼どころか、どこぞのひめか貴公子かと思われるれいぼうだ。

 美しい。美しすぎる──宦官。

(もちろん宦官、だよね?)

 後宮にいる男性は、例外を除いて宦官である。

 蔵書楼は後宮のものもふくめて秘書省のかんかつ、秘書省からしよう局へけんされるのは老宦官だと思っていた。若くて見目の良い宦官はない省に配属され、皇族や妃嬪のきゆう殿でんへ配されると聞いていたからだ。

(華月堂が内侍省の管轄なのかな……??)

 と思ったせつ、花音の目の前で扇がするどい音をたてた。

「!」

 おどろきのあまり何度も目をしばたかせる花音に、鳳伯言は大きな扁桃アーモンドのごとき美しい双眸をすがめる。

「ダダれ。頭の中ダダ漏れよ白花音。顔にすべてが出たんじゃあ後宮で生き残れないわよ!」

(生き残る? あたしは妃嬪じゃなくて司書によかんなんですけど?)

 などと心の中でツッコむが、鳳伯言はえがまゆを上げてせまってくる。

「返事は!」

「は、はい!」

「いい? まず華月堂は内侍省管轄ではない。どこの指図も受けないこうの官司なの」

 鳳伯言は得意げに言うが、花音は顔を引きつらせた。

「孤高……」

 物は言いようである。

(華月堂はかんしよくなんだわ、きっと)

 せんされた宦官や使いものにならない官人の墓場。

 さきほどから、鳳伯言より他にひとかげを見ない。いくらなんでも官人が一人の職場など有り得ない。しかし華月堂が「官人の墓場」ならそれもなつとくできる。

「それから! あたしが宦官かどうかを聞くのは失礼よ! 女性にとしを聞くのと同じくらい失礼!」

(いや聞いてないし!)

 ひそかにドン引いたがだまってコクコクとうなずいた。

「ここは少数せいえい、孤高の職場。使えない者はおはらい箱よ。新人といえどもようしやはしない。おわかり?」

 鳳伯言はにしきふくろを取り出し、中から銀色の小さい板のような物を取り出して花音に向けた。

「そ、それは!」

 花音は思わず声を上げた。

 つた文様の中に、愛らしい鳥が羽ばたく姿がせいしようされた銀板。

 それは入宮式で、なぜか花音だけ受け取れなかった尚儀局しようだ。同じ尚儀局のがくぼうさいなどの女官にはそれぞれ配付されていたのに。

「お察しの通り、これは司書女官のあかしである徽章よ。あんたはまだ、司書未満。あたしが使える司書と認めたら、さしあげるわ。ただし! 使えないと判断したらそつこくお払い箱だから」

「そ、そんな! あたしは正式な辞令を拝してこちらに──」

「口答えしない! わかったの? わからないの?」

 美しき上司は徽章をてのひらの上でもてあそんでいる。

(あたしの司書女官としての命運は、この人の手中にあるんだわ……この徽章みたいに)

「返事は?」

「……わ、わかりました」

 鳳伯言は満足そうにみ、手の中でぴしりと扇を打った。

「よろしい。では、さっそく仕事よ」



 ──華月堂にはおに上司がいる。

うわさは本当だった……」

 しょっぱなから司書未満呼ばわりされ、徽章はもらえず。

「予定ではいまごろ、本を読みまくっているはずなのに──っ」


 世界中の書物、ちんぽん貴本。加えて、宝珠こうぐうにあるぼうだいな蔵書。それら本の海におぼれて幸せの悲鳴を上げつつ次から次へと本を手に取る、新しい本と出会い放題、ときめきの理想郷。

 そこに花音は身を置いている──はずだった。


 その理想郷の前に立ちはだかったのが、鬼上司・鳳伯言。

 鳳伯言に言いつけられた仕事とは、本をしよもどすこと。

『ここにある本を書架に戻してね。つまりはいよ。本にはすべて、印がられている。同じ印が刻まれた書架に本を戻すの。それだけ。簡単な仕事でしょ? 五日間で終わらせてちょうだいね』

 確かに簡単だ。簡単なのだが。

「これが五日間で終わるわけないわよっ!」

 空っぽの書架の下、まるで地面からにょきにょき生えたしようにゆうせきのような本の山が蔵書室の奥まで続く。

 何度も確認したが、すべての書架において同じじようきようだった。

 つまり現在、この蔵書室内の本はすべて書架から出されている。

 それをたったの五日間ですべて元通りに戻せとは。おまけに指示した当人は手伝いもせずとっとと去ってしまうとは。新人いびりとも取れる無茶りだ。

「思う存分本が読めない……これじゃあ鹿ろつ村にいるときと変わらない……どころか状況が悪くなってる……」

 むしろ目の前にすいぜんものの本が大量にあるぶん、読みたいのに読めないという負荷が心をあつぱくするこくな状況と言える。

 うず高く積み上げられた本の谷間に座り込んで、花音はがっくりかたを落とした。

 こうなると、鬼上司にいびり殺された女官がいる、という噂は本当かもしれない。

 花音は伯言のようえんな笑みを思いかべ、首をぶるぶる振った。

「無茶振りでもなんでも、やるしかない。早くこの配架を終わらせて、徽章を手に入れなくちゃ!」

 徽章はいわば、身分証明書。徽章なくして司書を名乗ることはできないと言っても過言ではない。

 これがいびりでも無茶振りでも、だれもが認める司書女官になるには、鳳伯言という鬼上司のかべえなくてはならない。

 花音は決意を新たにして、本の山とかくとうを始めた。が、しかしどうしたことか、立ちくらみに思わず座り込む。

 このまま鬼上司にコキ使われて過労死したらどうしよう。

「誰か助けて……」

 かすかにつぶやいた、そのとき。

 ぐうううう ぐうきゅるる!

「──あは、ははは。そういえばおなかいてるかも……」

 なんのかんのでお昼を食べていないことに気付く。立ち眩みもするはずである。

 花音は、いったん作業を中断して、後宮食堂に向かった。

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