一日目 『花草子』ってなんですか?①
春本番のこの季節、
そんな後宮の往来で、
「すごい……あれが同じ
後宮の女官の多くは
対して、同じ女官衣を着ているとは思えないくらい地味な女官もちらほら見かける。
「試挙組」と呼ばれる女官だ。
「試挙組」の女官は試挙を受けて女官になった者たちで、才
そうすると、花音のような
桜色の
それでも花音にとっては、じゅうぶん着
いずれにせよ、自分の装いが華やかか
(ああっ、あの簪を売ったら、
花音は華やかな往来をきょろきょろしつつそんなことを考えていたのだ。
というより、本以外のことにはほとんど興味がない。
(早く本が読みたいなあ)
なんといっても花音が司書女官になったのは、後宮の蔵書を読み
「……ここはどこ??」
瑞雲門の先は、
それは知っている。知っているが思わず
後宮の中心と呼ぶにふさわしく、
金色
その
「!?」
後ろからの
「いったあ……」
したたか打ったおしりをさするのも
「どこを見て歩いている!」
厳しい
試挙のために学んだ知識と
後宮の女官は後宮六局に所属し、その襦裙は青と赤、局を
ただし、
よって目の前の女官の襦裙の色が濃いのは、高位女官の
花音はすぐに先頭の女官に平伏した。
「申し訳ございません」
「……そなた、簪一つも持っておらぬのか」
頭上から降ってきた冷ややかな質問に、なぜ急に簪の話が、と花音は
「若い娘が簪一つも持っていないとはな。まあ無理もないか。そなた、試挙組であろう?」
「はあ……
言った
「やっぱり。試挙組の
(いや……横切ってないけど。というか、ぶつかられたんだけど、
客観的事実を心の中で呟くが、もちろんそれは女官には聞こえない。
「おおいやだ、女官も試挙で登用するとは、どうかしている。女官は良家の子女からのみ選ばれればそれでよろしいというのに」
どうしてこんな庶民の
(……相手が悪かったわ)
花音は大きく
橙色は、清秋殿の御殿色だ。
清秋殿とは、
そこは豪華絢爛、華やかな絵巻物の世界。そして四季殿付きの女官というのは、ほとんどが良家出身の子女だ。
そんな彼女たちが、花音のような庶民の娘を
けれど「庶民のくせに女官になるなんて」と面と向かって言われると、必死で勉強して試挙に
美しく装った新人女官たちは一様に冷笑を
だが、
女官はそっと列を外れると
「道に迷われまして? 入宮されたばかりだと、広くてお困りでしょう。よろしければ、目的地までお送りしますわ」
「そんな、いいです」
内心その申し出に甘えたい自分をぐっと
「同じ『試挙組』のよしみで。私も入宮したばかりの
「貴女も『試挙組』なんですか?」
たおやかな
「清秋殿はもうすぐそこ、新人女官たちは私がおらずとも
そこまで言われ、花音は思わず、「では……
「華月堂……ですか」
「わかりました。では参りましょう」
と先に立って歩きだした。
「すごいですね。こんなに広い場所を、迷わずに歩けるなんて」
花音は心から感心した。女官は、時折すれ
せっかく案内してもらうのだから道を覚えなくては、と必死に周囲を観察するが、人は多いし建物はいちいちまばゆいし、覚えられているか自信がない。
「もう慣れましたわ。後宮にきて、三年になります」
女官はどこか
「最初は広いし人もたくさんいるし、
「はあ……」
そんなものかと花音は思う。自分もあと三年
「貴女、お名前は?」
「
「私は
「十六です」
英琳はまあ、と
「やっぱり思った通り。私の妹と同い年ですわ」
「妹さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ……故郷に一人。甘えんぼうでね」
幼い頃から
「仲良しなんですね。いいなあ」
「花音さんは、
「はい。一人っ子です。父一人
英琳は「まあ……」と
「
確かに大きな梛の木があった。あれは清秋殿の南西の角なのか、と花音は頭に刻み込む。
「相談事があったらお一人で
「あ……ありがとうございます!」
「試挙組の女官」と悪しざまに言われた後なので、この温かい言葉は胸に
「でも、英琳さん、すごいですね。試挙組なのに、その……清秋殿の、高位の女官でいらっしゃるのでしょう?」
四季殿の女官はほとんどが良家の子女出身。試挙組の女官が推挙されるには、相当な苦労と実力がなくてはなれないはずだ。そんな高位の女官にこんなに気安くしてもらっていいのだろうか、と思いつつ言うと、英琳はなぜか表情を曇らせた。
「そんな……私など、すごくもなんともないのです」
「……?」
その思いつめたような言い方が気になり、花音が口を開こうとしたとき、英琳が
「あれが華月堂ですわ」
気が付けば吉祥宮の
「あれが?」
花音は目の前の建物を見上げる。
大きさはそこそこだが、これまで見た
窓が小さい造りは蔵書
ぐるりと半周
吉祥宮で今まで見てきた
「
花音は目を
「こんな後宮の
「い、いいえ、とんでもない。わたくしこそ、楽しいひと時をありがとうございました」
英琳は微笑んだが、ふと気づかわしげに声を落とした。
「わたくしも人づてに聞くだけですが、華月堂にはいろいろな
「ええ、たしかに……」
花音も、入宮式で小耳にはさんだ。
上司が
「だいたいは取るに足らぬ噂話ですが……ただ一つ、華月堂に『
思わぬ言葉に花音は目を見開く。
「呪本?」
幽鬼とか上司が鬼とかは聞き流せるが、呪本となると気にかかる。本好きの
「その本の名前、御存じですか?」
「え、ええ……古参の女官から聞いた話では、『
「花草子……」
なんだか
「その本を手にした者は
花を結んでくださいね、と英琳は微笑んで去っていった。
「『花草子』か……」
本を手にしただけで身を滅ぼすとは、確かに
「だ、だいじょうぶかしら、華月堂……」
自分の職場への不安が大きく
ふと思い出し、花音は
「ありがとう、父さん。あたし、負けないよ」
「たくさんの本に囲まれて好きなだけ読めて、お給金までもらえる。こんなおいしい仕事ないわ。幽鬼が出ようが呪本があろうが、本があるかぎりそこは理想郷。読みまくって、働きまくるわ!」
花音は力強く決意表明を春空に
「よし、行こう」
幾何学模様の
美しく不思議な気持ちになる幾何学模様。花音は
「失礼します。この度の
女性? それにしては声が低いような。
「失礼します」
扉を両手で思いきって開け、花音は理想郷への一歩を
その姿を見た
(この人、
(
いらっしゃい、と動いた形の良い
(も、もしかしてすごく大きいお妃様、とか…?)
あたふたする花音とは対照的に、その人物は妃嬪もかくやという優雅な身のこなしで
「華に遊び月に歌う──ここは書に親しみたい者が
(司書長官!)
これが噂の鬼上司なのか? という
『新人司書がいびり殺された』という噂話が
「改めまして、白花音と申します。どうぞよろしくお願いします」
花音は目線をちら、と上げ、目の前の上司を見た。
深い
甘い
鬼どころか、どこぞの
美しい。美しすぎる──宦官。
(もちろん宦官、だよね?)
後宮にいる男性は、例外を除いて宦官である。
蔵書楼は後宮のものも
(華月堂が内侍省の管轄なのかな……??)
と思った
「!」
「ダダ
(生き残る? あたしは妃嬪じゃなくて司書
などと心の中でツッコむが、鳳伯言は
「返事は!」
「は、はい!」
「いい? まず華月堂は内侍省管轄ではない。どこの指図も受けない
鳳伯言は得意げに言うが、花音は顔を引きつらせた。
「孤高……」
物は言いようである。
(華月堂は
さきほどから、鳳伯言より他に
「それから! あたしが宦官かどうかを聞くのは失礼よ! 女性に
(いや聞いてないし!)
「ここは少数
鳳伯言は
「そ、それは!」
花音は思わず声を上げた。
それは入宮式で、なぜか花音だけ受け取れなかった尚儀局
「お察しの通り、これは司書女官の
「そ、そんな! あたしは正式な辞令を拝してこちらに──」
「口答えしない! わかったの? わからないの?」
美しき上司は徽章を
(あたしの司書女官としての命運は、この人の手中にあるんだわ……この徽章みたいに)
「返事は?」
「……わ、わかりました」
鳳伯言は満足そうに
「よろしい。では、さっそく仕事よ」
──華月堂には
「
しょっぱなから司書未満呼ばわりされ、徽章はもらえず。
「予定では
世界中の書物、
そこに花音は身を置いている──はずだった。
その理想郷の前に立ちはだかったのが、鬼上司・鳳伯言。
鳳伯言に言いつけられた仕事とは、本を
『ここにある本を書架に戻してね。つまり
確かに簡単だ。簡単なのだが。
「これが五日間で終わるわけないわよっ!」
空っぽの書架の下、まるで地面からにょきにょき生えた
何度も確認したが、すべての書架において同じ
つまり現在、この蔵書室内の本はすべて書架から出されている。
それをたったの五日間ですべて元通りに戻せとは。おまけに指示した当人は手伝いもせずとっとと去ってしまうとは。新人いびりとも取れる無茶
「思う存分本が読めない……これじゃあ
むしろ目の前に
うず高く積み上げられた本の谷間に座り込んで、花音はがっくり
こうなると、鬼上司にいびり殺された女官がいる、という噂は本当かもしれない。
花音は伯言の
「無茶振りでもなんでも、やるしかない。早くこの配架を終わらせて、徽章を手に入れなくちゃ!」
徽章はいわば、身分証明書。徽章なくして司書を名乗ることはできないと言っても過言ではない。
これがいびりでも無茶振りでも、
花音は決意を新たにして、本の山と
このまま鬼上司にコキ使われて過労死したらどうしよう。
「誰か助けて……」
ぐうううう ぐうきゅるる!
「──あは、ははは。そういえばお
なんのかんのでお昼を食べていないことに気付く。立ち眩みもするはずである。
花音は、いったん作業を中断して、後宮食堂に向かった。
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