第7話 紫煙に巻かれ、騒めく心


 「おや、どうかしましたか?」


 夜も更け、辺りが静まり返る頃。人気のない屋上に、低い男の声が響いた。

 日をまたぐ時刻。建物内部はほとんどの灯りが消え、屋上も月明かりがある程度だ。


 香織がゆっくり振り返ると、視線の先には本居が立っていた。煙草を手にしているのを見るに、どうやら一服しに来たようだ。


 お邪魔しても? と尋ねる彼に、香織は微笑んで頷く。煙草の箱を開けると、一瞬その手が止まった。香織がいるからだろう。察した彼女は、どうぞ、と促す。彼女の手元にあるのは使い捨てのライター。目を丸くして見る本居に、香織は困ったように頬を掻いた。


 「私とバディを組んでいた先輩が、喫煙者なんです。少々大雑把な方で、よくライターを無くすんですよ。

 煙草が吸えない、ってへこんでいるのを何度も見ていて。いつの間にかこうして常備するようになりました」


 ぽん、と叩くのは彼女が着ているスーツの胸ポケット。そこにいつも入れているのだ。ライターを本居へ差し出すと、彼は軽く頭を下げ、ライターを手に取った。


 ジジッ、と紙が焼けるような音が響く。それに続くように、焼けた煙草の匂いが鼻をかすめた。それは、今日の昼頃まで嗅いでいた匂いに近い。香織はぼんやりと日常を思い出す。あの先輩は、何度言っても電子タバコに変えなかったな、と。


 「眠れませんか?」


 静まり返った空間に、柔らかな声が響く。それに香織は苦笑いを零した。


 「えぇ、まだ頭の中が混乱していて。

 それより本居さん。どうか敬語は外してもらえませんか? 今となっては、私はあなたの部下ですから」

 「……そうか。なら、その言葉に甘えさせてもらおう」


 真っ暗な夜空に、白い煙が立ち上る。香織はそれを目で追いかけながら、静かに口を開いた。

 こぼれたのは、過去の話だ。なぜこの話をしようと思ったのか、それは彼女自身ですら分からなかった。


 「私は、高校卒業してすぐに警察学校に入校しました。それなりに実績を上げて、捜査一課に配属となりました。

 こちらの世界でも、警察の部署は同じなのでしょうか?」

 「いや、おそらく違うだろう。歴史も環境も異なるからな。君の世界では、捜査一課とはどんな部署なんだ?」

 「捜査一課は、いわゆる花形と呼ばれる部署です。凶悪事件に対応する部署で、分かりやすいのは殺人事件でしょうか」


 そう告げる香織を、本居は驚いたように見つめる。女性がつく部署とは思えなかっただろうか。それも無理はない、と内心で頷いた。


 「それは……随分と大変な部署なのだな。危険な目に合うことも多いだろう」

 「そうですね。安全とは言い難いかもしれません。被疑者確保は、何度やっても慣れることはないでしょう」


 警察官は通常、一人で犯人を追うようなことはしない。警察官にとって、犯人に負けるというのはあってはならないことだ。そのため、必ず複数人で確保に当たる。人数が足りないのならば、応援を呼ぶのが普通だ。


 一人ではない。それだけでいくらかの安心感があるが、絶対はない。危険な目に合うことだって当然ある。


 「そうだろうな。なぜそんな危険な仕事に? 君は頭も切れる。他にも職はあっただろう」


 本居の言葉に、漏れたのは自嘲の笑みだ。香織にとって、警察官になった動機は褒められたものじゃない。胸を張って言える理由など、どこにも存在しないのだ。


 「お恥ずかしい話、大した理由ではないのです。市民を守りたいだとか、そんな崇高な志はなかった。あったのは、大人になれなかった子どもの我儘です」


 もっと現実を見ることができていたのなら、香織は警察官にはならなかっただろう。斗真を見つけるために警察官になった。けれど、それは蜘蛛の糸を手繰るような脆いもの。低い可能性に縋っただけだ。


 そして、何より子ども染みていたのは、初恋を捨てられなかったことだ。香織の友人たちは一様に口にした。「もう諦めなよ」と。

 二十代半ば、結婚を考えるべき年齢だ。いつまでも失ったものに縋るんじゃない、と厳しく言われていた。それは、友人なりの気遣いでもあっただろう。それに耳を塞ぎ、彼女はここまで来てしまった。


 その結果、初めて来たこの場所で、自身の失恋を知ったわけだが。香織は既に、涙すら出なくなっていた。まるで喜劇のようだと、どこか冷静な思考で眺めている。


 手違いで呼ばれた自分。恋した男が求めているのは他の人で。偶然、過ちによって再会を果たした。この過ちがなければ、自分は二度と恋しい人に会うこともできなかった。それほどまでに、自分たちの関係は終わっていたのに。


 自嘲する彼女をよそに、本居は長く息を吐き出した。煙が宙に浮き、霧散する。まるで自分の恋心のようだと、香織は静かに見つめていた。何も残らない、形一つ残すことができない、そんな不確かなものだったと。


 「君にどんな願いがあったのかは知らないが、そう卑下するものではない」


 短くなった煙草を足で踏みつぶす。火の消えた吸い殻は、彼の持つ携帯灰皿へと収められた。身体を起こすと、香織の方へと視線を向ける。その瞳には、年長者らしい落ち着きがあった。


 「どんな願いであれ、君が職務を全うしたのならばそれでいい。何を思って職に就くかなど、人ぞれぞれだ。

 呪術師団にも、様々な動機で人が集まる。食うに困らない職だからという者もいれば、復讐心で門を叩く者もいる」

 「……復讐心?」


 香織の問いに、彼は無言で頷いた。屋上の手すりに腕を乗せ、ゆっくりと口を開いた。


 「厄災で家族を失う者、鬼に家族を喰われた者、妖に殺された者……この国の民は、色んな理由で家族を失っている」

 「鬼に、妖……ですか」


 戸惑った表情の香織に、本居は苦笑した。まだその存在を説明していなかったからだ。それを思い出したのだろう。丁寧に言葉を添えてくれた。


 「奴らがどういう存在かは、一概には分からない。

 ただ、鬼や妖は現実に存在する。確かにそこにいて、人間の生活を脅かすのだ」


 それを退治すること、それも呪術師団の任務のうちだ。そう告げる本居に、香織は静かに頷いた。確かに、そのようなオカルト的なことなら、この師団の担当になるだろう。呪術、というものが何なのかはまだ分からない。けれど、類似性のようなものは何となく理解していた。


 「だからこそ、復讐心ゆえに軍に入る者もいる。それを咎めるつもりはない。人間の心情として、至極全うなことだからだ」


 大切な人が殺され、それに復讐心を抱く。確かに、それは誰しも抱えるものだろう。現代日本では、私怨による報復は違法だ。

 しかし、この世界は別だ。ましてや、相手は人外。人間の敵とも言える存在のようだ。軍に所属した上での復讐、それを咎める者はいないだろう。

 

 「君には君の思いがあって、その職に就いたのだろう。君は、その立場を利用して不正を働きでもしたのか?」

 「っ、まさか! 例え動機が不純でも、いえ、胸を張れぬ動機だからこそ! 警察官としての職務を全うしたと断言できます!」

 「ならば、それでいい」


 本居の言葉に、香織は即座に反論した。

 それを聞き、彼は穏やかに微笑む。まるで分かっていたかのように、躊躇いなく彼女を肯定した。


 「職務を果たしたのなら、それでいいのだ。結局のところ、何を成し遂げたかが重要なのだから」

 「何を、成し遂げたか……」

 「そうだ。まぁ、あの蔵内が認めるくらいだ。君の人間性は、疑っていないがな」


 新しく煙草を取り出し、火をつける。その姿を眺めながら、香織は小さく息を吐いた。斗真が、認めた。その意味を、香織は知らない。


 「斗真が認めた、ですか……」

 「そうだ。そういえば、君たちは昔からの知り合いのようだな? 蔵内がそちらの世界にいたときの知人か」


 その言葉に、香織はぐっと息を飲んだ。知人、今の自分たちの関係は、その一言で片付いてしまうのか。それを改めて実感させられた。


 「……そうですね。幼い頃からの知り合いです。

 そういえば、彼はなぜ私たちの世界に?」


 香織は本居へと視線を向ける。その視線を受けて、彼は一度瞼を閉じた。考えを整理するかのような姿に、香織も黙って言葉を待つ。


 数秒、それとも数十秒だろうか。幾ばくかの空白の後、本居は口を開いた。その表情は、どこか暗い。


 「蔵内の家は、代々優秀な術者を輩出する家だった。その才は、あいつも引き継いでいる」


 煙草の焼けた匂いが辺りを包む。吐き出された煙は、まるで視界を奪う霧のようだ。香織の心を騒めかせるのは、この煙か。それとも、本居の言葉だろうか。


 「だからこそ、あいつが送られた。


 ――蔵内は、勇士と神子の適正者、それをに君の世界に送られたのだ」


 胸の騒めきは、まだ止まりそうもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る