第13話 労いの盃を
取り調べが終了し、香織は隣室へと向かう。佐伯は被疑者を牢へと送っており、別行動だ。
疲れたな、とこきりと首を鳴らす。やり遂げた達成感はあるものの、取り調べは神経を使う。疲労を感じるのも致し方なかった。
「ご苦労だった、櫻井君」
隣室へ入ると、すぐに本居から労いの言葉を贈られる。香織はそれに微笑むと、礼を告げた。空いているソファーへ腰掛けたとき、再び部屋の扉が開いた。
「あ! 戻ってきたんだね。お疲れ様、香織ちゃん」
明るい笑顔で斗真が部屋に入ってくる。その手には、盆が握られていた。どうやら茶を淹れに行っていたようだ。香織ちゃんの分ね、そう言って渡された湯呑を受け取る。感謝の言葉を伝えると、斗真は嬉しそうに笑った。
続いて本居へ湯呑を渡す。本来なら、上司である本居へ先に渡すべきだ。
しかし、斗真の明るい笑みを見てしまうと、何とも注意し辛い。本居も同じなのか、何も言わずに受け取っていた。毒牙が抜かれるというべきか、この人懐っこい笑みを見ると、下手に怒れなくなってしまう。
「それにしても凄かったね、香織ちゃん! あいつあんなに口割らなかったのに!」
俺の言葉なんて無視だよ無視! 拗ねるように言う彼に、香織は苦笑を漏らす。本居はため息を吐くと、「お前はもう少し粘ることを考えろ」と苦言を呈した。
「だが、蔵内の言うとおり、櫻井君はよくやってくれた。これで捜査も前進するだろう。感謝する」
「いえ、職務ですから」
お気になさらないでください、微笑んで告げる香織に、本居も薄く笑みを浮かべた。
日頃相当な苦労を抱えるこの上司を、香織としては労わりたいと思っている。斗真という困った部下がいるのだ。その大変さは言わずもがな。
子どもの頃もこんなに聞き分けがなかっただろうか、ふとそんなことを考えていると、本居が口を開いた。
「少年の方は既に眠ってしまってな。相当疲労がたまっていたのだろう。今は医務室で休ませている。彼への事情聴取は明日行う予定だが、同席を頼めるだろうか」
「もちろんです。是非ご一緒させてください」
元はと言えば、あの少年を放っておけなくて首を突っ込んだのだ。香織としては、少年を最後まで見届けたいと思っている。その一心ですぐに返事を返した。
「助かる。では、今日の業務はここまでだな。緊急の案件も一先ず片付いたことだし、食事にでも行くか」
「確か食堂は21時まででしたか」
香織はそう言って、部屋の掛け時計へ視線を向ける。今の時刻は20時。今から向かっても十分に間に合うだろう。
そんなことを考えていると、斗真は「違う違う!」と笑って言った。そのまま視線を本居へ向ける。その顔は、何か悪巧みをしているようなそんな顔をしていた。
香織が首を傾げると、本居が小さく咳払いをする。口元に拳を当てる姿は、照れているのだろうか。いつもと異なり、言いよどむように口を開いた。
「今日は君のおかげで助かったからな。その慰労も兼ねて、食事にでも行かないか。佐伯も連れて四人で行こうかと考えているのだが……どうだろうか」
歯切れ悪く口にする姿に、香織はぽかんと口を開ける。本居の視線は左右に泳いでおり、どこか落ち着かない様子だ。
おそらく、部下を誘うのに慣れていないのだろう。その上、ここは軍の中。女性というのは圧倒的に少ない。女性部下への接し方が分からず、恐る恐る口にしたようだ。
そこまで察すると、香織はその顔を綻ばせる。仕事の後に食べる美味しい食事は、明日への活力だ。彼が誠実な人間であることも、短い間だが理解している。断る理由などなく、喜んで頷いた。
「すみません! 遅くなりました!」
帝都の外れにある、小料理屋。いくつかのカウンター席と、座敷が一つだけある小さな店。そこが、本居の行きつけの店だった。
内装は落ち着いており、木材で出来た調度品が心を和ませる。卓には一輪挿しが置かれており、芍薬の花が飾られていた。
店に着いてお品書きに目を通していた頃、がらがらと引き戸が開く音が鳴った。続いて聞こえた声に、待ち人が来たことを知る。
「こちらだ、佐伯」
本居が軽く手を上げると、佐伯は小走りで駆け寄ってきた。帝都の外れに店を構えているからか、それとも価格の高さゆえか。店内には他に客がおらず、まるで貸し切りのようだった。
香織たちが座っているのは、唯一の座敷席。とはいえ小さい小料理屋だ。大将や女将さんの顔は見える距離である。
「結構お待たせしちゃいましたか?」
「いや、我々も着いたばかりだ。よし、まずは酒を決めるか」
おしぼりで手を拭う佐伯に、本居が軽く返事をする。そして全員でお品書きを覗き込んだ。
そう言えば、といったように本居が香織へ声をかける。酒は苦手じゃないか、そう問う顔は思案気だ。無理に飲ませてはいけないと心配しているようだ。それは全くの杞憂なのだが、彼が知るはずもない。
香織が軽く笑って問題ないと答えると、本居はほっとしたように息を吐く。どれでも好きなものを頼んでくれ、そう言って口元を綻ばせた。
「俺、麦焼酎の麦茶割にしようかな!」
「ほぉ、麦で攻めるのか」
「統一感あって好きなんすよ~」
麦! って感じが良いんですよね。斗真がにこにこと笑いながら言う。それに佐伯は感心したような顔をして、「僕はあまりお酒分からないからなぁ」と呟いた。
そんな佐伯は緑茶ハイを選んだようだ。本居は気に入りの銘柄があるようで、キープボトルを持ってくるよう頼んでいる。
「香織ちゃんは何にする?」
「そうだなぁ……。大将、白魔を一合お願いします」
あいよ! 明るい声で答える大将に、香織もほんのりと口元を綻ばせる。カウンターへ向けていた姿勢を元に戻すと、唖然と目を丸める三人の姿があった。
「え、どうかしました?」
「勇士様、それ清酒なんですが、お酒お強いんですか……?」
「まぁ、嗜むくらいには。あと、その勇士様呼びは止めてください」
何だこの空気は。そんな思いで首を傾げる。けろりと答える香織に、佐伯はぽかんと口を開けた。勇士様呼び云々については、慌てて頷いてくれた。
自身の隣に座る斗真へ視線を向けると、彼は遠い目をしている。「あぁ、うん。何となくそんな気はしてた」そう呟く斗真の目は虚ろだ。
他二人と異なり、本居は瞳をきらりと輝かせていた。真剣な表情か疲れたような姿ばかり見ていたため、これには香織の方が面食らった。そんな香織に、本居は輝いた瞳のまま口を開いた。
「君は清酒を嗜むんだな! 白魔は辛口だが、そちらの方が好みか?」
「そうですね。甘口が飲めないわけではありませんが、ずっと飲んでいるなら辛口の方がいいです。飲み口がすっきりとしていて、飽きがきませんし」
「……ずっと飲むのが前提なんだね、香織ちゃん」
本居と香織の会話に、斗真がぼそりとツッコミを入れる。それを拾う者は誰もいなかった。普段常識人な本居は、今は仲間がいたと喜んでいる。香織も趣味の合う人を見つけて、嬉しさのあまりにこやかな笑みを浮かべていた。
「いや、いい趣味の部下が来てくれて嬉しいよ。では、乾杯にするか!」
女将さんが運んでくれた酒を手に取り、乾杯する。鼻をかすめる軽やかな香り。爽やかさのあるそれに、香織は口角を上げた。
すっきりとした喉ごしと、引き締まった味わい。辛さの中にも、ほんのわずかだが甘みが感じられる。酸味とのバランスも良く、つまみに合いそうだ。
いい酒に当たったと、香織は機嫌よく猪口を傾ける。それを見た本居も上機嫌に笑った。
「この店は清酒の数も豊富でな。気になったものがあれば遠慮なく頼むといい」
「本当ですか? 嬉しいです! 好みの味があるか、来る度に探すのも楽しそうですね」
「あぁ、種類が豊富な店は、それも楽しみの一つになるな」
二人が機嫌よく話しているのを、斗真は呆れたような瞳で見つめている。飲んでばかりじゃなく、つまみを決めてくれとお品書きを渡してきた。
いくつか見繕い、大将に声をかける。それが終われば、もうやることもない。再び談笑へと戻ることになった。
「そういえば、気になることがあるのですが」
猪口から口を離し、香織が声を漏らす。全員の視線が彼女へと向けられた。
香織には、事件発生時から気になっていたことがあった。丁度専門家もいることだし、と尋ねることにする。
「今日、瘴気が人を変えると言う話を耳にしました。思考や人格に影響が出るとか。わりと見られる症状なのですか?」
事件現場へ向かったときのこと。香織はすぐ側にいた女性から話を聞いていた。瘴気が強くなってきたために、可笑しくなるヤツが多い。女性はそう言っていた。昨日までまともだった人が、急に可笑しなことを言いだすとか。通常であれば考え難い事態だが、認知されている症状のようだ。
「あぁ、それか。残念ながら事実だな。瘴気に侵されることで、正常な判断ができないケースは多々見受けられる。近所からの評判もよい人間が、突然凶行に及ぶこともあったほどだ」
「なるほど。それは面倒な話ですね」
全くだ。本居はそうこぼすと、酒をあおる。瘴気に侵され狂ってしまう。これは厄介と言わざるを得ない。
そもそも、こういったケースでは、その人間をどう裁くのか。瘴気が原因で思考に影響を及ぼしたのならば、その後の違法行為は罪へ問えるのだろうか。当人が望まぬ事情により罪を犯したのであれば、一定程度の酌量があるのかもしれない。
だが、その線引きは極めて困難だ。
「どこまでが本人の意思だったのか、その判定が難しい。もちろん過去の余罪は洗い出すが、綺麗な経歴だった場合は頭を抱えることも多くてな」
本居の言葉に、香織は静かに頷いた。実に悩ましい話だろう。犯罪行為があったのなら、まず被疑者を確保する。それは変わらない。
しかし、その後については話が変わってくる。
この国は、相当厄介な状況に置かれているようだ。香織は苦い気持ちを流し込むように、猪口を傾けた。
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