赤 「鍵」
彼のベルトループで、男の歴史や得てきたものの象徴の如くシャランジャラン鳴る鍵束。
そんなにたくさん、いったいなんの鍵なのかと尋ねたところ、彼は戯笑して誤摩化すだけ。
「秘密」
「こんにちは」
午後の暖かく濃厚な日差しを浴びながら洗濯物を干していたら、彼が訪ってきた。
先週の休日に爆睡して約束をすっぽかしたのを反省しているのか、臆病な兎のように鼻と耳を頻りに痙攣させて。
「パン、買ってきたよ。コーヒー入れない?」
私はお湯を沸かしてインスタントコーヒーを煎れた。彼のためにミルクの瓶も添える。
テーブルに向かい合い、彼セレクトのラズベリーデニッシュを1つずつ食べた。
こんもり盛られた熟したラズベリーは瑞々しくて、噛み付くと血のような赤い汁が飛散する。彼は並べたフォークには目もくれず、手づかみでわしわしと食す。Tシャツに鮮血のようなシミを点々と拵えながら、餓えている子どものように夢中で頬張り続ける。鮮やかな赤紫色が、彼の口を中心に顔に塗りたくられていく。同時に彼の動きに合わせて舞い散るデニッシュの屑。
「おいしいね」
斑の髭にまでカスタードや屑を付着させて、幼児が初めて化粧に挑戦したような顔で、にぱっと靨笑した彼は、デニッシュが失せると続けざまにコーヒーを飲み、安堵の息をついた。
彼はもうすぐ45。中年時代にどしどし踏み込んでいく。だのに、動作がいちいち小動物を思わせる可愛らしさ。反則だ。170センチ近い長身の分際で。私の母性に似た愛情が、理性の木からふっつり落ちて粉々に割れ、たっぷり詰まった果肉や果汁がみっともなく散乱する。その汁はラズベリーみたいに真っ赤で、私の心に落ちないシミをつけて広がっていくのだ。
彼はそんな私には一向構わず、ジーンズのポケットから文庫本を出して読み始めた。テーブルを拭こうかと思ったが、汚れたテーブルで汚れたままでいる彼があまりに愛らしかったので、止した。
そうして彼を眺めながらデニッシュをお腹に納めた私は満ち足りた心地で緩慢に頬杖をつき、目を閉じた。時々、彼が文庫本の黄ばんだ薄いページを捲る林檎を齧るような音が聞こえるだけだ。
よく食べる人・・
開け放った窓から、チェンバロの清々しい微かな音が風に乗って入ってくる。近くにある教会から響いてくるのかもしれない。あそこはよく、コンサートを催しているから。
閉眼していても感じられるほどに、秋の空はどこまでも清く穏やかだ。このまま夢へ誘われるのも悪くない。夢うつつになっていた矢先である。フローリングの床に投げつけられたような騒がしい金属音が鼓膜を脅かした。シャランジャラン、と。無視できなくなった私は遠退いた意識を覚醒させようと重い瞼と格闘する。林檎を齧る音はいつのまにか消失している。やっとのことで睡魔を振り切った私は目を開けた。
ついさっきまで眼前にいた彼はまるで最初から存在していなかったかの様に、ごく自然に消滅していた。けれど、彼が飲んでいたカップでは、半分残ったミルク入り珈琲が微かに湯気を立て、彼が食べこぼした屑も赤いシミも、新鮮なままテーブルや使わなかったフォークに飛び散ったままだ。
私はなんとなく一時停止で待ったが、彼は見えてこなかった。どうやら目の錯覚ではなさそうだ。玄関を確認すると、彼が履いてきたチョコレート色のブーツがすまし顔で鎮座していた。
彼は洋画より邦画が好きだった。
影響されて鑑賞しているうちに、比較的、邦人は自殺したがる傾向があることに気付いた。なにかにつけて、すぐに死にたがるのだ。
『死んでしまいましょう』
死に意味など求めるだけ無駄だ。だって、死んだら無なのだ。生肉が腐るように悪臭を放ちながら蠅や蛆に食われながら醜くおぞましく崩壊していく肉塊。自分が誰だったのか。自分がどうやって生きてきたのかは残らない。そこには愚かな人間が求める美しさなどない。楽になるなんて嘘。嘘っぱち。それなのに、どうして人は手軽に死を求めようとするのか。
『死ぬしかないわ』
死を持って愛を確かめ合う? そんなわけあるもんか。一緒に死んだところで、魂は一緒にはなれない。それは人間の綺麗事。魂だって実際にあるのかどうだか怪しいんだから。それなのに、心中をして成就できなかった愛を永遠にしようとする。そもそも永遠なんてないのに。
『死ぬのがいいわ』
なにがいいもんか。簡単に言うな。生活が恵まれていれば、死を美化する。貧困に喘いでいれば、死を最終手段に持ってくる。恋をしたら死で確かめる。罪深い愛情は死を持って証明する。潔い死は清廉潔白の代表。そんなバカな。けれど、徐々になんだか死を否定して恐れる今の私たちの常識の方が浅ましく思えてくるのである。そうして、今になって考え直すと、私のこれまでの考えは間違っていた、いや結果として間違っていたと言ったほうが正しいのかもしれない。
少なくとも、私は、実行したのだから・・
シャランジャランと鍵が叩き付けられる音がする。何度も何度も。
彼が教えてくれなかった、秘密の鍵達が騒がしく鳴いている。
私はラズベリーの真っ赤な滲みが広がっていく様にうっとりと酔いしれる。
食いしん坊の彼が薄く笑っていた。
私は知っている。彼の鍵束の鍵の大半は、彼の家庭の鍵なのだと。
自宅の鍵やファミリータイプの自家用車の鍵。家族の季節用品がしまわれた物置の鍵や金庫の鍵。鍵を紛失しやすい奥さんの自転車の鍵。息子さんの部屋の鍵。彼の安定した生活が凝縮している鍵束。それが鳴る。シャランジャランと。
人間の欲は恐ろしい。
罪悪感と嫉妬に駆られた結果は同じ行動らしいのだ。それは、きっと、人が知恵の実を食べた時点で遺伝子に追加されてしまったものなのかもしれない。倫理に悖る行いは、特に男女間においての不倫や浮気には罰を下せと。種の存続のために一夫多妻は致し方ないと考えるのは人間だけ。恋愛を特別視しているのは人間だけ。その結果、
殺されたって文句は言えない。
「・・・・おいしかったね」
彼は鍵束を鳴らしながら莞爾に笑って私を見た。
私は彼の口元をまだ彩っているラズベリーの赤を、指で拭いながら無言で頷く。けれど、彼の空ろな瞳はもう私を見ていない。彼が見ているのは遥か彼方の彼の家庭。
拭っても拭ってもラズベリーは塗りたくられていく。彼の顔を染めていく。
赤く塗れた私の手は、冷たくなっていく硬直する彼を強く抱きしめる。
鍵束が最後の力を振り絞り、ジャランと鳴って果てる。
私は朗らかに嘻笑する。
無駄よ・・・・彼はもう私のもの。
暗くなった部屋に、赤い臭気が霧の様に流れて始めた。
幻影の絵の具箱 御伽話ぬゑ @nogi-uyou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます