第9話

 さて、奉公に出てから一年程経ち、僕の八歳の誕生日を目前に控え、春となった。

 年一回の帰郷のため七日間のお暇をもらい、舟に揺られ、三日をかけてやっと船着場である津結村つゆむらまで帰って来た。

 生まれ育った沙都村さとむらまでは、ここからまだ二里近く歩かねばならない。舟に揺られ続けた体を少し休ませてから出発しようと、船着場側の石段に腰を下ろした。

 乗り合いの舟で、先ほどまで一緒だった五、六十代の女性が声を掛けて僕の横を通り過ぎていった。

 ここに座っていると、一年前にこの場から奉公へ立った時のことを思い出す。家族や絢たちが見送ってくれた光景は一生忘れないだろう。

 帰りの舟旅には二日間かかるため、沙都村さとむらに滞在できるのは二日間のみとなる。

 ああ、早く家族や絢に会いたい。

 しかし、この二日間が終われば、また別れなくてはならないと思うと、嬉しさと同時に心細さが体を巡っていく。

 自分で決めた道だから仕方ない。

 僕は腰を上げて、沙都へ向かって歩き出した。

 沙都村へ入るには、ひとつの橋を渡る必要がある。その橋は、上長沙橋かみながさばしといい、この村への往来者が必ず通る、大事な橋である。

 橋が見えてくると、川の流れる水の音がより鮮明になる。上長沙橋のたもとに着くと、反対側の袂にひとりの少女と見覚えのある女性も見えた。少女の方は後姿から誰かははっきり分からなかった。しかし、こちらを向いているのは、乗り合いの舟で一緒だった女性だ。

 少女とその女性が楽しそうに話し込んでいる。橋の向こう側へ向けてゆっくり歩みを進めてみると、こちらに背を向けてはいるが、その少女は決して見間違えることのない人物だと分かった。

 絢……。

 しかし、話し込んでいる絢に声を掛け辛く、橋の中腹で立ち止まり、その後姿を見つめながら、声を掛ける機会を窺うことにした。

 どのぐらいそうしていただろうか、絢が漸く話し相手の女性を橋の向こうへと見送った。それを見計らって、僕は急いで絢の側に向かう。

 何か考え事をしているのか女性の後ろ姿を見送り続ける絢は、一向にこちらを向いてくれない。僕が絢の真後ろに立ち、彼女の肩に手を触れようとしたその時、同時に絢は首だけで急にこちらを振り向いた。


「ゔわっっ」


 絢は驚いた様子で大きな声を出すと、後ろに尻餅をついた。


「やっぱり、絢だった。迎えに来てくれたの?」


「……」


 反応の薄い絢に「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」と右手を差し出そうとしたが、はっとして右手を引っ込め、代わりに左手を差し出した。

 絢は出された手に反射的に手を乗せた。そして、僕の細い腕に引っ張り上げられながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。

 しかし、絢は状況が飲み込めないのか、僕の顔を凝視するばかりだ。


「はじめは、遠くから、そうかなあーって、見てたんだけど。後ろ姿だったし、話し中だったから様子見てた」


 「ははは、ごめん」と彼女を安心させるため、笑顔で微笑んだ。


「桜生……」


「……ただいま、絢」


 僕は彼女の名前を呼び、両手を広げた。そして、伸ばした両腕で絢を抱きしめた。


「一年ぶりの絢だ」


「……おかえり、桜生」


 ひとしきり抱き合うと、僕たちは橋を後にし、自然に手を繋いで村の中へと向かった。



 次の日の昼、崖の上の桜の木の下では、ささやかながら、賑やかに宴が開かれた。

 去年は結局できず仕舞いだった———僕たち家族と絢、春兄が集まってのお花見である。

 一年前に引き起こしてしまった僕の事件の事をどうしても思い出してしまうが、誰もその事には触れなかった。ただ、皆んなの笑い声と春兄の大きな話し声が山々にこだましていた。

 この春、姉の真子まこと絢の二番目の兄の春次郎は、学校を卒業して森戸屋でそのまま働いているという話題に、僕は心の底から安堵した。


「姉さん、これからは春兄とずっと一緒に働けるんだね。良かったね、姉さん。僕も嬉しい」


 そう伝えると、姉は「そうね」と仄かに微笑むと少し躊躇いながら口を開いた。


「春次郎はね、来年の春から料理修行のために奉公にでるんだってさ」


 「ね、春次郎」と姉の真子は春次郎に顔を向ける。


「おう! でも二年間だけな。そりゃあ、桜生がこうやって頑張ってんのに、俺もやるしかないだろッ。帰ってきたら、森戸屋の料理が評判になって、益々繁盛するぞッ、桜生」


 そこでまた、皆んなの笑い声が山に響き渡った。



 春の昼間の日差しと、柔らかな風を小さな家に取り込むために、家中の窓や戸が開け放たれている。僕はその南の日差しを求めて、しかし体が冷えないよう体を風下に向け、壁に背をもたれていた。伸ばした足だけを、縁側に差し込んだ日差しに温めてもらっている。山の中からは鳥のさえずりが心地よく聞こえてくる。


「ウグイスが鳴いてくれないかな」


 ひとりで呟き、遠くで鳴いているウグイスの声を探して、耳を澄ませてみる。ふと、読んでいた本を膝におろし、違う方向に耳を澄ました。草履が駆けてくる音が聞こえた気がしたからだ。

 今日は、帰郷2日目にして最終日。明日の朝にはもうここを立たなくてはならない。昼下がりまで母のゆうや姉の真子とゆっくり家で過ごし、こうして絢が下校してくるのを待っていた。

 草履の音がさらに近づくと、その場に本を閉じて置き、外の様子を気にしながら、静かに立ち上がる。さらに、縁側から続く居間を忍足でぬけ、この家の玄関である東側の表の戸の影に隠れた。

 絢は僕の予想通り、その表の戸には見向きもせず、隠れている戸の横を通り過ぎて、南側の縁側へ駆けて行った。


「桜生ーっ」


 絢は縁側から小さな家の隅々まで行き渡るように声を張って、友の名を呼んだ。


「……」


 返事もなく、物音もしない静まり返った家の中を見渡して、様子を伺っている絢に気付かれない様に彼女の後ろへとまわる。


「わぁッッ」


 彼女の背後から大声で驚かす。


「ひゃぁーっ」


 反射的に縁側に前のめりで両手を着いた絢は、そのまま後ろを振り返る。


「大成功! びっくりした?」


「はーっ、桜生。びっくりしたよ〜」


 はははっ、ひひひっとお腹を抱えて笑い出す僕とは反対に、絢は片手で胸を押さえる。


「やられたー、もうっ」


 絢は口を尖らせて見せる。


「あやー」


 甘えた声を出しながら、僕は絢を両腕でぎゅっと抱き締めた。

 ところが、突然「あっ」と絢は何かを思い出したように我に返り、二人の体をゆっくり離す。


「桜生、森に行こう。早く早く。さっき帰りに野いちごをたくさん見つけたの。一緒に行こう、ね、ね」


 絢は僕の片手を掴むと引っ張って行こうとする。


「母さーん、行ってきます」


 母は体調が悪いと言っていたから奥で横になっていたのだろう。「いってらっしゃい」とかすかに答えたゆうの声を確認すると、二人は山を駆け降りた。

 木陰続きの山道を下りながら春風を感じて走るのは、とても気持ちが良かった。


「こんなに走っても大丈夫?」


 走りながら絢がこちらを向いた。「うん、平気」と笑顔で返す。この一年で体はかなり丈夫になった。こうやって絢と一緒に走れるのが嬉しい。息を切らしながら会話も出来る。

 上長沙橋かみながさばしの手前の森に二人で入って行くと、先客がいた。さらに残念なことに、野いちごの実は殆どが摘み取られていた。


「そいつとグズグズ来るから、もうないぞ」


 それを言い放ったのは、煌士こうじだった。引き連れた他の二人よりも体がひとまわり大きい。絢より一つ年上の彼は、この村では一、二を争う土地持ち権力者の息子四兄弟の末っ子だ。


「でも、これだけは、絢にやる。桜生こいつには、やるなよ」


 絢に近づき、煌士の片手分の野いちごを渡した。1センチほどの小さな赤い実が絢の両手にこんもりのせられた。甘酸っぱい匂いが僕たち二人の鼻を満足させる。


「お前には、これだ」


 他の二人が思い切りこちらに向かって松ぼっくりを投げつけ、次々に僕に命中させる。見かねた絢が「煌士っ」と叫んだ。


「もう、それぐらいでやめとけ。行くぞ」


 煌士は目を細めて僕を睨みつけ、次にチラッと絢を一瞥すると、最後にもう一度「行くぞ」と言って他の二人を引き連れて去って行った。


「なんで、煌士はいつも桜生にあんなことするんだろう」


 絢はそう言ったが、その理由は考えなくても分かる。今に始まったことではない。絢の近くに僕がいるのが目障りなんだろう。


「あーあ、残念。私は桜生と一緒に摘んで、一緒に食べたかったのに」


 絢は「一緒に」というところをニ回とも強調した。


「でも、ほら見て。煌士ってば、手が大きいからさ、こんなに野いちごくれたよ」


 「食べよ」と絢は尻餅をついたまま座り込んでいる僕の隣にちょこんと腰をおろし、両手にのせた野いちごを僕の顔の前に差し出した。


「でも煌士君は摘んだ苺全部、絢にくれたんじゃないのかな。最初からそのつもりで。だって、この野いちご、茎にすごいトゲがあるから摘むの難しそうだし」


 「よかったね」と絢の方に頭を傾けて絢の顔を覗き込むように笑うと、後ろで一つに束ねられた長い髪がそれに続いてサラリと僕の肩を滑り落ちた。

 すると、絢が「きれい……」と呟いたが、僕も野苺か赤く宝石のようで綺麗だと思い、「ふふっ、ほんとだねー」と笑った。

 そして、空を見上げて、春の森の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。



 その日の夜。


「こんなに伸ばしたのは初めてね。こうやって束ねてると益々父さんの髪にそっくりよ」


 母のゆうは、そう言いながら僕の一つに束ねたままの髪を何回か手でなでた。父の髪とそっくりだと言われると、会ったことのない父との繋がりが出来たようで嬉しくなる。

 一年前に約束した通り、一年間で伸びた髪は母によって肩までの長さに切り揃えられ、明日の出発準備は整った。


「また、一年後ね」


 母は僕の背後で短くなった髪を櫛で梳きながら言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る