第10話 事件発生と暗いため息


 「すみません、少し通してください」


 香織は人ごみをかき分け、騒ぎの場へと向かう。女が近づいていくからか、心配そうな視線を送る人々の姿が見える。その視線を意に介さず、香織は最前列へと足を進める。


 やっとの思いで人ごみから顔を出すと、そこにはうずくまる少年の姿があった。

 少年は見るからに傷だらけで、頬も痩せこけている。栄養状態はよろしくないのだろう。すぐ近くに立つ男の大きな腹と比較すると、その差は一目瞭然だ。


 場所は店内のようで、少年の側には割れた瓶が転がっている。鼻に付く酒気に、この店が酒屋だと知った。


 「これ、どういう状況ですか?」


 香織は隣にいる女性へ声をかける。女性は驚いたように香織を見ると、口元に手を当てて返事をしてくれた。


 「なんでも、あの男が坊主の持ち主みたいなんだけどね。

 あの子、ミスでもしたのかねぇ。酷い言葉を浴びせられて、その上暴力だ。いくらなんでも、見てらんないよ」

 「……持ち主?」


 まるで少年を物のように扱う言葉に、香織は眉を顰める。そんな彼女を見て、女性は納得したように頷いた。


 「お嬢ちゃん、良いところの家柄かい? 見たところ上等な洋服を着ているしね。


 お嬢ちゃんには分からないだろうがね。今はどこも貧しい場所ばかりだ。栄えているのはこの帝都と、各国の中心部だけさ。寒暁の国なんて、都ですら厳しい生活らしい。


 そうなるとね、大体はあぶれちまうのさ。何とか食い扶持を稼ぐために、我が子を売る親もいるんだよ」


 香織は視線を女性へ向ける。女性は、何とも気の毒そうに少年を見ていた。可哀そうにねぇ、と言う彼女の表情に偽りはなさそうだ。


 「子どもを売る……それって、合法なんですか?」

 「まさか! そんなわけないさ。お国がそんな非道、許しちゃいないよ。養子に出すってんならともかく、あれじゃ奴隷さ。

 そんなことは、いくら貧しい国でも認めやしない。バレれば牢屋行きさ」


 女性の反応に、香織は胸を撫でおろした。いくら違う世界とはいえ、人身売買は許容できない。そんな世界だったらどうしようかと心配したが、さすがにそれはないようだ。


 おそらく、人口の減少も背景にあるのだろう。人口が減少している以上、国としては命を粗末になどしないはずだ。労働力が減れば、一層苦しむのは目に見えている。


 その一方で、民は貧しさゆえに口減らしをしたいのだろう。もし世が世なら、見て見ぬふりをされたはずだ。人口の減少という背景がなければ、暗黙の了解となっていたかもしれない。


 「それなら何故、あの男はこんな場所で騒ぎを?」


 捕まる可能性がある以上、こんなところで騒ぎなど避けたいはずだ。軍が治安維持に励むこの帝都で、なぜ騒ぎを起こすのか。それが理解できなかった。


 「多分、あの男は正気じゃないんだろう」

 「正気じゃない?」


 女性の言葉に、香織は男へ視線を向ける。目元はギラギラと輝き、血走っているように見えた。口元こそ違和感はないが、これで泡を喰っていたら薬物使用を疑うところだ。

 再び女性へ視線を戻すと、女性は香織の耳元に口を寄せた。


 「ほら、最近瘴気が強くなってきただろう? あれのせいで可笑しくなるヤツが多いのさ。昨日までまともだったヤツが、急に可笑しなことを言いだすって、よくいうじゃないか。あれもそういう類なんじゃないかい?」


 女性の言葉に、香織は黙って頷いた。

 正直なところ、女性の話はよく分からない。香織は、瘴気について詳しくはないのだ。


 本居からの説明で、瘴気が原因で不審死が相次いだとは聞いている。不審死に至る過程で、あの男のように思考が狂うこともあるのだろうか。


 香織が思考を巡らせていると、男は床に唾を吐き出した。そして、割れた一升瓶の注ぎ口を掴む。

 勢い良く割れたのだろう。破片はあたりに飛び散っており、ガラスの先端は鋭利な刃物のようになっていた。


 「このクズが。わざわざ買ってやったっていうのに、役にも立ちやしねぇ。ごみに金払うなんざ、とんだ貧乏くじだ!

 それならせめて、最後くらいは役に立つべきだよなぁ!?」


 男はそう怒鳴りたてると、手にした瓶を振り上げる。それに合わせて、緑色の小さな破片が宙を舞った。

 男は、少年にその瓶を振り下ろすつもりのようだ。刃物のごとく尖った瓶は、間違いなく少年を傷つける。

 それを見た香織は、躊躇いなく一歩を踏み出した。


 男が振り下ろす腕に、抱えていた紙袋を投げつける。洋服が入った紙袋に大した重さはない。

 しかし、興奮状態の男には十分だったようだ。突然の攻撃に、瓶を持つ男の手が緩む。香織はすかさずその手首を握ると、力の限り外側へと捻り上げた。


 男は激痛に声をあげる。手から瓶が滑り落ち、無残に床へ叩きつけられた。

 飛び散る破片に、飛び交う困惑の声。その中でも冷静に、香織は男を見据えていた。


 「失礼」


 痛みに悶える男の腕を掴みなおし、自身の胸元へと引き寄せる。そのまま手首を外側へひねると、相手の手首へ体重をかけた。

 男は痛みのあまり、悶絶しながら座り込む。それでも手を緩めず体重をかけると、男の身体は自然とうつ伏せに倒れ込んだ。


 香織は男の背に乗り、両手を後ろに回させる。痛みからか、男は抵抗一つできないようだ。

 両腕を固めるように、太ももで固定する。太ももが壁となり、男は腕を動かすことすらできなくなった。激痛の走る腕に、男ができるのは苦悶の声をあげるだけとなった。


 「誰か、縄を持ってきてください」


 香織の言葉に、店主は弾かれたように裏へ戻っていく。数十秒ほどすると、太いロープを持ってきた。

 それを有難く受け取り、背面で纏めた手首を縛り上げる。決して自身ではほどけぬように縛ると、香織は男の背から立ち上がった。


 「これでいいでしょう。君、痛いところは?」


 香織がうずくまる少年に声をかける。唖然と口を開けて彼女を見る姿は、どこか痛々しい。助けられたという実感すら湧かないのだろうか。彼女はその姿に眉を寄せると、少年の前に片膝をついた。


 「とりあえず、手当が先ですね。すみません、消毒液などはありますか?」


 少年の口元にハンカチを当てながら、店主へ声をかける。店主は香織の言葉に何度も頷くと、慌てて救急箱を取りに戻った。

 その間に、香織は先ほどの女性へ声をかける。軍人を連れてくるように頼んだのだ。女性は驚きながらも了承し、すぐに人ごみをかき分けていった。


 「こちらが消毒です。もう薄めてありますので」

 「お願いばかりですみません。ありがとうございます」


 希釈された消毒液と、救急箱を受け取る。救急箱の中には脱脂綿が入っていた。それに消毒液を吸わせると、香織は少年に声をかける。


 「少ししみると思う。良くなるためだから、我慢してね」


 そう言って、そっと傷口に脱脂綿を当てる。傷にしみるのだろう。少年はぐっと眉を寄せ、歯を食いしばった。

 泣かないだけでも立派だ、そう思いながら香織は手当を続ける。


 他にも擦りむいた箇所を消毒し、膝には新品の脱脂綿を当て、包帯を巻く。少年はその間、ただの一度も口を開かなかった。


 「これでおしまい。泣かないなんて、凄かったね。君は強い子だ」


 香織は穏やかに少年へ微笑みかける。言われた少年は、言葉を飲み込めなかったのだろうか。きょとんと目を丸めて香織を見ている。

 鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこういうことか。少年の表情を見ながら、香織は心の中で呟いた。


 「罪人を捕獲したと聞きましたが、こちらですか!?」


 大きな声で一人の青年が入ってくる。声の方へ視線を向けると、香織は驚いて声を漏らした。駆け付けた相手が、見覚えのある人物だったからだ。


 「え、勇士様!? なんでここに!?」

 「えぇっと、佐伯さん、でしたっけ?」


 店内へ入ってきたのは、昨日見かけた青年だ。斗真に会いたいという神子に、使い走りにされていた男。斗真からもすげなく断られ、困った笑みで微笑んでいたのは記憶に新しい。


 とはいえ、香織はこの男と会話をしたことがない。何を言えばいいのやら、そう考えていると、佐伯はぶつぶつと独り言を言い始めた。


 「どうしよう……こんなことがバレたら、蔵内隊長に怒られる……」

 「あの、大丈夫ですか?」

 「はっ、はいぃ! 大丈夫ですっ!」


 香織の問いかけに、佐伯は声を裏返しながら返事をする。その姿はどう見ても大丈夫そうには見えないが、一先ず置いておこうと香織は口を開く。

 しかし、その声は思わぬ相手に遮られることとなった。


 「佐伯、罪人は見つかったのか?」


 人ごみをかき分けて、入ってきたのは金色の髪を持つ男。斗真本人だ。

 彼は店内へさっと視線を巡らせ、香織に目を止める。一瞬驚きの色を浮かべるも、すぐにその表情を一変させた。


 青褪めていく顔に、寄せられる眉。

 これは面倒なことになりそうだ。香織は内心でため息を吐いた。

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