幻影の絵の具箱
御伽話ぬゑ
熟れた種
夜が空ける。
白い太陽がビル街から顔を覗かせて、見つからないように踞る惨めなあたしの姿を透明な空の下に引き摺り出す。
新鮮なプリズムにも似た朝の光に、きつく瞑った瞼の裏側までも貫かれる。
夜に蟠った憂鬱や性欲や悪夢なんかが混ざった得体の知れない粒子に濡れている鼠のようなあたしの醜態。
・・・死んじまえ。あたしなんか。
どうして自ら売春の真似事をしていたのかと聞かれても、明確な答えはない。
なんとなくだ。
なんとなく、そうせずにはいられなかった。
自分を汚して貶めなければいけないと、どこかで思っていたのかもしれない。あの頃のあたしは、自分に興味がないように、世の中や人のことなんてもっとどうでもよくて、世界を斜に見ていたのだと思う。
あたしが見ていた世界には線が一本だけ引かれている。性欲という一線だ。
どんなに親切なヤツも、その一線を越えるとあたしの中の価値は消滅する。
残るのは侮蔑だけ。
死ね、大嫌い。でも、
一番大嫌いだったのは、そんな価値をいちいち試すみたいなことをしているクズみたいな自分だった。
寂しかったのかもしれない。
あたしには、ずっと信用していた彼がいた。と言っても、先輩と寮の同居人の間柄だ。
お互いに似たような性格で、同じ血液型と一日違いの誕生日。兄弟とも仲間とも思える近い関係だった。
彼はあたしを妹のように気にかけ、あたしのピアスを開けたのも彼だ。2人だけで過ごした時間は多分誰より多い。あたしにとって一番気心が知れて楽な相手。それなのに、
彼は上司から手を出すなと釘を刺されたからと律儀にそれを守っていた。
別に彼と恋愛関係になりたいと思ったことはなかったが、このまま自然の流れで付き合ったってなんの違和感もないくらいで、むしろ、彼以外にそんな相手はいなかった。
どうなっても後悔はない。だけど、彼は違った。
酔っぱらって一緒にベッドに入った時でさえ、決して手は出さず、飲酒運転でどこかに行ってしまったのだ。
悲しかった。ただひたすら。
友達以上恋人未満だと勝手に思っていたのはあたしだけ。彼にとってみたら仲間でしかなかったのだと思う。
そんな彼が選んだ相手は、当たり前だけどあたしじゃなかった。
ある夜、玄関には白い華奢なサンダルがあって、彼の部屋の前には仲良く並んだスリッパ。
それを目にした瞬間に、もったりと重苦しい憂鬱な液体があたしの中に瞬時に満たされた。
泥水を詰めた風船女は、別に悲しくはならなくて、へーそうなんだぁと思っただけ。けれど、
居てもたってもいられなくて、同じ場所にいたくなくて、逃げ出したくて、あたしは片っ端から電話をかけた。
そうして繋がった男と会って寝た。
同じことをして、仕返しのつもりだったのかもしれない。
誰に? 彼に?
無駄な抵抗。ほんと無駄だ。でも、そうせざる負えなかった。
そうしなければ、どうにも納まらなかった。
彼に拒否されてしまったあたしは。
熱りも冷めやらぬ出来事だったから余計だ。
彼は、あたしをどうしても、拒絶する。
そして、あたしは暴走して自分を傷つけて、汚す。
汚して、価値をなくす。確認でもするみたいに何度も何度も。
酔った勢いで行きずりの男と寝て、始発の電車に乗って、見慣れた駅に降り立っても、そのまま真っ直ぐ寮に帰る気になれず、送電鉄塔が見渡せる桜の巨木が植えられた近くの公園で、朝までぼんやりとブランコに乗って時間を潰した。
暇なあたしには、時間ばっかりいくらでもある。
とっくに冬の気候なのに、朝日を拝む迄そんな事をしていたので手足が寒さでかじかんだ。
あーぁ。馬鹿らしい。
そこまでして、嘆いていることをアピールしたいのか。一体誰に。
自分だろうな・・・
わかっているくせに。屑みたいな行きずりのセックスばかりしてたくせに、本当はただ寂しくて誰か一緒にいてくれる人を求めてばかりいるんだ私は。
意思の弱いくだらない男。くだらないセックス。くだらない私。
高架線の下にあるスプレーの淫乱な落書きみたいな。
寂しいのと虚しいなにかが混ざった種のようなものが体の中にあって、それを何とかして発芽させないで蛆が涌いてもいいから腐らせたかったのかもしれない。
セックスをした後は、必ず1時間程ずっとシャワーを浴びている。
ずっとシャワーを出しっぱなしにして、いくら体を擦ってもベトベトした何かは取れない。種は一向に腐らないどころか増々栄養を溜め込んでいるようだった。
なんの栄養?
最近は拒食症が悪化してきて、食べても吐いてばかりで、ほとんど栄養なんてないはずなのに。
上手くいかない現実に悲観して、嘆いて、自分を痛めつけてばかりのあたし。
本当に好きな気持ちなんかわからないし、好きだったとしてもそこから先になんてどうやって行ったらいいかすら知らないくせに。
どうしようもない悲劇のヒロインだ。馬鹿らしい。
だから、誰も一緒にいてくれないんじゃないのかって事すら気付かずに。中途半端な自分の心。それだから私なのに、有りもしない種が発芽しようとしている。
発芽したら、自分が今より良くも悪くも何か吹っ切れるのだろうか。なんて。
痛い目みて後悔したら、やっとどういう事なのか本当にわかるんじゃないかって。
頭悪い自覚はあるから。でも、寂しさの穴は広がっていくばかり。
どうしようもない。
そんなあたしを放っとかなかった男がいた。
あたしがやっていることを知りもしないで、あたしを好きになって犬のように尻尾を振って、どこにでもくっついてくる上司の息子。
あたしは、発情犬だとバカにした。
どーせやりたいだけだと、軽蔑して相手にもしない。のに、彼への煮え切れない気持ちを上手く種に変換できなかったあたしは、犬男の押しに負けて寝てしまい、そこからは泥沼だ。
犬は好きじゃない。
爽やかで嫌いな顔。優しくて嫌いな性格。がっちりとした嫌いな体型。ギャンブル好きの嫌いな趣向。付き合いたい要素なんてなにのに、何度断っても何度でもしつこく告白してくる。
「好きになることは有り得ない」と断言しているにも関わらず、諦めない。
「好きにさせてみせるから」と自信満々。終いには親である上司からの圧力があり、職場を首になりそうな危機を感じたため、渋々付き合うことになってしまった。
あたしの意見は、終始蚊帳の外だ。
いつも、いつも、いつも。
あたしは、望んでいない、同意してない、やりたくない、付き合いたくない、好きじゃない、嫌いなのに!
どいつもこいつも、いつも勝手にあたしの身の振り方を決める。
あたしの人生なのに、勝手に手回しをしていく。
ふと、思い至った。彼に手を出すなと命じていたのは、近いうちに来る息子の相手として、あたしを取っておきたかったからなんじゃないか?
そう考えたら、もう誰のことも信用できなくなってきた。
あたしは、好きな人に片思いして生きることすら許されないのか!
死ね死ね死ね死ね!
あたしの価値なんてない。
外側の体だけあれば満足なんだ。そんなもんくれてやる!好きにしろ!
でも、あんたらは興味ない、あたしにとっては一番大切な心だけはやらないから。
ろくでなしの彼にしかやらない。
あたしは貢いで尽くしてくれる犬男を利用した。
無駄に贅沢しまくった。少なくとも寂しさは埋まるような気がする。
代償はセックス。
この世で一番低俗な快楽を生むだけの機械的な営みを犬男は求めた。
気持ち悪くて吐気がする、おぞましい。くだらない。死ね死ね死ね。
相手が彼だったら違ったのだろうかと夢想することもあるけれど、恐ろしいくらいなにも浮かばない。
もし、彼とセックスをするようなことになったら、あたしは彼のことも軽蔑して見下していたのだろうか。
わからない。
今となっては、わかりようがない。
勤めていた店が閉店して、彼とも音信不通になり、何もかもを犬男に頼り切っただらし無い生活が半年目に突入しようとしていた。
あたしの体に変化が現れ始めたのだ。
あたしは相変わらずほとんど食べていなくて、食べてもまだ吐く事が止められない。いつまでもそんな事をしていたので体調はぐずぐず崩れて、貧血にはなるし生理不順にはなるしで滅茶苦茶になっていた。
そんな女を犬男は求め、セックスも頻繁にではないがある。
毎日気分が悪く、意識が遠のくように寝て起きて又寝るのを繰り返した。
気分が悪い。
私はこのまま腐っていくのかなぁ・・・
気分転換に出たコンビにで、商品を選んでいる間に徐々に気分が悪くなり、貧血のような目眩と共に立っていられなくなった。
無性に吐き気が競り上がってきて出る物なんてないのに発作のように止まらない。
夜の明るい街の風景が、まるでメリーゴーランドに乗って回転しているように見えて船酔いをしているようだ。
翌日、犬男は仕事帰りに妊娠検査薬を買ってきた。
「一応やってみて」
「何で?」
「可能性としては有り得なくない」
やる気なく受け取りはしたものの、全くそんな事を思ってもなかったあたしは混乱していた。
やりたくないと散々ごねて男に諭されてやっとトイレに入ると、恐る恐る検査薬に尿をかける。結果は、
陽性だった。
一遍にパニックに陥る。
こんな事に、こんな事になるなんて!
男は検査薬を受け取って、静かに眺めていた。
「明日、俺休みだから病院に行こう。そうすればハッキリとわかるでしょ」
「嫌だ。行かない」
「行くよ。連れて行くから」
「行かない!触んな、変態!あっち行け!」
行きたくなかった。
ハッキリとわかりたくなかった。
なにかの間違えであって欲しかった。
翌日、犬男に連行されて連れて行かれた産婦人科は、昔からの病院だったらしく薄暗くて陰気な所だった。
古いビルの一階に病院名の書かれた小さい錆の出始めたプレートがかかっていて、その下に大きなガラスドアがあり、押して入るとひんやりと暗い待合室になっている。恐らく蛍光灯も点いていただろうし、窓もあったのでそんなに暗くはなかった筈なのに全体が薄暗く見えた。
受付の中と、玄関のガラスドアから差し込む光だけが明るい。
あたしの向かいに、お腹の大きな中年っぽい女性が座っていた。
引き続き気分が悪く、開いているのもしんどい目に何もかもが非現実な世界に映る。
どうしてこんな所にいるのだろう?
こんなのきっとなにかの間違いだ。間違いであるはずなんだ・・・!
「帰る」
いくらそう言っても、犬男は返事をしない。ただ前を向いて唇を噛みながら座っていただけ。
シカトかよ。
いつになく威圧的な態度の犬男は、逃げ出そうとするあたしの手を無表情で強く握っていた。
嘘嘘嘘。こんな現実、嘘に決まってる。
予約なしに行ったせいで恐ろしく待たされ、有無を言わさず帰ろうと立ち上がったタイミングで名前を呼ばれた。
行きたくない。
わざと返事をしないあたしの代わりに、犬男が返事をした。
引きずられるようにして診察室に押し込められて、おっかなびっくり下半身を剥き出して診察台に乗り股を広げる。見知らぬ男の前で曝すのは平気なくせに、どうして怖いのか。
ふと近くにあった小さなモニターを見ると、前の人のお腹の中のよう子らしいきものが残っていた。
モノクロ画像だったので何んだかよくわからなかったが、断層面のようなものの中央に歪な勾玉のような小さな黒い物があって、さらに、その勾玉の中心に白いなにかが写っている。
赤ん坊のもと・・?
もし妊娠していたら、あんな感じなのかと思っていたら大間違い。モニターの大部分を占めて写り込んだ自分のそれは、子宮かと思う程大きかった。
「ご覧の通り、間違いなく妊娠してます。もうすぐ3ヶ月になりますから、もし中絶するんでしたら急がないと出来なくなりますよ」
奈落の底に突き落とされた。
逃れようもない現実。
しかも自分の体の中に起きていることだ。
部屋に帰ると男が呟いた。
「・・・結婚しよう」
冗談じゃない。
こいつとの結婚なんて考えられなかったし考えた事もない。
そもそも、付き合ってもないのに体を求めてきコイツを、軽蔑していたコイツを、親の圧力をかけてきた卑怯なコイツを、あたしの気持ちなんてお構いなしのコイツを、あたしは、許せたのか?
どんなに尽くされても、この男を好きになれない自分がいる。
常にいる。
こんなもの、恋愛なんかじゃない。
義務に近い。
コイツにとってもそうだ。
父親に協力してもらって落とした女だから、大切にする責任があるから。けど、こんなことになって、もう限界だ。
コイツのゴムをつけなくても外出しすれば大丈夫っていう考えがそもそもおかしいし、毎回気持ち悪い。だから、こうなった。コイツのせい。
全部コイツのせいじゃん!
あたしは、セックスなんてしたくない。子どもなんて欲しくない。
このままコイツと一緒にいたら、あたしは、自虐のような売春より何倍も損なわれるばかり。
いくら金を出してくれて、楽だろうと、何かが違う。
嫌だ。
あたしは、コイツと結婚なんてしたくない!
プロポーズを無視して中絶すると喚いた。
まだ20を過ぎたばかりなのにこんな所で人生が決まりたくない。
下ろしてこの気持ち悪さから解放されるなら一刻も早く手術したい。
混乱と怒りをない交ぜにした感情を投げつけ喚き散らすあたしを、捨て犬のような悲しそうな目で見つめた男は中絶手術の予約を取った。
当日、手術室に入り、中年看護婦に怒濤の如くパンツを脱がされ、手術台に手足を縛り付けられながら、不安が沸き上がってきた。
手術室は寒くもないのに石油ストーブが真っ赤な炎を煌々とさせて炊かれている。壁際には鋏以外は何に使うのか不明な形をした器具がぎっしりと詰まった大きな硝子戸棚があり、隣にはタンポンやナプキンがはち切れんばかりに詰まった籠があり、ホースの先端が掃除機の隙間ノズルに似た機械が待機。見上げると、大きな手術用のライトが情けなく開脚するあたしをじっと映し出し、股の下には大きくて、やけにピカピカに磨かれた洗面器が、照明を反射して眩しく輝いている。
少しして、強力な麻酔をたっぷり注射された。
頭がぼやぁーとなって、後は夢をみているような状態に陥る。夢は夢でも、とても嫌な夢だ。
眠っているのではなく、夢の中にいる状態なので、ぼんやりとした映像の中、中途半端に意識はある。
医師や中年看護婦が言っている事も聞こえているはずなのに、曖昧でハッキリせず、けれど聞かれた事に返事はしている妙な状態。目を開けているのかいないのかも判らず、回転するジェットコースターに乗っている時に似ている。
吹き飛ばされそうなのに、惨めったらしくしがみついている。
生きたいからか。
そんなに生きたいのか。
意地汚い自分。
よく考えてみれば、この胎児は種だった。
投げ遣りな気持ちで生きていたあたしが溜めた栄養を吸収して、こんなに大きくなったのかもしれない。
今までのあたしの、鬱憤や怒りや憤りや悲しみや憂鬱の権化。
種が発芽したんだ。
発芽して育って、あたしを、あたしの存在を証明しようとしている?
だけど、こんな形でなくて良かったよ。
あたしは、アイツから決定打なんてもらいたくなかった。
アイツがあたしに熱心になればなるほど、あたしを大切にすればするほど、あたしは辛い。
時間の無駄なんだよと教えてあげたい衝動に駆られる。
彼への気持ちが叶わないあたしは、1人で彼を想って自由に生きていたいだけだった。
それだけなんだよ。
そっとしといて欲しかった。
少しすると、鈍痛が下っ腹を襲う。
生理痛の一番辛い日のようだ。そこからは、痛みを堪えるだけに集中し、気がつくと、手術は終わっていた。
あたしの熟れた種は摘出されたのだ。
それから、あたしは犬男と離れるために引っ越しをして、別れた。
いや、正確には離れたりくっ付いたりしていた優柔不断なあたしに愛想を尽かせたアイツが、他に女を作って、2人でいる現場をあたしが目撃したことにより、正式に別れる流れとなったのだ。
これで良かった。
もっと早く、そうすればよかったのに、寂しさが先行して踏み切れなかった。
最後の最後で潔く別れられなかったのは、あたし自身。
散々、罵ってバカにしておいて、不満ばかり感じて心を開かないでおいて、往生際が悪い。
言っていることと、やっていることが矛盾している。
こうして、望んでいたことが実現したのに、寂しさを感じている。どこまで自分勝手な女なのだろう。
アイツのことなんて、好きでもなんでもなかったくせに。
アイツは、優しくて従順なだけが取り柄の男だった。
優しさ故に昔付き合っていた女の愚痴までご丁寧に聞き続けていて。バカみたいだ。
アイツはあたしと付き合うことで、あたしのように自分を傷つけたり、損なったりはしなかったのだろう。
あたしは、育っていた種を握り殺した。殺したのだ。
意味もわからず、ただ望んで、手に入れたのは人殺しという事実。
流産にもならない初期の段階で、人殺しなのだと泣いていた友達を思い出す。
あたしは彼女の言っていた人殺しを自ら望んでやったのだ。しかも積極的に。
まるで悪性の疣でも取り除くみたいに簡単に。
若さ故の傲慢と、我が侭と、孤独を埋めようと必死になって、挙げ句、小さな命にそれを強要してしまった。
発芽させて初めて後悔が生まれ、取り返しがつかないことを知る。
殺された種はあたしの中に溜まっていたコールタールみたいな汚れを全部吸収して、死んでいった。
ごめん・・・
誰にともなく謝罪の言葉が突いて出る。
結局、忌み嫌っているセックスに寄りかかっていたのは自分だった。
愛のない行為で寂しさを誤摩化して虚しさを埋めようとしたんだ。
その代償がこれ。
あたしは変われるのかなぁ。やめられるのかなぁ。
この寂しさが埋められる日がくるのかなぁ。
わからない。
だから、決意もできなかった。そんな自分が不甲斐ないのはわかっていても。
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