湯気の時間


 まだ娘がお腹にいた時。

私は臨月間近で、それでも通っていた派遣先の工場に行く日だった。

 その朝は、母と妹が喧嘩をしていて、それを止めようとして食って掛かられたのだった。お前にそんな事を言われる謂れはないと。

ろくでもない男の子どもを身籠って、家族に迷惑をかけているどうしようもない自分が痛い程わかっているだけに、かなりショックだった。

 気付くと、仕事の支度をして家を飛び出していた。

駅まで歩きながら、何とか悲しいのをやりきろうとして歌をうたった。だのに、口から溢れるのは何だか悲しい切ないような歌ばかりで、その歌詞の所々で思わず泣き出しそうになる。

あまり不安な気持ちになってはいけない。早産の恐れだってある。それでなくても無理して働いていたのだから。

 お腹の娘に言い聞かすように話しかけて、私は毎日朝6時に起きて、夕方17時まで工場で立ち仕事をして出産費用を貯めていた。

 時折、電車に乗っている幸せそうな旦那連れの妊婦を横目で見ないようにして、満員のバスに揺られながら、お腹を隠すようにして、雨の日も雪の日もせっせと携帯電話を作る工場に通っていた。マタニティライフ満喫どころの話ではない。

 情けない事には、お金がなくて、検診も月に一度しか行けなかったのだ。それでも、働けるだけ働いてお金をなるべく貯めておこうと、休みもせず、遅刻早退もせず、ひたすら娘と2人頑張っていた。

 ところが、その朝はどうしても気持ちが回復しなかった。

 箍が外れたように、次々と色んなことが数珠繋ぎに浮かんできて、私の気持ちをどんどん深く落とし込める。呼吸が浅かったのか、頭が酸欠のような状態になり、お腹に微かな痛みを感じた。娘が心配したのか、不快に思ったのか、何回かお腹を蹴ってくる。

 私はとうとう蹲ってしまった。空は晴れていたのだろうけれど、真っ黒な雲が幾つも化け物みたいに勢いよく駆け抜けていって、辺りは日が射していたかと思うと、突然暗くなったりするような天気だ。おまけに肌寒かった。私は急いで、工場と派遣先に電話した。

 無理だと思った。このまま行ったらきっと酷くなるし、危ない事になると思ったのだ。

 電話を切って、今日一日分の責任がなくなった軽さで、少しだけ気持ちが楽になった感じがした。けれど、家に帰っても母と妹がいる。今日は2人共休みなのだ。帰りたくない。

 だから、いつもの路線で反対方向に向かう線に乗った。

 毎日乗る線なので車輛は同じなのに、ごっとんと田舎の列車のように長閑にゆっくりと動き出した私と娘を乗せた電車。

 穏やかな速度で徐々に山の方に向かって行く。

 縦長の眩しく薄い黄色な光の四角が、汚れた車両の床に映し出されて緩やかな速度で動いては、また巡って来るのを眺めながら、安堵の深呼吸をした。

 車室の中の乗客はまばらだ。白い毛糸のニットキャップを被り、小豆色のカーディガンを着た丸まった背の老婆が、埃がきらきら舞っている車窓から差し込む暖かい日差しの中、目を閉じて杖に寄り掛かりながら座っている。

 数人の学生達が戯れている。顎のニキビを気にする垢抜けない表情に制服の着こなし。

 私は、ほっとした。

 ここには、この中には、私がお腹を大きくしていることを気にする人も、それを悲しむ人もいない。その上、この時間に私がこの電車に乗っていることを咎める人もいないんだ。誰にも遠慮しなくていい。

 私は、窓の外に映し出されては流れていく山だの、錆びれた町だの、投げやりな畑だの、朽ち果てそうな民家なんかに目を向けてしばらくその自由を噛み締めた。緑が多かったのが、一層非日常気分を盛り上げた。

 このまま乗っていたら、山梨に行くんだろうな。それも悪くないけど、生憎手持ちがそんなにない。どこで降りようか思案していると、気怠そうな男性の間延びしたアナウスが聞こえてきた。

「えー次はー永和湖ー 永和湖ー お降りのお客様はーお忘れ物のございませんよう、お気をつけくださーい」

 聞き覚えのある名前。友達だったシングルマザーの人に、以前ドライブに連れて来てもらった湖だ。

 降りようと思った。張っていたお腹は、だいぶ楽になっていた。

 自動改札が却って目立つような古い改札を抜けると、駅前に立っていた落書きだらけの錆びれた地図で、湖のだいたいの方角を定めて歩き出した。駅前商店街ロードと名打たれた通りに点在する店は、忘れられた記憶のように閉まっている。すりガラスを覗いてみても、薄暗い店内に人の気配も商品の気配もなく、閉店なのか休業なのか、準備を意味するのかはわからない。

 降り注ぐ紫外線が眩しくて、私は鞄から帽子を取り出して被った。道は急勾配になり、私は小道を見つけて入り込む。どうも騒々しい車が行き交う道路は苦手だ。古びた人家を横目に、犬に吠えられながら進むと、いきなり目の前が開けた。

 青緑色に反射しながら横たわる湖が広がっていた。

 光を蓄えた湖面が、ちかちか輝いている。

 斑なくきれいに染まった青い空には鳶が一羽。自慢のソプラノを高くたなびかせて旋回しながら飛翔している。

 私は、色とりどりの白鳥ボートやクジラ船が繋いである湖畔まで歩いて行き、静まり返った湖面を眺めた。打上げられたゴミだらけの汚い砂地に小さく寄せる波が時々控えめな水音をたてる。少し離れたところに、ボートに乗った釣り人がいて、竿を引いてまた投げる水音がたまに微かにする。海と違って波がなく、水が溜っている巨大な水溜まりみたいなものなので、奇妙に静かだ。

 どのくらいそうしていたのだろう。気付くと、もう昼を回っていた。

 私は弁当を出して食べ始めた。軽くピクニック気分である。

 鉄分を気にして自分で作っているレバー弁当も、心なしか少し違った味がする。


『どうして、そんな人の子どもを産みたいと思ったの?』


 湖面を眺めてご飯を咀嚼している時、本当に不意に記憶から台詞が飛び出してきた。

 以前シングルマザーの人に聞かれたのだ。私は何と答えたんだっけ?

 覚えていなかった。たぶん、適当な言葉が見つからずに、なんとなく誤摩化したのだと思う。妊娠してから、ただ我武者らに働いて、いつもお金のことしか考えてなかった。だけど、私はその後、会う人会う人にこの質問をされることになったのだ。

 みんな、私のこの境遇が興味深いのかもしれない。だけど、いつも曖昧にしか答えられなかった。

 小さな命を守んなきゃと思ったからとかなんとか・・

 いかにも大義名分に聞こえるかもしれないけれど、自己勝手な我が侭なのだろう。或は、そうあって欲しい願望。どちらにしても、陳腐過ぎて言葉にしたくなかった。『そんなこと、聞かないで』私は心でそう願う。

 その日は一日、湖畔でぼんやりして時を過ごし、夕方頃に渋々引き上げた。

 仕事帰りらしい乗客で混み始めた帰りの電車の窓には、夕焼けが潰れた蜜柑みたいに大きく膨らんで滲んでいる。

 じっと眺めていると、この心細い時間の速度がだんだん遅くなっていくように感じる。

 娘がお腹を蹴った。私と娘だけの孤立された時間。



「どうしたの?」


 ボートの渕から、湖面の石油のようにもったりした青緑色の水を見つめていた私は、我に返った。

 顔を上げると、反射した光の網の模様に上半身を染めた彼が、オールを止めて眼鏡の奥から私を見ていた。

 そうだ・・ここは、今・・

 私は彼と永和湖に来て、手漕ぎボートに乗ったのだ。

 湖面を漕いで行くうちに、そんな記憶が、湖面に所々吹き出している泡みたいなものになって浮かんできた。

「ううん・・別に」

 首を振った私は再び湖面に視線を落とす。乱反射して輝く不透明な青磁色をした水中には、枯れ葉や小枝がどれも直立不動で、波紋さえ起こさずにひっそりと浮いている。死体みたいに。ボートが起こすさざ波と、オールが描く半月型の模様が湖面に広がっていく。

「あそこ、なにかしら?」

 私が指差す奥まった場所へと、彼は進路を変えた。

 近付いてみると注連縄が張られた巨大な岩がそそり立っていた。

 湖の守り神だろうか。太陽が完全に遮られ、清々しい密度の濃い空気が私達の肌を冷たく撫でた。

 私達は、その岩を見上げていた。切り取られた空から、燃えるように色づいた紅葉が覗いている。

 彼がおもむろに漕ぎ出し、私達は洗礼でも受けたような面持ちで、注連縄から遠ざかっていった。

 ボートの両側に三日月を描くように、オールは雫を規則的に湖面に落としながら水をかいていく。落ちた雫は丸い輪を幾つも描いて、どこまでも、どこまでも青磁色の湖面を広がって伝わっていく。振り向くと、私達が通った痕は消えるでもなく、ただ広がり続けている。

 彼は、オールを放すと、眩しそうに目を細めて遠くを眺めている。

 お腹に娘を抱えて仕事をさぼって来たあの時には、再び誰かとここに来るなんて想像もできなかった。時間は確実に流れているのだ。

 あの永遠に頼りない2人ぼっちだと思えた孤独な時間は、湖面に描く模様のように広がって過ぎ去っていったのだ。そして、その上にまた幾つもの雫が静かに落ちては、新たな波紋を作って、そうして時間は重なっていく。


「インディアン・サマー」


 ボート係のおじさんが呟いていた。

 まったくその通り、風もなく素晴しい晴天だった。彼の眼鏡が光り、その奥の目が見えなくなった。

 12月とは思えない強い太陽熱で温められた湖水が蒸発して湯気になっていくみたいに、彼の周りが微かに揺らいで見えた。湯気になって空中に昇っていったのは、もしかしたら私の冷えきった過去だったのかもしれない。

 彼が煙草を取り出して、ライターで火を点けた。


「今日、俺たちだけでボートに乗ったって言ったら、あいつきっと、怒るだろうな」


 娘は今日も小学校に行っている。

 彼は景色を眺めながら、のんびりするねと言って、ふと娘の事が気になったらしい。

 血は繋がっていないが、彼と娘は仲良しだ。どこか相通じる所があるらしかった。

 不思議な我が家。当事者の私達にしか理解できない。

 出掛けに干した、竿になびく洗濯物から、一斉に立ち上る活気ある湯気を思い出す。

 冷たい水分が蒸発していくと、カラッとした着心地のいい服が残る。

 いつかきっと、私の奥底を湿気って濡らしている過去が蒸発してしまう時が来るのだろう。その上に、3人で新たな雫を落としていきたい。できるだけ長い時間をかけて。

 私は娘の顔を思い浮かべて、彼を見た。

 彼は煙草の煙を纏いながら、オールの先を日光のあたった水が通り過ぎる様を眺めていた。それは分離した油の玉のように、大小不揃いにオール先を通過して流れていく。ボートは動いているのが気のせいかと思うくらいの鈍さで進んでいた。

 彼は揺れる板底に不安定に寝転がって、目を閉じた。私も目を閉じる。

 湖面は豊かな沈黙を守っていた。

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