真夜中の兎
午前一時。
時が崩れ落ちていく幽けき音がする。
眠っている人間の夢の重さ。
密度の濃い空気。いくら呼吸をしても酸欠だ。
寝返りを打つ。
まるでメリーゴーランドに乗っているような気分の悪さ。
温まったシーツから足をずらす。
窓ガラスを叩く蕭々とした雨音。
寝返りを打つ。眠れない。
中途半端な体温。中途半端な怠さ。そして中途半端な清潔さ。
全てが鬱陶しく纏わりつき、私に自己嫌悪感を思い出させる。
嫌な夜。
なにも、こんな陰気な深夜にわざわざ浮かばずともいいものを。
まったく無意識の記憶というのは自分勝手なものだ。
『君は自分勝手だね』
彼の捨て台詞が耳朶に蘇る。
結局、最後まで彼との間にきたされた齟齬は解決の糸口を見つけられなかった。彼との懶惰な生活の原因の一端は私だ。
私は、盲目な振りを装って、怯える野良猫のように詭弁という爪で彼の心を無我夢中に引っ掻いていただけ。
待ち構えているかもしれない辛酸な未来の虚像に支配されていた私の見ていたものは、不幸な結末。
己を守る為に足掻いている身と、既に守られているくせに気付かない身。
どちらが先に傷つくか。
どちらが最後に傷つくか。
どちらが切り出すか。
そんなくだらない緊張状態。
そうでもしないと、彼と一緒にいる自分を見出せなかった私。
そうかもしれない。
いつ・・終わるのだろう?
自らに向けられた強迫観念という歪んだ刃物で、自らを深く深く突き刺し続けていたのも私。
吐気を伴う頭痛が込み上げる。
今更、もうどうしようもないのだ。
私は胸を何度か叩き、深呼吸をして瞼を閉じた。
そんな私には関係なく、幽けき音は続く。
首に張り付いてくる半乾きのだらしない髪が気味悪く感じる。
首を絞められるようだ。
彼の手かもしれない。
私に酷く自尊心を傷つけられた彼の恨みの手なのかもしれない。
だとしたら・・
甘んじて受けねば。
それで気が済むのなら・・・
ああ、バカバカしい。
こんなものは、ただの自己満足だ。
手前勝手な自己犠牲だ。
反吐が出る。
一人遊び。
私はどこまで傲慢なのか。
それとも未練?
どちらにしても、後悔して流す涙と同じこと。
意味のないこと。
どうせ。
どうせ寂しがりやの彼は今頃、私への憤りを無責任な勢いに変換して、誰かと恋に落ちている。
私と別れた方がこんなに充実しているのだと体中で証明するかのように。
それが彼の自分の慰め方。
寝返りを打つ。
これで何度目だろう。
どこかで鶯のメロディに似た調子で丑三つ鳥が鳴いている。
雨は止んだらしい。
満遍なく濡らされたアスファルト道路の表面をゴムタイヤが摩擦する微かな音が遠くから振動してくる。
竹の笊に入れた小豆がゆうるりと揺らされるよう。
波の疑似音。
耳を澄ましているわけでもないのに、やけに大きく響く。
ああ・・・ けれど眠れない。
味の抜けたガムを噛み続ける不快さ。
未練が残っているはずもない。
ガムと一緒に吐き捨てた筈なのだ。
寄せては引くように、また像を結ばない曖昧な残骸が思考を徘徊し始める。
もう、うんざりだ。
生欠伸をする。
気分が悪い。
ぬるまった布団を蹴散らしながら、私は影で縁取られた部屋を見渡す。
踞る人影のような塊に一瞬動揺しながらも、それが己が脱ぎ散らかした服の山だとすぐ気付く。冷や汗と一緒に滑稽さが滲む。
独りでなにをしているのか。
悔いてはいない。
私は心底疲れたのだ。
この夜の静寂を一人で過ごすよりも、彼と二人で車に乗っていることに。
何度思い返しても色が褪せたモノクロに暮夜けている世界。
生々しく鮮やかな色彩はどこにもない。
まるで夢のようだ。
それにしては不快な匂いの込み上げてくる。
物事の終わり独特の物悲しい匂い。
その匂いに敢えて私は鼻をひくつかせた。
熟成された匂いは微かな哀愁が入り交じり、ノスタルジアすら覚える。
匂いは、脳天の後ろからずっと入り込んできて心を抓る。
ため息が溢れる。
いつだったか、ため息一つで幸せが一つ逃げていくのだと睦言で囁いた彼。
膨大についた二人のため息に、どれだけの幸せが霧散したのだろう。
再び雨が降り出した。
寂れた劇場の貧相な拍手の音。
舞台の幕は降りたのだ。
再び幕が上がることはなく、アンコールはない。
だのに疎らな拍手の音は止まらない。
勘弁して・・!
両足を布団に何度も打ち付ける。
私は、もう無理だった・・そんなに責めないで!
少しくらい、
よくやったと誉めてくれてもいいじゃない!
悪寒が走る。
白々しい。
体を丸めて蹲って悲哀を大袈裟に表現するように、混沌とした閊えを吐き出そうとしている私。
記憶と憂いの糸がこんがらがっていく。
今頃、彼は、きっと・・
見開いた眼球から水分と共に生気が蒸発していく。
暑い。
いくら涙を流しても潤う筈のない私の目と心。
時の崩れる音は止まらない。
無心の涙も止まらない。
このまま早暁を迎えるのだ。
もう構わない。
傷付いた彼への私の償いはそのくらい。
『うんざりだ。確かなこと以外、もう聞きたくない!』
あったのだろうか。確かなことなんて。
私になかっただけで、彼の中にはあったのだろうか?
わからない。
本質のない思い遣りの体裁をした臆病な毛皮を纏って、浮かぶ疑問を飲み込み見当違いな唸り声しか出さなかった。
彼の発する言葉の自分が望んだ部分にだけ敏感に耳を澄まし、嫉妬の炎を燃やす。
臆病な毛皮を自らの口で毟るのも厭わない。
いや、全て剥ぎ取ってしまえばよかったんだ。
みっともなく斑に毛が残った姿が、私の正体だったのだから。
私は腕で顔を覆うと寝返りを打ち、足を畳に放り出した。
洩れ出すような違和感。
私は怠い体を温もったシーツから引き離してトイレへ向かう。
白い光の玉のように艶やかな白い陶器の便器に滴り落ちた鮮血は、猩々緋より更に明るく、私の目に焼き付いた。
その鮮血の中、彼が怯えるようにして静かに泣いている姿が重なる。
ああ・・・こんなタイミングか。
トイレの小窓から軒を滴る雨音が聞こえる。
あのまばらな拍手はもしかしたら、賛辞なのかもしれない。
なにかをすり減らしながら一緒にいた彼と私への。
そうであって欲しい。
私はトイレを後にして丁度良く熱の冷めた布団に潜り込み、ごくゆっくりと瞼を閉じた。
これからもずっと梅雨になる度に蘇るであろう侘しい記憶。
拍手に混じり、波の音が膨張して聞こえる。
私を憎んで傷を癒そうとした彼の眠りも、また穏やかであって欲しい。
そう望むことなら、まだ私に許されていると思うのだ。
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