第10話

「郵便でーす」


 配達員から店先で郵便物を受け取ると、雨のせいで湿った紙類が申し訳無さそうにお辞儀をする。郵便物を受け取るのは、僕の楽しみの一つだ。わずかな期待を持って、数通の手紙の差出人を確認する。

 絢!

 その差出人が目に止まると、思わず顔が緩んでしまう。そして、絢からの手紙をそっと襟から胸にしのばせた。

 4月に二度目の帰省を済ませ、また一つ歳を重ねて僕は九歳になった。梅雨も終わりに近付いたというのに、絢の名前を見ただけで、数ヶ月前の花見の楽しかった時間が瞼によみがえる。

 胸に手を当て、懐の中の手紙の温もりを感じ取ろうとする。

 夜、寝る前にゆっくり読もう。そう思うだけで、仕事にもやる気が出る。

 絢の手紙はいつも何気ない日常を長々と綴ったものだ。でも、それは小説を読んでいるかのように僕の気持ちをワクワクさせた。

 そして、今回の手紙には、嬉しい報告も書かれていた。姉の真子まこと絢の二番目の兄である春次郎しゅんじろうが正式に婚約したとのこと。そして、その後、春兄は予定通り料理の修行のため、奉公へ無事に旅立ったそうである。

 何気ない日常の中で、愛する人達それぞれが自分の道を一歩ずつ進ませていることを、自分のことのように嬉しく感じた。

 そして、僕もこの春から、半日で往復できる距離の配達を任されるようになった。今のところ、体調に問題もなくこの配達もこなせている。

 体が丈夫になり、もしかしたら、かなり長生き出来るのではないか、と将来を描いてしまう自分もいる。

 まだ、絢は十歳で恋や愛が分かっているかも怪しいのだが、もし、絢がそれを僕に求めてくれる事があるならば、きっと夫婦になりたいと思う。それが、今の僕の夢かもしれない。

 そんな事を考えながら、今日も朝からあるお寺への配達に出ている。今日も相変わらずの雨で、背負った荷が濡れないように傘を慎重にさしながら、先を急ぐ。

 配達を終えた帰り道、雨脚が強くなったため、通りがかった農家の小屋の軒先で雨宿りをした。腰に付けた竹筒から水分を補給し、喉を潤す。


「それは、できませんねぇ」


 突然、背にした小屋の中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 開け放たれた小さな窓から恐る恐る中を除くと、こちらから見えた横向きの姿がドキリと心の動揺を招く。

 背は高く、長い黒髪は後頭部の高いところで一つにまとめられている。右の目が殆ど隠れるほど長い前髪を左から右に流している姿。

 その声の主は……桜太郎おうたろうだった。  

 桜太郎と向かい合っているのは、見た事のない人物だ。ニヤリと右だけ上げた口角が不気味な雰囲気を漂わせるその男は、桜太郎にグイと近付くと彼を上目使いに見上げて言う。


「ちょっと傷つけて、動けなくしてくれたらいいんだよ。報酬は弾むぜ」


 攻められても全く動じない桜太郎は、その男をギロリと見下ろし、両腕を胸の前で組み直しながら声を殺しながらも怒りを込めて次を言い放った。


「人の命を奪うことと、女に手を出すことは趣味じゃない、覚えとけよ! 逆にそれ以外ならなんでもやる。貰えるものをしっかり貰えるならなッ」


 桜太郎は、言い終えると正面の男の胸ぐらを掴み、容赦なく床に突き飛ばす。しばらして、そそくさと立ち上がった男は、かなり不機嫌そうだった。


「ちぇっ、腕はいいって聞いたんだが、とんだ検討違いだったぜ」


 桜太郎にひとつ睨みを効かせると、そのまま男は立ち去った。

 それを見届けた桜太郎も「フッ」と鼻から息を短く出すと、戸を開けて傘をさし、小屋を出て行った。

 一方で僕は、桜太郎が小屋を出て行こうとするのを察して、慌てて窓の下に息を潜めてしゃがみ込んだ。

僕はしゃがんだまま、ニ年前のことを思い出していた。薬屋手結之助くすりやたゆのすけに奉公に来てからひと月程経ったある日、桜太郎が店先に現れた時のことだ。

 桜太郎は、月に一度店に顔を出す。北の土地に薬を運ぶ仕事を店主の緑助から任されているためである。

 その日も桜太郎は、その仕事のため北への薬を受け取りに来ていた。

 緑助に桜太郎を紹介されると、僕は直ぐに彼に駆け寄り、あの事件の日について謝り、そしてお礼を言った。

 呪い持ちの姿で記憶がなかったとはいえ、桜太郎の肩を傷付けてしまったことを謝まった。また、呪い持ちの変貌した僕の呪いを術で治めてくれ、さらにはこの右腕の染め紐を譲ってくれたことにお礼を言いたかった。


「人は人殺しにはならない方がいい。ただ、それだけだ」


 その時、桜太郎はえらく真面目な表情で僕にそう告げた。

 ———そして、先程も桜太郎は、同じようなことを言っていた。


 『ひとの命を奪うことと、女に手を出すことは趣味じゃない』


 これは、彼の前世の受け売りなのか。

 彼の前世は、僕の呪いの対象である義父だ、と言うことは分かっている。分かっているが、義父も桜太郎と同じ事をよく言っていたのだ。


 人殺しはしない。

 女には手を出さない。


 その気持ち悪い程の一致に思わず身震いが起こる。自分の腕でその震えを抑えようとする。


「何をそんなに怯えてんの?」


「ぎゃッ」


 急に横から声をかけられて、思わず後ろに倒れそうになる。いつからそこにいたのか、桜太郎が僕の隣にしゃがみ込みこんで、こちらを覗き込んでいた。

 窓から覗いていたのがバレていたのだろうか。


「なんで……? なんでなんです?」


 覗きがバレていたと分かれば、聞かずにはいられなかった。

 僕には一つの疑念が頭を過っていた。


「は?」


「人殺しと女性に手を出さない、って……何処から来たんですか? なんで、そんなこと思うんです?」


「……」


 桜太郎は、驚いたように目を見張って僕をしばらく見つめていた。

 まさか、本当に?

 何かを言いたげなのに、言葉にできないでいる彼に、疑惑が益々増していく。


「まあ、落ち着け」


 僕の肩に手を置こうとする桜太郎の腕をはたく。


「触るなッ!」


 反射的に言葉を発してしまう。直後に「はっ」と我に返るが、後の祭りだ。


「すみませんッ……」


 謝って、顔を伏せる。


「……」


「女は敵に回すと恐ろしい。それに、俺には人を殺す度胸がない、ただそれだけだ」


 少しの沈黙の後、口を開いて淡々と話す桜太郎の目も口調も、いつもの不真面目な様子に戻っていた。


「あーあ、お前といると調子が狂う」


 立ち上がりながら、そう言うと、おもむろに傘をさし、「じゃ、またね。桜生くん」と、背を向けたまま手をひらひらと左右に振って、彼は立ち去って行った。



 数日前から急に朝を賑やかにしてくれている蝉の声で目が覚める。

 少しはまともに眠れたみたいだ。

 目が覚めてから気付く。

 年に数回、一晩中前世の悪夢を見る夜があるが、昨晩はその日だった。寝起きの気分と体調は最悪だ。なんとか起きあがろうと右手を着くと、右手首にヒリッと痛みを感じた。


「うっ…ッ」


 痛む部分に目をやると、染め紐に沿って手首が赤く変色しており、血も滲んでいる。すると、急に先程までの夢の風景が頭によみがえる。そうかと思えば、義父の顔が目の前に迫ってくる錯覚に陥る。一気に身体全体が恐怖で覆われていく。


「ゔあああああーッ!」


 その恐怖のあまり、叫び声を上げる。身体の震えが止まらない。

 助けて……。

 お兄ちゃんはどこ?


「お兄ちゃん……」


 自身の膝を抱えて、恐怖と闘う。


「桜生ちゃん」


 柔らかな優しい声が聞こえて来たかと思うと、大きな暖かい体に包まれる。


「大丈夫だよ」


 再度聞こえたその声に体の震えが徐々に治まっていく。はっ、と気が付き、周りを見渡すと、ここが自室だと遅れて理解する。


「旦那さん……」


 安心したのか、涙が自分の頬を伝っていった。


「もう少し横になってた方がいいよ、桜生ちゃん」


「いえ。朝ですし。それに今……眠るのが怖い……ですから」


 「そっか」と言うと、緑助は僕の手首の治療を提案してきた。自室で待っているように言われたが、少しの時間も一人で居ることが不安だった僕は、彼と一緒に居間まで行った。

 緑助に治療を受けながら、今日が休業日で良かったと思った。今日は一日家でゆっくりするよう緑助に言われ、朝餉中にヨシからも同じことを念押しされる。

 それは、恐らく今日が休日で、僕がこれからやって来る二葉と、いつものように出かけてしまうだろう、と彼らが察した為に違いない。

 実際、今日は二葉と海に行く約束をしていたのだが、体調不良を理由にやんわり断ると、彼女は特にがっかりした様子を見せることもなく、一日中屋内で過ごす僕に付き合ってくれた。

 今日は一人で居るのが不安だった僕にとって、二葉の存在はありがたかった。

 しかし、二葉はどうだろう。彼女は彼女で裁縫をして時間を潰していたが、僕が自室で読書や勉強をする合間に僕とおしゃべりをするぐらいだ。特に楽しくもないだろうに。そう思って彼女に聞いた。


「いいの……。楽しいから」


 二葉は短く返事をして、ニコニコするだけだった。それで楽しいのなら……良かった。

 僕も彼女にニコリと笑って返事の代わりをすると、読書に戻った。

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