第6話

 奉公へ出発する日までの一ヵ月はあっという間に過ぎて行った。僕にとっては、家族や絢とゆっくり過ごせる最後のひと月だった。


 出発前夜――。

 年に一度帰郷できても一週間いることは難しいだろう。

 このまま時が止まればいいな。そんなこと今更思ってもどうしようもない。

 何度もそう思わせるほど、平和で楽しい日々を過ごせたひと月だった。

 前世でもわずかながら、幸せな時間もあったな……と思い出す。

 お金は無かったけど、たまの休日にお兄ちゃんと二人で街を歩るく平和な時間。家の中で二人、何も気にすることなく、テレビを見て素直におもしろいと思える幸せな時間。

 しかし、その時間が幸せであればある程、次に何か恐ろしいことが待ち受けているのではないかと不安にさせる時間でもあった。

 でも、今の世界に義父あいつはいない。

 安心して幸せな日々をしっかり味わってよいのだ。

 たかが『呪い持ち』。

 そんなもの前世の生活に比べたら……なんてことない。

 僕は前世の嫌な情景を脳裏から離れさせようと目を閉じ、首をブンブンと何度も左右に振った。


「桜生、危ないわよ。どうしたの?」


 「じっとしてくれなきゃ」と母のゆうが僕の頭を優しく両手で固定する。


「ごめん、母さん」


「いいのよ、気をつけて」


 由は、言いながら僕のサラサラと真っ直ぐな髪を櫛でといては先端を切り揃えていく。


「桜生の髪は父さんの髪にそっくり。本当に羨ましくなるほど綺麗な髪してるわね」


「じゃあ、奉公先で父さんを見かけたら髪の毛ですぐ分かるね」


「……そ、そうね。さ、出来上がり。来年帰って来るまでは切ってあげれないけど、どうするの?」


「母さんに切ってもらうために伸ばしとこうかな」


「あら、嬉しい。じゃあ、母さんもそれを楽しみにしときましょう」


 ふふふっ。と美しく笑う母は、僕にとって自慢の母だ。この村にいるご婦人達とはどこか雰囲気が違い、品を感じる仕草や優しい口調。子の僕でさえも見とれてしまうほどだ。

 父さんが母さんを好きになった訳が分かる。

 なのに、なぜ帰ってこない、父よ。

 こんなに美しい女性ひとを置いて、あなたは何をしているのか。


「母さん」


 散らばった髪の毛の片付けを終え、僕の部屋で荷造りに取り掛かった母に、声を掛けた。「なぁに?」と由は振り向く。


「体、大事にしてね。仕事無理しないでね」


「あらまぁ。ありがとう、桜生」


「その……僕、お給金貰えるって聞いてるから、またお金送るから」


 すると、由は荷造りの手を止め、僕と膝を合わせて向かい合う。そして、由は僕の右手をとると、ゆっくり話し出した。


「桜生、ありがとう。気持ちだけで十分。学校に行かず、奉公に出るのには、きちんと目的があるのでしょう?」


 「そちらに使いなさい」と付け加えた母さんにはかなわない。


「お金の心配はいいから……ね。そうだ……そのかわりに帰って来る時には、美味しいお菓子でも買ってきて貰おうかしら」


 由は嬉しそうにパチンと両手を合わせながら言った。


「……うん。わかった」


 それだけ返事をして僕は、由の腰に両腕を回した。由もそれを受け入れると、僕の髪を優しく撫でた。


「そうそう。それから、桜生にとびきりのお守りをあげましょうね」


 由は僕が顔を上げると、包まれていた白い布から貝がらを取り出し、小さな手のひらにのせた。

 僕はその貝がらに見覚えがあった。大人の親指の長さほどの二枚貝の片割れ。付け根から濃いすみれ色が薄い色へ変化していき端まで広がっている。つるつるの光沢のある表面が光を反射する綺麗な二枚貝。


「これ……母さんの……」


「そう。母さんのお守りよ。これからは、あなたのお守りに」


「でも、これはとっても大事な貝がらなんだって、母さん言ってたでしょ?」


「大事な貝がらよ。……父さんとの。……だから、桜生に」


 そして、由は「父さんと母さんがいつも側にいると思って持っていて。それに、この貝がらがあれば、桜生が父さんの子だという証拠になるから」と説明し、僕に受け渡した。

 ふいに、僕はこのお守りを絢にもらった薬袋にしまっておこうと思いつき、首から巾着を外した。


「その巾着、絢ちゃん随分頑張って作ってたよ」


 と言いながら、部屋に入ってきたのは姉の真子まこだ。「3回は作り直してたかな」と二人の傍に腰を下ろした。


「そ、そうなんだ……」


 僕はしみじみその薬袋を眺めた。

 絢はこういう細かい手作業、あんまり得意じゃないのかな。それなのに、僕のために。その手解きを姉さんがしてくれたのだろう。

 「姉さん、ありがとう」と僕は微笑む。


「あ、そうだ、姉さん。春兄と仲良くね」


「あらあら」


 由が反応して、ふふふっと笑い、真子も意外だったのか僕の気遣いの言葉に思わず、ぷっ、と吹き出した。

 「真面目に言ってるのに」と僕は頬を膨らませた。

 姉さんと春兄には冗談ではなく仲良くしてほしい。

 春兄には、前世で叶わなかった、お兄ちゃんの幸せを代わりにつかみとってほしい。

 大切な人と夫婦になることを……叶えてほしかった。そんな思いで出た言葉だった。


「ふふっ、ごめん、ごめん。大丈夫。春次郎しゅんじろうとは仲良くするし……そりゃ、たまには喧嘩しちゃうかもしれないけど、私は春次郎から離れるつもりは、これっぽっちもないから。それに、あっちが離れようとしても絶対離さないしね」


 「安心して」と締めくくり、ほのかに微笑むと僕の目をじっと見つめて続けた。


「それより、桜生。他人の心配より、自分の心配しなさいよ。体、大事にね。無理せず、しっかりね」


「分かってる」


「ふふふっ、これじゃ、どちらが母さんなのか、分からないわね、ふふっ。」


 僕が返事をすると、今度は由が真子をからかう。そして、「桜生」と由は真剣な眼差しで僕に向き直った。


「こちらのことは心配しないで。森戸屋さんや和路先生が何かあれば助けてくださるしね。

 あなたの方も薬代の面倒見てもらえて、しかも薬屋の旦那さんが元はお医者様だなんて、本当に良いところに奉公に出させて貰えて良かったと思ってるわ。

 でも、もし何かあればいつでも戻ってきなさいね。そして、無理だけはしないこと。いいわね、桜生」


「はい、母さん」


 その日の夜は、久々に三つの布団を川の字に並べた。

 僕は母と姉の温もりを感じながら、誰に願うでもなく、「母さんと姉さんの幸せをお守りください」と念じているうちに眠りについた。



 奉公先のある清島きよしま村までは途中宿泊を伴い、二日かかる。津結つゆ村から南へ向かう道中は専ら高瀬舟での移動になる。僕にとっては初めての長い旅路だ。

 しかし、その旅路の付き添いを買って出てくれたのは和路医師だった。

 故郷を後にした二日後、夕暮れの気配を感じ始める頃、僕たちの舟は清島の船着場に到着した。

 船着場から奉公先までしばらく歩く間にも初夏を間近にした日差しが体を照りつける。

 一方で、和路医師の少し後ろを着いて歩く僕は、道沿いに並ぶ街の商店や屋敷を見回すことに忙しい。

 生まれ育った村の静けさとは違い、周囲からは人の話し声が絶え間なく聞こえてくる。


「桜生さん、あそこを見てください」


 足を止めた和路医師に習って立ち止まると、和路医師の視線の先を確認する。

 ある店先で背の高い男性が片手を挙げて大きく手を左右に振っているのが見えた。その男性が口に片手を添えて建物の方へ何かを叫ぶと、しばらくして店の中から五、六十代の女性が一人姿を現した。

 この二人は、今後僕がお世話になる『薬屋手結之助くすりやたゆのすけ』の店主である郷間緑助ごうまりょくすけとその母ヨシであった。

 その日の夕餉は、明日の朝津結村へ帰る和路医師の労いと僕の歓迎を兼ねたものとなった。

 ヨシが一人で用意したであろう、料理や酒で賑やかなひとときとなった。


みどりちゃんが思った通り桜生さんを気に入ってくれたようで安心しました」


 和路医師が店主の緑助を「緑ちゃん」と呼ぶのは、緑助にかなり心を許している間柄であることを想像させた。


「こ〜んな可愛い子が来てくれて、僕は天にも昇る気分だよ〜」


 と緑助は隣に座る僕に横から抱きつく。

 この感じ……彼が酔っているためかと、誰もが思うだろう。しかし、彼の場合は、僕がここに到着した直後からずっとこの調子なのだ。

 そう、僕たちが夕方店先にたどり着くやいなや緑助はキラキラさせた瞳で僕を見つめてきた。そして、彼を何者だ、と観察している僕にぎゅっと抱きついて来たのだった。

 ここにも抱きつき魔がいた……。と言っている自分もそうであるのだが。

 そして、今の今までも僕のことを「可愛い」と連発し、頻繁に抱きついてくる彼をどう見れば、和路医師から聞いている優秀なヤツ、と判断できるだろうか。


「彼なりの愛情表現なのです。勘弁してやって下さいね」


 戸惑う僕にこっそり耳打ちする和路医師は、とても嬉しそうである。そんな緑助の様子をじっと見つめるヨシもまた、安心したように幸せそうな顔で微笑んでいた。

 翌朝、和路医師を店先で見送ると、和路医師との別れの寂しさに浸ることも無く、早速その日から日常の仕事を教わる事となった。と言っても七歳の僕に出来ることは少なく、ヨシの家事の手伝いや掃除が主だった。



 数日経つと、店の一日が少しずつ把握出来るようになってきた。

 この日もヨシと一緒に用意した昼餉を皆で囲う。緑助は、サッサッと根菜の煮物と白米をかきこむと、僕ともう一人の働き手である竹吉に目を配りながら「そうだ」と話し出した。


「桜生ちゃん、竹吉たけきちさんの手の空いた時にでも、少しずつ薬や商いのことを教えてもらってね〜」


 僕は「はい」と短く返事をし、「竹吉さん宜しくお願い致します」と箸を置いて向かいに座る竹吉に手を着いて礼をする。


「竹吉さん、桜生ちゃんの事、おねがいしますね〜」と緑助は、腰まである長い真っ直ぐな長い髪を後ろで括ると奥の部屋に向かっていった。


 ———桜生の髪は父さんの髪にそっくり


 緑助の綺麗な髪を見ると、母の言葉を思い出し、自分の髪に触れてみた。

 日も暮れる頃、竹吉の店じまいの片付けを手伝う。竹吉が表の暖簾を店内に下ろすと、僕が表の引き戸を引くのが役割となっている。今日も戸に手を掛け子供には重い戸をなんとか押して行く。反対側の戸に手を掛けた時、外から何か視線を感じた気がして、手を止めて外を窺う。

 特に誰に見られていた訳でもない事を確認すると、首を傾け「気のせいか……」と呟く。ところが、ふと道向かいの屋敷の前に停められている荷車の車輪部分に違和感を感じた。

なんだろう、とよく見ると上からは後頭部で丸められた髪の毛のお団子が、下の車輪の方からは子どもの足が覗いている。

 女の子?

 しばらく見ていてもその子が動く気配もなかったため、僕はそのまま表の戸を閉め、その日の戸締りを終えた。

 その後、竹吉が自宅へと帰って行くと、三人だけの夕餉となる。その手伝いのため台所へ向かうと、ヨシからもう準備は出来ているから、旦那さんを呼んでくる様に言われる。

 昼に向かった奥の部屋で薬草調合の研究をしているだろうと、そちらへ足を向ける。が、そこには彼の姿は無かった。仕方なく緑助の自室へ向かい、閉じられた障子の外から声を掛けようした時だった。

 部屋の中から「う、うっ……」と声を殺すようなうめき声がした。その場で動作を止めて中の様子を静かに窺っていると、それが泣き声だと知れた。

 僕はこの状況で声を掛けるか否か迷った結果、部屋の前を通り過ぎて後でもう一度出直すことにした。足音を殺して彼のいる部屋の前を数歩進むと、「桜生ちゃん?」と部屋の中から声をかけられる。


「はい……、夕餉の準備が出来ていますので、それをお伝えに」


「うん、分かった。ありがとう」


 少し涙で震える声で返事が聞こえた。「失礼します」とその場を去り、ヨシと食卓で緑助をまった。程なくして、緑助が姿を現したが、彼が食卓に座ることなかった。


「母上、今夜は出かけてきます」


 とだけ言い残して、外へ出ていった。


「あなたが来てから落ち着いてたんだけど、今日はあの子も駄目みたいだね」


 ヨシはそう言うと「食べましょう」と食事を促した。緑助は恐らく、夜の街へ女遊びに出掛けたのだろう。緑助らしくないつれない態度に僕はとても悲しくなった。

 理由はそれだけでは無かった……彼のことを考えていると、僕はいつの間にか涙を流していた。


「奥様とお子さんを一辺に亡くされるなんて……悲しすぎます……」


 奉公に来る前に和路医師が桜太郎と話していた会話をたまたま聞いていた僕は、緑助が数ヶ月前に奥様とお子さんを同時に亡くしていたことを知っていた。そして、緑助が悲しみから立ち直れず、夜は女遊びと酒に溺れているのだと。

 頭では分かっていたものの、緑助の泣き声を目の当たりにすると、その悲しみがとてつもなく深いものだと知った。


「あらあら、桜生も悲しんでくれるのかい? ありがとうね」


 ヨシは僕の頭をなでて慰める。


「でもね、こればかりは時間がかかるものなんだよ。それに、今までなら、私がひとり夕餉に取り残されてたけど、今夜は桜生がいてくれる。私のためと思って、一緒に食事をしてくれるかい? さ、泣かないで」


 「はい」と詰まる喉から何とか返事をし、落ち着くとヨシと食事を摂った。

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