第7話
その日は、ヨシの望み通り二人で静かに夕餉をすませた。
僕がまだ落ち込んでいるように見えたのだろう、ヨシは「片付けはいいから」と僕を自室へ下がらせようとした。しかし、僕は一人で自室に籠もる気分では無かった。
「大奥さま、お手伝いさせて下さい」
「桜生、『大奥さま』はやめてちょうだいな。私も店の中では奉公人なんだから、『ヨシ』と呼んでもらえるかい? ほら、竹吉もそう呼んでくれてるからね。そうしてちょうだい」
「わ……分かりました。では、よ……ヨシさん、僕にも手伝わせて下さい」
「全く、この子は本当に。礼儀正し過ぎて驚くよ」
と言いながら、布巾を手渡される。
ヨシが食器を洗い、僕がそれを拭き上げる。陶器の重なり合うかちゃかちゃという音だけが静まり返った台所に響いている。
しばらく無言で作業に没頭していたが、ヨシが言い出しにくそうに言葉を選びながら話し出した。
「桜生、あんたは
「四葉さん?」と聞き返すと、ヨシは「まだ話してなかったかい?」と、四葉とは数ヶ月前に亡くなった緑助の妻であることを話してくれた。
「四葉さんがいる間は、彼女のためにせっせと薬の調合の研究に籠っていたんだよ、緑助は。四葉さんが亡くなって、しばらくは身が入らなかったようだけど、あんたが来てくれてからは、またやり始めたみたいだね。今度は桜生の為に、と思っているのかね」
「あんたは、かなり緑助に気に入られているようだから」とヨシはにっこりとこちらに微笑んでから続けた。
「ここへ来てくれて、感謝してるよ、桜生」
「いえ、僕はまだ何も……」
ヨシの洗い物の手が止まっていることが気になり、ヨシの顔を見上げると、彼女は静かに涙を流していた。
その夜、どうしても寝付けない僕は、自室を出て縁側に腰を降ろし、青々と生い茂った庭の草木に目を向けていた。ジーッジーッと鳴く虫の音が耳に心地良い。
しかし、僅かに吹いた風が僕の体を一気に震わせ、体を冷やしていく。
そろそろ部屋に戻ろうと思っていると、スススーッ、ドンという引き戸が開いて閉まる音と共に人の足音がザクザクとテンポ良く聞こえてきた。
敷地外から庭への入り口となっている裏戸から誰かが入ってきたのであろう。その足音がこちらに向かってくる。僕はその場で縁に立ち上がり、その正体を見定めようと身構えた。
「あれ〜?」
そう言って正体を現したのは緑助だった。僕は安堵し「旦那さん」と息を吐きながら呟く。「桜生ちゃん。眠れないのかな〜?」と言ったかと思うと、緑助は僕に抱きついてきた。
うっ、酒臭いっ。
一夜を外で過ごす訳ではないらしい緑助のお帰りがヤケに嬉しかった。一方で、僕はこの酔っ払いへの対応が分からず戸惑ってしまう。
「ねえねえ、桜生ちゃん、お水おねが〜い」
僕はこの酔っ払いを縁に座るよう促し、彼の要望に応じた。
緑助は器の水を一気に飲み干し、縁に腰掛けると、「こっちにおいで」と、となりをトントンと手で示す。示された通りに緑助の隣に腰を下ろす。
「びっくりしたでしょ? 大の大人があんなに大泣きするなんてさぁ」
緑助は、そこから見える星空を見上げたまま、さっきまでの様子とは別人のように真剣な眼差しで話し出した。
夕餉を知らせに緑助の部屋に声を掛けた、今夜のことを言っているのだろう。
僕は「いいえ」と頭を左右にしっかり振る。
「……僕はね、桜生ちゃん、頑張ったんだよ、四葉よつばのために。……でも、ダメだった」
「でも、僕は旦那さんの薬のおかげでこうして元気でいます」
それは、嘘ではない。彼の作った薬がなければ、僕は多分もう少し弱っていた筈だ。その薬のおかげで、発作もすぐに治めることが出来る。
「ありがと〜」
緑助は煮え切らないような笑顔を作り、僕にほほえんだ。
「四葉は、僕と夫婦になって僕との子を産みたい、って言ったんだよ。それは、僕がずっと避けてきたことなのに……」
七歳の僕にこんな話をすると言うことは、おそらく和路医師から僕の全てを聞いているのだろう。前世の『わたし』に語りかけているようだ。僕は返事に躊躇い、ただ彼の話に耳を傾けることにした。
「そうしたら、やっぱり……やっぱり、四葉は……いなくなっちゃった」
震える声が緑助の苦しみとして僕に訴えてくる。
「幸せな時間を僕と味わってみたい、って」
緑助はこちらを見てから、続けた。
「桜生ちゃんには、分かる? 四葉がその選択をした気持ち」
「……」
「僕にはわからないなあ。ただもっと長く生きていて欲しかった……僕にとってはそれだけだったんだよね」
ニコッと苦々しい笑みを見せる緑助の目には涙が溜まっている。
「それでも彼女は最期に『本当に私は果報者でした。幸せをありがとう』って。すごく可愛い笑顔で……僕に……」
再び緑助は天を仰ぎながら、子どものように声をあげて泣き出した。強い風がビューッと横切り、緑助の長い後髪がサラリとなびく。
「……分かります、気持ち」
僕が口を開くと、緑助の泣き声は小さくなり、彼はこちらを見下ろした。
「旦那さんの気持ちも奥さまの気持ちも分かります……。たぶん、奥さまも旦那さんの気持ちを理解されてた……んだと思います」
話している途中で、奉公人の分際で出過ぎた事を……と気付き、僕は「申し訳ありません。こんな出しゃばったことを」と慌てて手をついて頭を下げた。
しかし、緑助は「ううん」と首を左右に振った。
「桜生ちゃんの思ったこと、聞かせて」
緑助は頭をこちらに傾け、顔を上げた僕の顔を覗き込んだ。僕は「はい」と小さく呟き、続けた。
「……今、奥さまの話を聞いて、大事な人との時間を大切にしたい、と自分自身も思い直しました」
「話してくださって、ありがとうございます」と緑助へもう一度頭を下げた。
僕も絢との限られた時間を大事にしたい。もう二度と絢を悲しませたくない。
また、あの事件の日の絢の怯えた顔を思い出す。
絢と幸せな時間を少しでも長く、大切にしたい。そのために緑助の元でしっかり学び、少しでも早く一人で生きていけるように稼がなくてはならない。
そう、心の中でひっそり決意した。そして、緑助に向かい膝を揃え手をついた。
「旦那さん、こちらで奉公させて頂けることに改めて感謝致します。これから、どうぞ宜しくお願い致します」
緑助はそれを聞いて、自らも縁の上にあぐらをかき、僕の方に向き直った。
「ううん。こちらこそ来てくれてありがとね、桜生ちゃん」
緑助は、口角を僅かに上げた。少し落ち着きを取り戻したのか、緑助は「それから、一つ謝らせて」と真顔で続けた。
それは、和路医師から聞いている僕の情報——-つまり、病のこと、呪い持ちのこと、そして前世の話をヨシや竹吉にも伝えていることを許してほしいとのことだった。
共に長い時間を過ごすため、僕の安全を一番に考えてのことだと伝えられた。
「僕たち三人でここでの桜生ちゃんの生活を守って行くから、安心してね」
僕はその手厚過ぎる心遣いに、そのまま緑助に向けて深々と頭を下ろし、感謝の念を述べた。
そして、リスクを抱えている僕のことを全部受け入れてくれる人たちが周りに居ることに幸せを感じ、彼らに心から感謝した。
あまりにも上手く行き過ぎるここでの生活が始まったことに嬉しさを感じながらも、僕にとっては恐れ多いことだとも感じられた。それに甘えすぎることなく、しっかり生きていかねば、と自分に言い聞かせた。
その夜、僕は「一人で寝れない〜」と言う緑助と一つの布団に枕を並べて遅い寝床に入った。
僕は旦那さんにも敵わないな、と心の中で呟き、目を閉じた。そして、隣に人の体温を感じながら、いつの間にか眠りについていた。
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