第一章 湖に落ちかける②

 靄におおわれた暗い緑色の湖を、いつそうぶねが進んでいく。

 中央へ進むほど靄は白さを増して、あさぎりのようだった。水面は本来のうすい青に黒ずんだ緑が混ざり、その上をさいな黒と白の瘴気が彷徨さまよっていく。夜空を星雲が行きう様が見えたなら、こんな光景だろうとフェニシアは思った。「意外と綺麗ですね」と先につぶやいたのはグラシカだ。じようをそばで見たいと言い出し、聖女の舟に同乗していた。

「そうですね。完全な悪性でなくて良かった」

 魚はがいを受けただろうが、湖の周囲の草木まではしよくを受けていない。この変種の瘴気を浄化し、水の色を元にもどせば解決する。

「では私は詠唱に集中するので……話しかけないでくださいね、中断されるので」

 かいを持つ聖兵二人と王がうなずくのを見てから、フェニシアは水面に親しみかけるように身をかがめて両手を組んだ。ささやくのは太古から伝わる聖なる詩。その声に応じるように周囲を白い光がほたるのようにただよい、重苦しいよどみが帯をひるがえすように次々と浄化されていく。

 ──瘴気がすべて取り除かれますように。

 霧が晴れるように、湖面に光が広がっていった。


 数分後、すべてが清められた気配を感じて、フェニシアは顔を上げる。

 美しいとうめいの湖が広がっていた。湖畔で見守っていた人々から、わっとかんせいが届く。

(よかった、無事終わった)

 聖女抜きに聖水だけでたいこうしようとしたら何百リットル必要だったかわからない。

 住民から飛び交う感謝の言葉に、湖の真ん中、手を振り返すために立ちあがろうとして──思うように足が動かず、うっかりバランスを崩して体が宙にかんだ。

「──っ!」

 息が止まるしゆんかん。まるで自分が世界の流れから放り出されたような感覚。

「……聖女様」

 気がつけば彼に──グラシカに背を支えてもらっていた。

「あ……」と目を丸くしながら、フェニシアはぼんやりと、近い、と思った。静かで、どこかげんさのある彼が、すぐ目の前にいる。

「……え、あ、ありがとう、ございます……? とっ、とつの動きがらしいですね!」

 混乱して、みようなことを口走った。案の定、彼は「はぁ」と気のないあいづちだけを返す。

 かいいでいた聖兵二人も駆け寄ろうとしていたが、彼らでは間に合わなかっただろう。おかげで助かった。民衆の前で湖に落ちるわけにはいかない。

 フェニシアの姿勢が戻ると、彼はすっと手を放して聖兵を見た。しんぱん待ちのようだ。

「だ、だいじようですよ、助けてもらっておいて問題にはしません!」

 聖女は純潔を求められる。自国の王だろうが男であれば、下手をすると聖女の背にれただけで不敬罪だ。目が合わない彼は、ふいに上空を見て「準備を」と短く言った。

「え?」

「なにか来ます」

 ぶわり、と寒気が押し寄せるような気配がして、きよだいかげが森を覆いながらせまっていた。

「なにあれ!? 鳥!?」

 人の家屋すらつぶせそうなりようよくを持ったからすだった。一瞬で訪れた異変に気を引きめ直す。湖の浄化は済んだはずだが、あのまがまがしい気配は悪性しようだ。

 やみの色をまとう『敵』を見上げながら、グラシカが腰のけんを抜いて呟く。

「報告には無かったはずですが……南の《森》から来たのかもしれませんね。あそこの瘴気でたまにものが生まれますから」

「《さわらずの森》から!? なんでこんな時に──いや、むしろ私がいる時で良かった!」

 けものが変異したものが魔物だ。肉体が完全に変異した生き物は元に戻せない。亜人が《祖人》にならないように。そして魔物は亜人と違って人間に敵意を持っている。

 殺すしかない、と彼は言う。

「私の浄化でもなんとかなりますけど……でも」

 浄化を始めればちようねらいがこちらに向くのは間違いないが、浄化には数分かかる。その間とつしんされれば、こんな小さな舟はてんぷくしかねない。おぼれてえいしようれさせないためには足場が必要だ。だが岸に戻るまでに民衆の方をおそわれてはもっと困る。

たみが──まずい」

 魔鳥ははんの民衆に襲い掛かろうとする。まどう人々を守りながらグラシカの亜人私兵たちが応戦した。──聖女がここにいるのに、手が届かないなんて。

 溺れてもいいから助けたい。けれど、あせって仕損じればもっと被害は深刻になる。

 息がまりそうなしようそうと迷い。それをかしたように、彼がはっきりと言った。

「こちらへ呼んでください。あれは僕が引き受けます。貴女あなたは詠唱に専念してください」

「で、でも、こんな足場じゃ陛下だって危なくて──」

「民の命には代えられないでしょう」

 まっすぐな金色のひとみを向けられて、一瞬で心に風がき抜けた気がした。すぐさま詠唱に入り、魔鳥の悪意を引き寄せる。この身に受けるこうげきなどもう考える必要はなかった。

 聖なる詩の詠唱に、巨大な魔鳥がもだえながら突進してくる。上空を覆われて夜が訪れたように影がかった。浄化を中断させようと耳をふさぎたくなるようなほうこうと暴風が降り注ぎ続ける。それでもフェニシアは全てをささげるつもりで詠唱に集中した。──何も案じずにいられるのは、かばうように立つ彼の背が見えているから。

 魔鳥に向かって一心にいのり続けた。


 やがてその黒い肉体は逃げるように湖岸に落ち、青い空を取り戻す。波が押し寄せ小舟は大きくれたが、しようげきに備えて身を低くしていたので今度はたおれかけることもなかった。

 ──今度こそ、すべて終わった。

 ほっと胸をでおろす。民を安心させるように、フェニシアは岸へと笑顔で手をった。

 いでとなりのグラシカを見上げて、「ご助力感謝します!」と告げた。

「おかげさまで無事浄化できました! ありがとうございます! ……でもちょっと意外でした。さっき転びかけたのといい、私が失敗するのを見過ごせば聖女しつきやくを狙えるのに」

 どうして、と見つめてもグラシカは答えない。だから確かめるように問いを重ねる。

「陛下は、私がじやなんですよね? 陛下のなにかの計画のために」

 彼はすように微笑んで、「僕もきたいことがあるのですが」と話をらした。

「貴女、浄化のあとにふらつきませんか? 以前から気になっていました」

「〝以前から〟? 陛下の前で浄化したのって今日が初めてですよね?」

 彼が城に来たのは一ヶ月前だ。だんは聖水を作る姿すら見ていないはずだ。

「……民としてです。こうして城の外で浄化することも年に数回はあるでしょう」

「なるほど?」

 聖水で対応できそうにないときは直接浄化におもむくことはあるし、民衆がそれを見守ることは禁じていないので、どこかで見かけたのかもしれない。

「もしかして陛下が暮らしていた近くですか? いつの浄化ですか? どの地域ですか?」

 い立ちを知れば彼が何を考えているかわかるかもしれない──つい期待しながら問い掛けるが、「別に、近くはありませんでしたよ」とにべもなく返されるだけだった。

「で、お身体からだは? 貴女はれんですからね。どこか不調でも?」

「あ、大丈夫です。浄化の直後って体がこうちよくしているというか、感覚がないしねむいんですけど、今日はそんなに難しくなかったのですぐ治りますよ! もし陛下のうそどおりに三時間も詠唱してたら一週間はんだかもしれませんけどね!」

 あはは、とじようだんめかして言えば、「……寝込んだことがあるんですか」と真顔を返される。

「え、あ、ええっと……やっぱり嘘です」

「誤魔化さないでください」

 聖女の情報をらすわけには──と顔を逸らせば「聖女様?」とがおで圧をかけられる。

「倒れられたら困るんですよ」

「……いや、その、いつだったか大陸で……ていこくで瘴気が大発生した時には聖水の注文が増えて、大量出荷したあと、一ヶ月くらいしんだいから下りられなくなりましたけど」

 あとやたらきました、と言えば、彼の瞳が見開かれ──そして責めるような顔をする。

「……そんなに命がしくないのなら、今このれいな湖の中で終わらせて差し上げることもできますが」

こわっ」

 聖兵二人がにらんでいるというのに、よくもまあ聖女をおどせるものである。

「命には関わりませんよ! 先代だって七十歳まで生きましたよ! いいじゃないですか、やりたくてやってるんですよ。しんどいのはいやですけど筋肉痛みたいなものです!」

「筋肉痛?」

 場に合わない単語に、きょとんとグラシカの目が丸くなる。

「前世で──じゃなかった、えっと、私、とうびようの苦しみを知ってまして。あれって自分が望んだわけでもないのに、なんで苦しまなきゃいけないんだっけ、ってわからなくなるんですよ。でも筋肉をきたえたいとか、夢のために苦手な勉強をするとか、そういう価値のある苦しみならがんれるんです。私は『聖女になるだいしよう』を全部説明されたうえでうなずきました。体がしんどいのは闘病で慣れてますし、人の役に立つヒーローになりたかった私に聖女って職は一石二鳥で──……ん? 使い方がちがうかな……じゆようと供給のいつ? こ、こういう時なんて言えば……?」

 とっさにしやべるのは苦手だ。焦って手を彷徨さまよわせるフェニシアに、彼は静かな目を向けた。

「要点はまとまっていませんが、だまされて聖女になったわけでもなく、聖女をやめたいわけでもないことは理解しました」

「うっ、説明下手ですみません……わかっていただけてなによりです……」

「……やりたいから、本当に?」

「はい」

 彼はじっと観察するような目をしたあとに、綺麗な笑顔でこう言った。

「まあ、僕には関係のない話ですから、絶対聖女をやめさせますけどね」

「ひどい! なんていい笑顔なんですか!」

 明らかに好意と真逆の、フェニシアの意思など関係ないと言わんばかりの笑みだった。

(陛下はぶれないなぁ……そこまで聖女をはいじよして、都合のいい玉座が欲しいのかなぁ)

 フェニシアはまだ彼に問いたいことが山ほどあったが、彼は話す気はないようだった。

 そしてフェニシアの体幹が──もしくは体調が──よほど信用ならなかったのか、ぶねさんばしもどる時に、彼は先に下りて手を差し出してくれた。

「え?」

「お手をどうぞ、聖女様」

 思わぬづかいに反応がおくれると、彼は目を逸らした。いや、目を逸らしたのではなく、また聖兵の方をうかがったのだ。聖兵たちは無言で彼にけいかいを向けてはいるが、割って入る様子もない。となればフェニシアの返事次第か。

 そっと手を重ねれば、ていねいに引いてくれた。くろかわぶくろおおわれた彼の手は、フェニシアと同じ温度だった。民衆の視線を一身に浴びながら、彼にエスコートされて桟橋に下り立つ。ちょっとしたおひめさま気分だ。なにかのわいだろうかと思って小声で訊いてみる。

「陛下ってお礼は先に持ってくる派ですか? 後に持ってくる派ですか?」

「……言わんとすることはわかりますが、意味はありません。この程度」

 言い方にいちいち険があるが、貸しにするほどでもない、ただの親切という意味だろう。

 ──聖女になってから、普通のしゆくじよあつかいされるなんて、もう無いと思っていた。


 はんにてたみへのあいさつを済ませて、天幕へ戻っていくと、亜人の兵士たちが今までとは違う表情で遠巻きにフェニシアを見ていた。

とりはだが立ったぞ……」

「陛下はあのようにおそろしいヒトが好きなのか……」

 とつぶやく声すら聞こえる。かと思えばグラシカがそちらに向かって小石を投げつけていた。

(ん? 怖いって……私のこと? ちようのことじゃなくて?)

「……アメリア、今日の私、どこか変だった?」

 じよのアメリアに思わず訊けば、

「いいえ? 今日もフェニシア様はかんぺきでいらっしゃいましたよ。それはもう食べちゃいたいくらいに。絵画に残したいくらいに可愛かわいかったですわ!」

 と満面の笑みで答えてくれる。ほっとして「ありがとう」と返しかけたが──。

「はあ……心がうるおいますわ」

 彼女がうっとりとほおに手をえるので言葉にまった。

 こんしろえりのお仕着せに身を包んだ、見るからにせいな彼女だが、情熱を示すかのように、その指先のつめだけはかみいろと同じように激しく赤い。

「わたくし、フェニシア様が陛下と禁断の愛をはぐくまれたらいいのに、とよく想像しておりますの」

「き、禁断の……」

「ええ」と彼女は楽しげに頷く。

「だって聖女をなさる方は歴代純潔でいらっしゃるでしょう? 殿とのがたからすれば、もどかしいことですわ。れたいのに、触れられない。きっと愛のささやきと手紙とおくり物でたくさんおもいを伝えてくださいますわね。……ああ、かなうなら目の前で陛下にねつれつに愛されるフェニシア様を拝見したいですわ……」

 アメリアの愛読書はれんあい小説ぜんぱん。たまに自分でも書いて売っているらしい。どこで流通しているのかなぞの上に、フェニシアには絶対に読ませてくれないが。

「……アメリアのもうそう──いや、日々の楽しみを否定したいわけじゃないけど、私と陛下はさすがに無理があると思うなぁ……」

 むしろいずれ殺人者とがいしやの関係になりそうではある。

 というよりも、アメリアがすほど彼にりよくはあるだろうか、とフェニシアは首をかしげた。玉座の似合う顔と若さと頭の良さと、王位さんだつが成功するくらいの兵力ととうそつ力とその後平然と玉座に座り続ける心臓の強さ以外に──うん、並べてみると、結構あった。

(でも、内面が嫌味すぎるので、すべて帳消し! こいびとは心がまともなのが一番だと思う!)

 罪のない先王を殺して無理やりそくした人だ。先代のアガナ王はまだ三十二歳だった。そのねんれいと顔立ちゆえに、「新王はアガナ様の早すぎるかくし子」だの「隠しおい」だのとうわさがあるが、グラシカ本人はすべて否定しているようだ。腹に何を隠しているのやら。

「アメリア、悪いことは言わないから、付き合うなら陛下以外にしてね」

「うふふ、わたくしと陛下だなんて、フェニシア様ったら。かなくてもよろしいのに」

「妬く? ……まあ急にアメリアがけつこんとかでめちゃったらちょっとさびしいけど」

 あら、とアメリアは目を丸くした後に、「おそばをはなれたりしませんわ」と軽くくようにフェニシアのかたにもたれてみせた。


    ● ● ●


 同時刻、アルベルトは村人たちの、王を見る目に込められたものに気付いていた。

 そうねんの者たちがいだいているのは簒奪者への警戒だけではない。息をむようなきようがく。老人の中には、「……ああ、似ておられる」と手を合わせる者までいた。

(──この方は、やはり)

 城内でも大臣たちの間で噂になっている。先王アガナの隠し子か、その兄王子の子ではないだろうかと。おもしが、ひとみの色が、先々代の王とその第一王子に似ているのだと。

(確かに、先王陛下にはあまり似ていないな。目の色はほとんど同じだが)

 アルベルトは先々代の王と先王アガナを見たことはあっても、アガナの兄だったというようせつした第一王子の顔は知らない。

(その人の忘れ形見なのだろうか。……だから王位が欲しかったのだろうか)

 アルベルトは元々、王の身辺ではなく城内を警護する第二騎士団に属していた。

 簒奪の当日、王宮にめ入ろうとするグラシカの私兵と戦ったが、彼らはだれも殺さぬようにてつていしていた。ならば大義があるというのだろうか──王の考えはわからない。

 けれど近衛このえ騎士に任じられた以上、王のそばに在り、王を守るのが仕事である。たとえ王が聖女に会いに行くたび、警護に呼ばれる理由が『聖女のおさなじみだから』であろうとも。


    ● ● ●


「聖女様、本当にありがとうございました」

 魔鳥の処理も終わり、そろそろとうかと最後に顔を見せに出れば、わいわいと住民に囲まれる。「当然のことをしたまでです」とねこかぶってあいみをかべてみせた。

 村長だという老人は「この村は何度も聖女様に救っていただいております。八年前も聖女様のおかげで事なきを得ました」と感謝を述べた。

(ん? この辺りにじようしに来たのって私が就任してからは初めてなんじゃ──あれ? これ覚えてなかったらまずい……? 八年前って何があったっけ!?)

 こんなにも親愛を寄せてくれる民を「覚えていません」と傷つけるのは心が痛む。

(いやしようではなかった気がする……じゃあどれだろう!? 農業、衛生、教育……)

 聖女のこうけいに選ばれて十年余り。「無人島でも世紀末でも異世界でも! 生き残れるマッチョに私はなるぞ!」と前世でサバイバルの日々を妄想した成果をいかんなく発揮してきた。長雨のあとにはいもばたけしやくしたき、手洗いとみがき指導者をけんし、五大食中毒きんの対策パンフレット、非常時のなん訓練、算術教室──各地に知識をばらまいて回ったせいで心当たりがしぼれない。

 どうか助け船を出してくれないか、と前方で荷物を運んでいたアルベルトに視線を送るが「俺が知るわけない」とばかりに無情に首を横にられる。ゆいいつきゆうえんあきらめた時──。

「八年前というと、この辺りは、わらですか?」

 すずやかなグラシカの声がした。兵たちの荷造りをかんとくしていた彼が歩いてくる。

(少し遠いところにいたのに……ごくみみかな?)

 村長は噂の簒奪王に話しかけられていつしゆんしゆくしたが、さすがは年の功。すぐにおだやかな顔で「ええ、ええ、そうです」とうなずいてみせる。

「北の地域をはじめ、我々の村にもおさずけてくださったおかげで、まれに見る厳冬にもかかわらずせんさいな作物も冬をすことができました。聖女様には本当に感謝しております」

(あ、やっぱりここに来たのは初めてだった。そっか藁か)

 心から「お役に立ててよかったです」と微笑ほほえむことができた。


 村長が去ると「藁?」とアメリアが小声でいてきた。先に答えたのはグラシカだった。

貴女あなたが聖女職をいだ年でしたね。他の作物を寒さから守るためだけに小麦を育てると言い出すとは」

 なつかしい話に、フェニシアは「あはは」としようする。

「あれはこの国で小麦を育てられるかっていう実験でもあったんです。藁は良いですよー、編めばかさみのゆきぐつにと防寒具としてゆうしゆうですし、牛や馬の飼料にもなりますし、燃えやすいからだねにも使えるし、余れば肥料にすればいい。適切にあつかえば何年も保存できます」

 前世で『生き残る力』にあこがれて得た知識の一つが藁。

 この土地は高地でれいりようだ。基本は小麦より低温とかんそうに強い黒麦を育てて食べている。だからこの土地でも小麦が育てられるか試すためにも、『藁にしたいだけだから!』という理由で育てさせてもらったのだ。未成熟な麦も牛や馬はおいしく食べてくれる。残ったくきを乾燥させれば藁になって、他の作物を厳冬から守ってくれる。聖女の作る聖水が高く買ってもらえるので小麦の輸入もできているのだが、なるべく国内自給率を優先したい。

 少しでもたくましい国にするぞ、と無意識にこぶしにぎるフェニシアを見ながら、アメリアは「フェニシア様は昔から知識が豊富でたのもしいですわ」とうれしそうに言った。その笑顔を見て、頼もしいと言ってもらえて、「聖女になってよかったなぁ」とフェニシアは思う。

 何の役職もない子どもであったら、地球知識に基づく提案のうち、一体どれほどが受け入れられただろうか。今の何倍の時間をかければ、ただの名も無い人間が、国を変え、国外まで知識を届かせ、かかえる必要のない苦しみを取り除ける世界にできただろうか。

 実際、幼いころは前世と現在のおくがあまり区別できず、みような知識をろうしつづけて、この世界の家族を大いに困らせた。真面目まじめに聞いてくれたのは幼馴染のアルベルトだけだ。彼が騎士になってからも、なんとなく寂しくなるので敬語はやめてもらっている。

(あ、でも昔会った人魚の男の子も、変な顔せず話を聞いてくれたな)

 冬の森、しらかばに囲まれた湖で出会った少年を思い出しかけていると──。

「聖女様、先月の祭事のことですが──」

 きんりんていこくしん殿でんに勤める顔見知りの女性神官たちに声をけられた。彼女たちにうながされてフェニシアとアメリアは王たちから離れる。事務的な相談が終わると、「あの、新しい陛下はどのような方でしょう……?」と声をひそめて訊かれた。

「どのような、とは?」

「いきなり亜人兵を率いて城をせんきよした方でしょう? 一時は国がほろぶのかと思いました」

(やっぱり陛下おびえられてるし……おにの所業だもんね)

 別の女性が「でも、なんだか思っていたよりもやさしい表情の方ですね」と言う。

「先ほどは自らちようと戦ってくださいましたし、税率の見直しをされたり、医師や薬師育成の補助も先王陛下の代より手厚くなさっていて……我々としても助かっています。身寄りのない子や老人のこともづかってくださるようで……悪い方ではないのでしょうか?」

 その期待するような瞳は、返答に困る。笑みを作って、聖女としての中立を選んだ。

「……今のところ、じんたみしいたげる方ではなさそうですよ」

 グラシカをかばうわけではないが、不要な先入観を植え付けてもいけない。実際、彼は玉座に就いてから悪い政策は一つも出していない。殺したのも前王だけだ。

 神官たちも同じ気持ちなのか、「……このまま悪いことが起きなければいいのに」とつぶやく。

 そして、しずんだ空気を明るくするためか、「そういえば」ともう一人の女性神官が言った。

「先ほどぶねから下りられる聖女様の手を、陛下が優しく引いていらっしゃったでしょう? まるでおとぎ話の王子様とおひめさまのようでしたわ」

 聖女を気遣う王の様子が好印象だったらしい。となりでアメリアが激しく頷いているのがわかる。彼女の好きな『ときめき』にがいとうしたようだった。そこでふと思う。

(……もしかして、手を差しべてくれたのはパフォーマンス?)

 急に思いついて、胸の底からしゆうが押し寄せる。おかしいとは思っていたのだ。当初はじゆうとくでもなかったはずの湖の瘴気がいについて「推定えいしよう時間は三時間です」と過大報告をして聖女を連れ出したのだから、彼に利があってしかるべきだった。

(うわぁ私なにかんちがいしてたんだろう! ちょっとお姫様扱いみたいだなんて思ってる場合じゃない! は優しい顔をしてるって思ったのは自分なのに!)

 じゆんすいな親切心の可能性も残ってはいるが、聖女にれてしよけいされる口実を作るのはさんだつおうの彼にはリスクが高すぎる。民への好感度アップ策として有効だったのは間違いない。

 ──気を引きめよう、と心に言い聞かせる。彼の手中でおどるわけにはいかない。彼が何を考えて先王から命と玉座をうばったのか、きちんときわめなければ最悪、王に振り回されて大勢の民が死んでしまう。

 神官たちと別れてからアメリアを連れて一人問答をしていると、いつの間にかグラシカがそばにもどってきていた。「用は済みましたか?」と彼が訊く。

「はい、お待たせしました」

「では早く次に向かいましょう。貴女のぜん者っぷりが見えて、むずがゆくて仕方がない」

 ははは、こやつ、と、ひじてつを食らわすのは聖女らしくないので、静かに微笑んでおく。

「偽善だろうと何だろうと、民がおんけいを受けられるのならすべきことでしょう? ……陛下も同じお気持ちですよね?」

「それには同感ですが」

 彼は目を細めてフェニシアをじっと見たかと思うと、小声でも届くようきよめた。

「貴女自身の安全は考えましたか?」

「? 私自身?」

 首をかしげると、これ見よがしにためいきをつかれる。

「貴女はただでさえ、一度に大量の聖水を作れるこの世で一人きりの聖女様なのだから。僕は貴女を目立たないようにしたいんですよ。裏でひっそり……追放」

「やだぶつそう~」と茶化して笑ってみせれば、「この……」とまゆひそめられた。

「貴女という人は本当に──……僕は貴女を閉じめたいわけではないんですよ?」

「今『本当に……』の後に絶対とう入りましたよね? 『本当に鹿ですよね』みたいな」

「いいえ、まさか。この国で最も、いえこの世で最も尊い方に向かって『本当にのうお花畑の大馬鹿ろうが』なんて罵倒、思いかぶわけないでしょう?」

「うへぇ、私の想定より強めにおこってらっしゃる……」

 なんでだろう、とひかえめに顔をうかがってみると、なぜか彼もすこし困り顔で見つめてきた。

「貴女は一度痛い目を見たほうがいいですよ」

 なんだか悪役みたいな台詞せりふだなぁ、とフェニシアは思った。

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転生聖女のサバイバル 水属性の亜人陛下に目ざとく命を狙われています 猪谷かなめ/角川ビーンズ文庫 @beans

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