第2話 過ぎた時間が変えたモノ


 香織は過去へと思いを馳せる。

 今までも、交番勤務の頃を懐かしむことは多くあった。しかし、今ほどあの頃に戻りたいと思ったことはない。

 主な理由は装備品だ。誰か私の手錠を持ってきてくれ、今すぐに! 彼女は心の中で声を張り上げた。


 「香織ちゃん……香織様……? え、やっぱりめちゃめちゃ怒ってる!?」


 目の前であわあわと慌てる男に、香織は冷めた目を向ける。

 人間苛立ちもここまでくると、声を荒げることすらないらしい。口元に笑みをキープしたままでもいられるようだ。安心しろ、めちゃめちゃ怒ってるから、と香織は笑みを深めた。


 「大したものはご用意できず、申し訳ない」


 そんな彼女に茶を差し出したのは、先ほど地下室にいたもう一人の男だ。


 黒髪をオールバックにし、眼鏡をかけた渋い男性。歳は40中頃だろうか。ナイスミドルという言葉が良く似合いそうな紳士だ。

 一見冷徹な雰囲気があるものの、彼女を気遣う姿は実に自然だ。

 普段から気遣いに長けた人間なのだろう。強面な印象から一転、優しさを見せる姿はギャップ好きにはウケが良さそうだ。


 「お気遣いいただきありがとうございます。

 ……まろやかな味わいですね。煎茶も入れ方一つで変わると聞きますが、こうして飲むと味に詳しくない私でも差を実感できます」

 「それはなにより。渋さのある茶も好きだが、落ち着きたい時はもっぱらこちらでね。

 君のような若い女性が好むかは不安だったが、口にあったようでなによりだ」


 片頬を上げていたずらに笑う姿に、香織も自然に微笑み返す。

 対面こそ保っているとはいえ、彼女が苛立っていたのは事実だ。ささくれ立った心にすっと染み渡る。彼女の心情を慮って入れてくれたお茶だ。美味しいのも当然か、と彼女は笑みをこぼした。


 「あ!? 香織ちゃん笑ってる!? 俺にはすげー厳しい目してたのに!? 師団長ばっかりずるくない!?」


 ――誰が原因か分かってんのか、コラ


 なんでなんでと騒がしい男に、香織は盛大にため息をついた。

 文句が口をつくのを抑えつつ視線を向けると、男は紳士にはたかれている。

 いいぞ、もっとやれ。彼女は静かに紳士へとエールを送った。


 「うちの蔵内が大変失礼した。改めて自己紹介をさせてほしい。

 私は本居仁。皇宮警護軍、呪術師団師団長の職に就いている。

 そしてここにいるのが、蔵内斗真。君も知っているようだが、一応紹介はさせてもらおう。

 蔵内は私の見ている呪術師団の第二部隊隊長の職に就いている。階級は大佐だ」


 以後よろしく頼む、と頭を下げる彼に香織は返す言葉が見つからなかった。

 それも無理からぬことだろう。そんな軍の名を彼女は聞いたこともないし、呪術などオカルトの領域だ。科学が発展した時代に生きている彼女からすれば、眉唾物ですらある。

 何かドッキリでも仕掛けられているのだろうか? エイプリルフールは過ぎたはずだが、と香織は頭を捻らせた。


 「あ、香織ちゃん。ドッキリ仕掛けている訳じゃないから安心してね!」


 心を読んだかのようなタイミングで告げる斗真に、安心できるかと心の中で吐き捨てる。ウィンクと共に告げる姿が妙に似合っていて腹立たしい。


 本当に、何が起きているというのか。そんな気持ちを抱えたまま、香織は口を開いた。


 「ご丁寧にありがとうございます。

 私は警視庁捜査一課、強行犯捜査第二係所属の櫻井香織と申します」


 言葉に合わせ、染みついた癖で警察手帳を取り出す。肩の高さに来るよう掲げると、中を開けて提示した。

 彼らの視線が警察手帳へ向いたのを確認し、一呼吸置いてから懐へ戻す。


 「やはり警察の方だったのか。道理で落ち着いてらっしゃるわけだ」


 警察手帳を見て頷く本居とは逆に、斗真はポカンと大口を開けていた。おそらく香織が警察官だということが信じられないのだろう。


 女性警官というのはそう多くない。昔に比べれば増えたとは言え、圧倒的に男性社会だ。その上、捜査一課は花形と呼ばれる部署。凶悪事件に対応する部署という認識は多くの人が持っている。そこに、まさかかつての恋人がいるとは思わないだろう。


 香織が警察官という職についたきっかけは、斗真を探すためだった。彼女自身、その動機は胸を張って言える内容ではないと思っている。誰かに語ることもなかった。


 地下室でのやり取りを思い返す限り、会いたかったのは香織だけだったようだが。

 たった一つの恋を捨てられず、走り続けた結果がこれとは、笑い話にもなりはしない。


 一つ息を吐き、香織は苦い思いに蓋をする。

 今までずっと思い続けてきた。せめて無事さえ確認できればいいと思ってもいた。

 ならば、もう十分だろうと、どこか冷静な思考が彼女の頭に響く。こうして無事なところを見ることができたのだ。願いは叶ったではないか、と。

 思考はどこまでも冷静に、恋焦がれ傷つく感情をなだめていた。


 「では、まずは現状について説明させていただきたいのだが……」


 本居が語り出したところで、扉が強くノックされる。

一斉にそちらへ視線を向けると、申し訳なさそうな顔でこちらを覗く男がいた。


 「すみません、本居師団長、蔵内隊長。

実は神子様が、いつになったら隊長が会いに来るのかとおっしゃっていまして……」

 「はぁ? そもそも、俺の仕事は召喚だけでしょ。対応は第一部隊の仕事だろ」


 それについても重ねて説明しているのですが、と眉を下げて言う男に、斗真は盛大にため息を吐き文句を重ねる。

 男は苦笑を浮かべなだめようとするも、斗真は面倒くさそうな顔を崩さなかった。


 「お前は本当に……。佐伯、神子様には私が一度顔を出してご理解いただこう。

 蔵内、お前はここで彼女の相手をするように。分かっていると思うが、間違っても勇士様にご迷惑をかけるなよ」

 「分かってますって師団長! 俺の信用ないなぁ」


 頭をかいて苦笑する斗真を見て、本居が呆れたようなため息をついた。

 斗真のこの態度はいつものことなのだろう。慣れたように受け流し、佐伯と呼ばれた男に声をかけて部屋を出た。

 退出の際香織へ一礼したところをみるに、やはり礼儀正しい人間のようだ。


 突然二人きりになった部屋。パタパタと足音が遠ざかるのを聞きながら、完全に無音になるまで香織はお茶を飲んでいた。視線は一切合わせずに。

 ついに外の音が聞こえなくなったところで、彼女はゆっくりと右足を上げて足を組んだ。


 「説明」

 「はい」


 口元に浮かべていた笑みは、今は見る影もない。微笑みは瞬時に取り払い、目元も鋭くなっている。気分は被疑者への事情聴取だ。

 言葉少なに命じる彼女に、斗真の顔は若干青褪めている。


 「相変わらずの外見詐欺……」

 「蔵内さん、何か言いまして?」


 斗真がぼそりと呟いた言葉に、香織はにっこりと笑みを浮かべ首を傾げた。


 冷静な思考はどこへ行ったと思うが、これは致し方ないことだろう。

 恋心を抑えるということと、理解不能な状況に陥らせた元凶を許すかどうかは別の話だ。

 加えて、香織は間違いで巻き込まれた可能性がある。文句の一つや二つ言ったところでバチは当たるまい。


 「えーっと、まずどこから話せばいいかな……」


 斗真は金色の髪をかき乱しながら唸る。

 髪はトップの部分は短めだが、襟足が長く伸ばされている。俗に言うウルフカットというやつだ。太陽のような髪色によく似合っている。


 幼少期、少女のように愛らしかった顔立ちは、今ではすっかり男前だ。美しい男ではあるが、この顔を見て可愛い少女とは誰も思わないだろう。

 中学時代には既に片鱗があった。幼さは残っていたものの、可愛らしいから美しいへと変化をしていた。そのまま成長したからか、男臭さというのはあまり感じない容貌だ。


 香織は、ある不安を抱えていた。斗真を見つけたとしても、気づかないのではないかというものだ。最後に会ったのは中学生。今は既に20半ばだ。多感な時期を離れて過ごしたこともあり、面影がなくなっているのではと、考えるのも無理はない。

 実際は一目見て分かってしまったのだが。それだけ香織にとって斗真が大きい存在だったのかもしれない。


 「……香織ちゃん?」


 自身の名を呼ぶ声に、香織は意識を戻す。斗真はどこか不安そうに彼女を見つめていた。


 昔から彼はこういうところがあった。香織の気が逸れているのに気付くと、不安そうに彼女を窺うのだ。

 何故そんな顔をするのかと聞くと、自分といるのがつまらないのかと不安なのだと答えた。明るい彼らしくない姿に、香織はそんなこと気にするなと笑って背を叩いていた。

 彼女の意識から自分がいなくなること、それを斗真は酷く怯えていた。


 昔のように、香織は「気にしないで」と伝えようとするが、その言葉は斗真の手で遮られた。


 「ごめんね、香織ちゃん。……俺のせいだ」


 前に身を乗り出し、斗真の手のひらが香織の頬に触れる。その手は冷たく、少し震えていた。

 斗真が彼女を見つめる瞳は、苦渋に満ちている。何かをこらえるかのような、そんな瞳だ。その姿に、彼女が返すべき言葉は宙へかき消えた。


 ひやりとした手のひらが頬を撫でる。もうずっと触れることのなかった手は、あっさりと香織に伸ばされた。それが、彼女の胸を高鳴らせる。


 恋の終わり、それを実感してもなお、目の前の男を諦めきれない。諦めの悪い自分に、香織はこれまでの日々を思い返した。

 会いたくて走り続けた日々は、苦難の連続だった。警察官になること、それだけを頼りに走り続けた。警察官になれば、斗真の無事を確認できる。そう信じて。


 誰にも胸を張って言うことのできない理由は、彼女にとって苦しいものだった。

 同期がきらきらとした瞳で夢を語る。誰かの役に立ちたい、街の人を守りたい、助けてもらった刑事のような警察官になりたい。語られた言葉は、しんしんと降り続く雪のように彼女の胸に積もっていく。


 彼女にとって警察官とは、斗真を探すための手段でしかなかった。それも、蜘蛛の糸にすがるような不確実なもの。同期とは到底相容れない理由に、彼女は口を噤むしかなかった。


 せめて、警察官らしくあろう。己の歪みを知る彼女は、そう決意した。動機がくだらなくても、胸を張れなくてもいい。自分の在り方は、取るべき行動は、誰より警察官らしくあろうと。

 動機に後ろめたさがある彼女が、せめてと選んだ道。だれよりも警察官らしい姿。それは市民のためと言えない自身を、戒める鎖だった。


 「っ、香織ちゃん!」


 不安そうに響く斗真の声に、香織の意識が戻ってくる。


 またやってしまった。香織は表情に出さず、落ち込む。不安そうに香織を見る斗真は、彼女の意識が逸れたのに気づいたのだろう。久しぶりに会えたせいか、どうしても感傷に浸ってしまう。

 ごめんね、と告げようとした口は、動くことはなかった。


 香織の唇に触れる斗真の指と、彼の言葉があったからだ。



 「怒っていい。理解がある人でいなくてもいい。こうなったのは俺の責任だ。だから、香織ちゃんが俺に怒りをぶつけるのは当然なんだ。

 でも、怒られることは受け止められても、これだけは許せない。受け入れられない。


 ……怒っていい。だからちゃんと、俺のことを見てよ」



 ――見ていたよ、いつだって君だけを



 そう伝えたいのに、香織の喉は絞められたかのように音が出なかった。


 会いたくて、会いたくて、探し続けた相手なのに。


 今の香織を占めるのは、ひりつく喉と、かきむしるような胸の痛みだけだった。

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