黄色 「青空の罪」
腐敗して悪臭を放つ汚物のごとき夫婦生活は、もうかれこれ4年になります。
夫には、結婚前から切れない愛人がいて、私がそれを把握したのは3年程前で、幸せな結婚を謳歌できたのはたった1年足らず。2年目からは、生き地獄。
付き合いで仕方なくいったキャバクラの女の子や仕事上の取引先、お得意様の娘。ヴァリエーションに富んだ言い訳を駆使し『おまえが心配するようなことが、あるわけないだろう?』と自信たっぷりに締める黄色いネクタイを好んで結ぶ嘘つきな夫。それなのに、私は夫と離婚する決断も勇気も湧かず、黙認するしかできませんでした。私は、臆病で愚鈍の妻。
だけど、彼の妻でいられるのなら・・
代議士の父と議員秘書の母から生まれた不細工で落ちこぼれの娘が、私。
小さな不動産屋のしがない事務員として、平凡な日々を送っていました。
夫は、地味で単調な私の人生に突如現れた彗星のような男性でした。
赤字を抱える個人経営の不動産屋を、保有している土地共買い取るモンスター企業の営業マンだった夫。ハンサムな容姿に歯磨きのCMみたいな清潔な笑顔と、トランペットのように通る声が印象的でした。
来店初日で、なぜか私を気に入り、なぜか付き合うようになり、なぜかプロポーズしてきたのです。
劣等感の塊でしかない容姿と消極的な性格のため恋人は疎か友達もいなかった私は有頂天で、なにも考えずに二つ返事で了承したのがそもそもの間違いだったのです。
平日の帰宅ですら深夜に及ぶ夫。たまの休日には朝帰りが常でした。どのみち帰ってきたらシャワーを浴びて即寝。昼過ぎにやっと起床して軽い食事を取ってから一人で外出する。その繰り返しでした。
私は、ただの家政婦だったのです。報酬は、数ヶ月に1度、酔った勢いで抱かれること。最近ではそれすら間遠です。私たちの家庭内には強烈な悪臭が常に漂っていました。得体の知れない悪臭は、夫のネクタイのように黄色く、いやらしく汚れた色をしているのです。
そんな悪臭を吸いながら生活していると、臭覚が麻痺してきて段々気にならなくなるように、いつの間にやら私はその異常な生活に気を揉まなくなっていました。夫が帰ってくるのは、私のいるここなのだとの自負が私を支えていたのかもしれません。
透明な黄色い陽光が満遍なく振り注ぐよく晴れた午後。
私は大量の洗濯物をベランダに所狭しと干していました。洗濯物は干す側から風に弄ばれています。とりわけ夫のワイシャツ達は、止めてある洗濯バサミを吹き飛ばす勢いで生き物のように激しくはためき、飛んでいきたがっているようでした。私はその様子を睥睨し、何個も洗濯バサミを駆使して強固に止め直しているところでした。不意に部屋の中から音がして、私は慌てて残りの洗濯物を片付けました。きっと、お寝坊の夫が起きてきたのでしょう。夫は何もできない人でした。料理や洗濯、掃除はおろか、自分の持ち物も探せませんし、タオルの場所もわかりません。スイッチを押すだけのお風呂を湧かせるのかも微妙でしたし、電子レンジすら操作できるのか怪しいものです。
できる事と言えば、リモコンでテレビをつけるとか、髪をセットするとか、歯磨きをするとか、ネクタイを選ぶとか、コロンをつけるとか、用意された食事をとるだけでした。それ以外は全て私に任せっきりだったのです。
ふと見ると、寝癖だらけの夫が、窓枠に腰掛けて呑気に煙草を吸っていました。
激しくはためく目もくらむ程の洗濯物の合間をぬって、煙草の煙が微かに黄色く昇っていきます。
突き抜けるような青空の下、夫はいかにも満足そうにニヤニヤ笑っていました。
私は、その笑いを知っていました。
プロポーズされた冬の朝。頷いた私が顔を上げた時に一瞬見えた笑みなのです。
明け方の部屋の中で、きつく私を抱きしめたあの笑い。
『ははは』
乾いた棒読みの笑い。
急に憎しみが込み上げてきました。
今朝、夫の携帯に男性の名前で着信があったのです。鳴り続けているので、入浴する夫に知らせようとして誤って通話ボタンを押してしまったのです。途端に、受話口から飛び出したのは甘ったるい女の声。
『やっと出たー。ねーぇ、忘れ物してるよぉーもーう、そそっかしいんだからぁー』
私とは種類が違う女の、声。派手好きな夫に相応しい華やかな女の、声。
『ねぇさっさと離婚してよぉー親が代議士だかなんだか知らないけどぉー親の七光りだけの女なんでしょぉ』
耳朶にべたっと張り付いてくる甘ったるいマンゴーのジャムみたいな女の言葉・・
私は口を結んで、大股に夫に近付きました。
夫は変わらずニヤニヤと煙草を吸っていて、近付く私が見えていないようでした。
私は拳を振り上げて、夫を殴りつけました。
何度も何度も殴りつけました。だのに、夫は微動だにせず相変らずニヤニヤと笑い続けているのです。
琥珀のような黄色が広がっていきます。濃度を上げて私を窒息させるのです。私が嘔吐するように夫に乱暴すればする程、黄色は鮮やかにハッキリと視界を染めていきます。
にわかに鼻の奥がつんとして、ハッカを嗅いだ時のような感覚に陥りました。
夫の手から離れた煙草が、はためく洗濯物に焼けこげをこびり付かせて力なく落ちました。それが一層私に拍車をかけたのです。私は口汚く夫を罵倒し始めました。
けれど、夫のその大きな目の玉は私を映してはいませんでした。
ただ私の背中に広がる青空が一面に映っているのです。そして気違いのように笑っていました。
「ははは」
後ろから焦げ臭い匂いが立ち上ってきました。
洗濯物が燃えているらしいのです。
私は、空気が入っている人形のように全く手応えのない笑い続ける夫を叩き続けたのです。
風はどこまでも爽快に頰を撫で、日差しは力強く温かかったのです。しかし、いかにせ暑過ぎました。
私はようやく振り返り、我を忘れてその光景を見つめました。
そこには見る間に真っ黒に焼け爛れ、黄色に燃え上がる洗濯物がはためいていたのです。
悪臭を放つ夫婦生活が無惨に焼け落ちようとしていました。
「ははは」
乾いた笑いが夫の口から機械的に吐き出されます。
戦慄して動けなくなった私の目には炎の揺らめき。
白を惨めに変色させていくその透き通った黄色く揺らめく炎は青空に映えて、いよいよ美しく燃えていたのです。
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