夏の痣
見上げれば、いつも蒼穹が広がっている。
だのに、どうしてか私の足下にはいつまでも雪が残っていて、無防備な素足に透明な針を幾つも突き刺してくる。赤く膨れ上がった霜焼けの足は一歩毎に酷く痛み、進むのを拒む。
私はそれでも立ち止まる事を許されないのだ。
歩き続けるしかない。
もう彼はいない。
私達は最後まで愛し合えず、憎しみ合って、別れた。
アスファルトから立ち昇る陽炎の中、彼と手を繋いでどこまでも歩いて行けるような気がしていた。
似たような背格好と同じ汗っかきの手と似た者同士の性格。
ぶきっちょな人生の歩き方まで他人とは思えなかった。下手したら恋人と思えないくらい近い私達。
きっと気持ちだって同じだと勝手に思っていた報い。
焼け付くように暑い夏。そればかり記憶に残っている。
ひどく臆病で怖がりな彼の本当の姿は、そうじゃない自分でありたかった彼に隠れていたことを、近くにいたのに気付けなかった私。
見ようとしなかった私。
見て見ぬ振りをしていた私。
無関心を装って、漠然と彼の脆い言葉を信じた振りをして。
受け身になることで、彼のせいにしたかったくせに。
そんな分際で、なにを夢みていたのだろう?
男だから、女だからとくだらない型に嵌った振りをして、現実の自分達を無視していた。
怯えている彼の不安を、真剣に取り合わなかった。私だって不安だったから。
似た者同士は、肝心な場面でも発揮される。交互に怖がる滑稽を繰り広げる。
解り合っている?
おまえの気持ちは知っている?
笑止。なんて傲慢な。
所詮は他人なのに。
自分のことも怪しいのに、解り合えるわけない。
飽きる程一緒にいて投げつけ合っていたのは、愛の言葉ではなくナイフのような鋭利な暴言。
話すべきことを避けて、傷つけ合って。
私はぼんやり気付いていた。私と彼は似合わない。
二人で映る写真を見ても、街でショーウィンドウに映った二人を見ても付き纏う違和感。
いつもいつも。姉と弟のような妙な感じ。どうしても彼が子どものように見えてしまう。
だから、余計に男らしさとか、そんなくだらないものを無意識のうちに彼に欲求していたのだろう。
私は本当に彼の事が好きだったのだろうか。わからない。
必死になって彼を支えている風を装う事で、自分は人を支える偉い女なのだと自尊心を育みたかっただけだったのかもしれない。私は私で良かったのに。
私は彼と付き合っている時に、そうありたい自分を演じていたのだろう。
優しくて、女らしくて、意思がしっかりとしていて理想の女性像を彼と共作して、なりきろうとした。
彼もそうあろうとした私だけを見ていた。
でも、私はそうなれず、彼の予定は大きく外れた。
「俺は一緒にいられれば、それでいいんだ」それが望みだと、かつては答えていた彼。
けれど、期待はずれな私に対して、終いには疫病神と呼ぶようになった。
彼は恐ろしく危うくて、それを制御出来なくなり、一緒にいたいと宣ったその口で、俺の人生はお前のせいで終わったと口走った。ことある事に強くそう訴え続けた。
些細な何かがある度に、同じ暴言を繰り返す。
『お前は疫病神! お前の頭はおかしい! どうかしてる! 気違い! お前のせいで、俺は・・・・!俺は・・・・俺は! 俺の人生は! 俺の人生を返せ! 返せ! 返せ!!』
彼に叩かれ、殴られ、蹴られ、引きずられ、首を絞められ、それでも私は優しくあれなかった。
心底大嫌いだった。自分も彼も。
憎くて憎くて堪らなかった。
幸せそうに笑う彼。紛れもない真実だけど嘘だった。
私は、自分にされた同じ分の甘えを彼に求めた。
叶う筈なんてなかった。彼には私を甘えさせる余裕等これっぽっちもなかったから。
歌の歌詞のように夢や理想の恋の相手は、今付き合っている彼だったのに、彼はそれすらも許さず、全てを壊した。
理解されない事が悲しくて、キチガイ呼ばわりされるのが辛くて、彼を有りの儘に受け入れられない自分が情けなくて自問自答を繰り返す。
そんなに憎いのなら、私を嫌いだったら別れればいいじゃないか。
泣いて詫びたりせずに別れればよかったんだ。
必死になって愛情らしき物をいつも探していたのは、ただの時間の無駄で、なんの意味もなかった。
全てを悔いながらも、彼にしがみついてしまっていた自分の弱さを呪いたい。
ふと、我に返る。
ここは・・・どこだっけ。
鶺鴒が前を横切るのを目で追って、しばらく呆けて思い出す。
そうだ。今は凍てつく冬。
透明な青空が広がって、日差しが強く風が冷たい冬。
時間が経ったんだ。
彼に車から引き摺り下ろされた左足の痛みはまだあるけど、大丈夫。
もう彼とは別れたのだ。
罵られ、殴られ、傷だらけになっても逃れられず、完全に依存していた私。
私だけじゃない彼も、共依存だった。
でも、真実はきっと違う。
彼の心はとっくに離れていたのだと思う。
だのに、私を痛めつけ続けた。
性欲が溜まった時だけ性行為を強要して。絶頂に達するオプションみたいに愛してると口にする。
嘘だ。全部。
愛していたのは性行為であり、彼自身だった。私じゃない。
私の存在はない。
憎かった。殺してやりたかった。
死ねばいいと思った。
他人だからと自制して、それでも無意識に溜まりまくった殺気は露出して、一度だけ彼の太くて丈夫な首を絞めた。渾身の力を入れても殺せるわけはなかったのに。
不思議と死にたいとは思わなかった。どうしたら彼はよくなるのかなんてお気楽な事を考えていた。
現実逃避もいいところだ。
本当に愚かだった。
逃げ出すことが、別れることが、彼を裏切るようで、彼を可哀相に思ってしまい、実行できなかったけれど、もう限界だった。
やっとのことで逃げて、逃げて、私に残ったのは痣だらけでびっこを引いて歩く体と、骸骨のように痩けた顔だけだった。
未練や意地を張ってばかりで、もうお互いに向き合うことすらできなかった私達は、お互いに違うところに助けを求めていたのかもしれない。
いくら他人が間に割って入ってきても私達の問題を解決することなんてできなかったのに。
別れは仕方ないこと。私は悪くない。
だから大丈夫・・・・
小さく溜め息をつく。真っ白い吹き出しみたいな息が出た。
私は生きている。
彼を殺さなかった。
鶺鴒が再び私の様子を伺うようにして、時々止まって躊躇しながらけれど早足で横切っていく。
時が早く過ぎてくれればいいと思う。
それで、幾らかでも癒されていくのであれば。それしか救いはないだろう。
腕の痣に手を置いて目を瞑る。
わかってる。私は歩き続けるしかない。
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