第5話
新緑の季節になった。
崖の上の桜もワサワサと緑の葉が生い茂っている。そこから眺める山々は、遠くへ行く程に深くなる緑に吸い込まれそうになる。
僕はひとり崖の上の桜の木の側から、その眺めを独り占めしていた。深く息を吸い込み、頭の上にうんと伸ばした腕を左右にふりおろす。
「がんばろう」
呟いて今日の決意を心に刻む。
僕が和路医師に奉公に出たいと伝えてから、1ヶ月ほど経った。
薬屋の緑助さんからは、先日、奉公について了承を得ることが出来た。そして、和路医師が間に入り、奉公するにあたっての条件をしっかり取り決める事も出来た。
僕がこの村を出るのは、さらに1ヶ月程後となる。
僕は和路医師から、しっかり体力をつけるようにと言われ、今日も朝から外に出て体を動かしている訳である。
絢とは、依然としてまともに顔も合わせておらず、ましてや話など出来るはずもなかった。
まずは、僕の『呪い持ち』の事実を伝えて、受け入れてもらおうと言う和路医師の意向で、絢には彼から大体のことが伝わっているはずである。
僕は右手の腕にはめられた染め紐を眺め、絢のことを想った。
絢も僕に会いたいと思ってくれている。
ただ、あの事件がそれを邪魔しているだけだ。
今の僕はいつもの僕だってこと、この染め紐があれば大丈夫だってことを絢に分かってもらいたい。
和路先生のおかげで、奉公に出ても年一回村に帰郷できることにはなっている。
だけど、できれば出発の日までになんとか絢と話がしたい。
そして、また来年、一緒にこの桜の木の花を愛でたい。
「桜生! 行くよー」
「はーい」
姉の真子まこの呼ぶ声に、僕はしっかり返事をした。
学校が休みのため、朝から森戸屋に働きにいく真子に僕も付いて行くことにしていた。
そして、今日こそは絢と顔を合わせたい。
僕は姉の待っている家の近くまで急いだ。すると、
「まーこぉー」
と、真子に駆け寄り、後ろから抱きついている者が見えた。
「春兄……」
こういう光景も僕にとっては見慣れたものだった。
何度見ても二人が美男美女過ぎて眩しい。
真子は、母親譲りの長くて柔らかい髪をいつも後ろで緩くお団子に纏めているのがよく似合う。
「春次郎、おはよう。わざわざ迎えに来なくていいって言ってるのに」
「少しでも真子と一緒にいたいんだよぉ」
甘えた声を出している春次郎と真子のやり取りを離れたところから見ていた僕は、前世の記憶を思い出していた。
お兄ちゃんは、
春兄のこういった言動は、その反動なのだろう。
こうして姉さんと春兄の幸せそうな姿を眺めることが出来るのは、感慨深いものがある。
かく言う私もお兄ちゃんと同じく、恋愛することは許されないことだと自然と認識してしていた。
相手の
前世では大切なひとを失いたくなかった。
しかし……そう、ただ一人だけ私を気にかけてくれた男性ひとがいた。
いたのだが……私の方が最後まで気持ちに蓋をして……最後は、無理矢理突き放してしまった。
あれは、本当に苦しかったな……。
だけど、今度こそ、この世界では絢と幸せな時間を過ごしたい。
こんな体で、いつまで生きることが出来るかわからないけど。
分からないから、だから、少しでも早く絢と元のように楽しく過ごしたいと思う。
そう思い直すと、僕は駆けて行き、真子に後ろに抱きつく春次郎のさらに後ろに抱きついた。
そう言えば、こんな風に抱きつくのは僕や春兄ばかりだな。
ほんと、前世の反動としか考えられない。
我々前世の兄妹は、愛情表現をたっぷりしたいらしい。
ああ、でも、こうやって抱きつくのは幸せだな。
「うわっ、桜生、お前なぁ。俺たちの邪魔するなよな」
春兄は、そう言って姉さんから離れたかと思うと「このやろう」と言って、今度は姉弟に向き直ると、姉さんと僕の二人を両腕でぎゅっと抱きしめた。
———-そして今、僕は絢の部屋の前にいる。
部屋の戸はいつも通り閉められている。
ここ二週間、毎日ここから中にいるはずの絢に声を掛けてはいるが、絢からの返事は一度も返ってこない。
怖い思いをさせた張本人が乗り込んでも上手く行きっこない。
そう諦め、日々ここを訪れては声をかけ、そのまま絢の部屋を後にしていた。
「桜生くんがいなきゃ、絢もダメみたいだね。毎日外を駆け回ってた子なのに。ぽっかり心に穴が空いたみたいになっちゃって。……絢にとって桜生くんの存在がどれだけ大きかったか、私も絢も気付かされてるところだよ」
昨日、帰ろうとした僕に絢の母から掛けられた言葉を思い出した。
そしてまた、和路医師が協力する、と言ってくれたことを思い出す。
和路先生も絢に度々会って声を掛けてくださっている。
一人じゃない。
けど、これは僕と絢の問題だ。
今日は……大丈夫。
絢にはきっと伝わる。分かってもらえる。
僕は両手の拳をぎゅっと握り、自分に気合いを入れた。
そして、声もかけず、絢の部屋の襖を勢いよく開け放った。
窓の外を眺めていた絢が首だけ振り返る。
僕はその後ろ姿のままの絢に駆け寄る。
絢の真後ろに立った僕は、後ろから腕を回した。
絢の体が一瞬で硬直したのを感じた。
僕は「絢」と声を掛けようとした。
「ぎゃーーーっ!」
しかし、絢の叫び声でそれは打ち消された。
その叫び声は、あの事件の日の絢を思い出させた。
そして、絢が放った力によって二人の体は簡単に引き離された。
引き離された勢いで僕は尻餅をつき、後ろに倒れた。
し、失敗した……ッ。
今日もダメだった。
僕は今日もこれで諦めて帰るのか。
顔を両手で覆い、その場にしゃがみ込み震える絢。
僕はそんな絢の様子を眺め、半分諦め掛けていた。
「……やだ、やだやだやだ。桜生……なんで? ……桜生がそんな風になるなんて、やだ……ッ」
そう言いながら首を左右に振った絢は、泣き出した。
長距離を走り切った後のように、浅く荒い呼吸で絢の肩が上下している。
「良かった……」
「えっ?」と絢は泣き顔をこちらに向ける。
僕は上半身を起こすと、絢にいつものように笑顔を向けた。
「絢の声が……やっと聞けた」
それを聞くと絢は気まずそうに、また顔を向こうへと背けてしまう。
僕が「絢」と呼ぶと、絢は恐る恐るこちらを見た。
僕は彼女の瞳に視点を合わせた。そして、絢の警戒を解くべく、右に首を少し傾けて微笑むと「絢」と、もう一度名前を呼んだ。
「よ……良かった」
今度は絢が口を開いた。
そして、絢も僕に何とか笑顔を返そうと努力しているようだった。
「良かった……。桜生だ。……顔も……声も」
「うん」
僕は、まだ震える絢の片手を取ろうと両手でその手に触れた。
が、触れたその手はビクッと後退し、絢は僕のそれを受け入れなかった。
僕は絢がなぜ手に触れさせてくれないかが分からなかった。
僕はもう大丈夫だよ。
この染め紐があるから、いつもの僕で居られるんだよ。
染め紐……。
僕は、はっとした。
絢の視線の先は僕の右腕の染め紐に向けられていたからだ。
まるでこの染め紐が、彼女に恐怖を与えているかの様だった。
絢は染め紐を見つめたまま、まともに呼吸も出来ていない。
「はぁ、はぁ」と震えて吐く息が絢の胸の苦しみを告げていた。
絢はしばらくして目をぎゅっときつく閉じると、またあちらへ顔を背けてしまった。
「ご……ごめんなさい……。その……紐が……それが……怖い」
絢にはこの染め紐に、何か特別な恐怖を感るとでもいうのだろうか。
「み、見えなかったら……大丈夫かも」
「ごめん」と僕はすぐに右手を背中に回し、絢の前から隠した。
こうなって、僕は自分がもう以前の自分で無いことを改めて思い知らされた。———『呪い持ち』であることを。
そして、こんなふうに絢が呼吸もまともに出来ないほど恐怖に震えている姿は、僕に酷く不安を与えた。
僕が絢を苦しめている。
以前のように何も考えず絢に近づくことは出来ない。
胸が締め付けられて、どうにかなりそうだ。
逃げ出したい。
体が丈夫でないことでさえ、絢のそばにいる権利はないのに。
『呪い持ち』にもなってしまった。
もう、絢の傍を離れた方がいいのかもしれない。
「桜生……? ……大丈夫?」
俯いて考えこんでいた僕に絢が話しかけてくれた。
絢は呼吸をなんとか落ち着かせようと、ゆっくりと深い呼吸を繰り返していた。
「ねぇ、私……桜生と外に出たいな」
「えっ?」と僕は顔を上げる。
「桜生と外に行きたい」
絢は僕の瞳をじっと見つめてもう一度訴えた。
また、悲観的になる悪い癖がでてしまっていた。
その悲観の沼から絢が僕を連れ戻してくれた。
そう、僕は絢を必要としている。
たぶん……絢も僕を必要としていてくれる。
少なくとも今は……。
そして、『呪い持ち』の僕を受け入れてくれようとしている。
僕は染め紐のない左手を慎重に絢の手に重ねた。さらに自分の額をその手の上に押し当てると、僕の茶色がかった黒髪がさらりと自身の顔を隠してくれた。
「絢……ごめん」
絢を怖がらせてごめん。
絢を悲しませてごめん。
ごめんね……。
それから……。
「……ありがとう」
こんな僕を受け入れてくれてありがとう。
「絢の傍にいたい……絢の傍にいてもいいのかな?」
それが許されるのかな。
まだ、それが正しいのかは分からない……けど。
僕は震えながら言葉を紡ぎ、絢に弱音を吐く。
「桜生。私はここにいるよ……大丈夫。……傍にいるよ」
そう言って、絢は僕の後頭部に彼女の頬を乗せた。
「私も……ごめん。今日……来てくれてありがとう」
しばらく二人はそのままお互いの体温を感じ合い、それに満足すると、どちらからという訳でもなく、顔をあげて微笑み合った。
「桜生、外に出よう」
「うん」
「絢、ちょっとお待ち」
森戸屋から駆け出していく僕と絢を、慌てて絢の母が呼び止めた。
「これを」と絢に手渡されたのは森戸屋名物芋饅頭だ。
温泉宿として商いをしている森戸屋であるが、この芋饅頭も販売していた。餡にも生地にもさつま芋がたっぷり使われた、小ぶりの温泉饅頭は、僕の大好物でもある。
「和路先生から頼まれてたものだから、二人で持って行ってくれるかい?」
「うん」
「はい」
僕たちは元気に返事をして出かけた。
「……こんなに沢山、私の好物を持って来てくれたのですか」
和路医師は、十個入りの饅頭包み三つを受け取ると唖然としていた。
渡した饅頭を目の前に、反応の悪い和路医師を見上げると、絢は首をかしげていた。
「母さんが、先生に頼まれたものだ、って……」
僕は二人から姿が見えないように玄関縁の壁に背を傾けながら、しばらく二人の様子を窺っていた。しかし、絢の戸惑っている声を聞いて、僕は戸の後ろから顔を覗かせた。
すると、それに気付いた和路医師は、僕の顔を確認し、軽く頷くと次に絢に視線を戻した後、急に嬉しそうな表情を示した。
「……あ……ああ、そうでした。今日お願いしていたものですね。はははっ…」
和路医師は、そう言いながら笑った。
「二人とも、良かったらそこで私と一緒にお饅頭を食べて行ってくれませんか」
広い庭を眺めながら三人は、縁側に腰を並べて座った。
先に一つ食べ終わった和路医師は、小さな二人の前にかがんだ。
「仲良しのお二人さん。良かったですね」
「はい、ありがとうございます」
「はい、ありがとうございます」
僕と絢は同時に返事をしたことが可笑しく、お互いに微笑み合った。
「絢さん。桜生さんの味方になってくれてありがとう。……それから、先日、桜生さんが奉公に出ることは話しましたね」
絢は僕の方を一度見てから首を縦に振った。そして、頷く絢を確認した和路医師は続けた。
「離れていても、味方でいてくれる人がいることは、桜生さんの頑張れる力になります。一緒に応援してあげましょうね」
「はい」
絢のしっかりとした返事を認めると、和路医師は次に僕に向き直った。
「桜生さん。そういうことですから、安心してあなたの目的を果たして下さい」
「……はい。先生、本当にありがとうございます」
絢のことも。
奉公について家族を説得してくれたことも。
奉公先と取り合ってくれたことも。
そして、僕に起こったこと、今考えている全ての話を受け入れ、聞いてくれたことも。
和路先生、ありがとうございます。
前世でもこの世界でも父の温もりを知らない僕だったが、父の存在とは和路医師のような感じなのだろう、と感じずにはいられなかった。
「あっ、そうだ。大切なこと忘れてた!!」
「げほっ、げほっ」
再び饅頭を食べ始めていた僕と和路医師は、突然大きな声を出した絢に驚き、食べたものを同時に喉に詰まらせた。
絢は着物の襟の内側から小さな巾着を取り出し、僕に差し出した。
「これ、お誕生日の贈り物なんだけど……。あの……不細工でごめん、初めて作ったの。薬袋としてどうかな、って……。ほら、いつも持ち歩いてる薬あるでしょう……」
絢は俯いたまま瞳を泳がせ、自身なさげにしていた。
「あの……本当はあの日……あのお花見の日に渡そうと思ってたんだけど、遅くなっちゃってごめんなさい」
「……」
僕はというと、目と口をしっかり開けたまま、その巾着に釘付けになっていた。
僕は嬉しさのあまり言葉を失っていたのだった。
絢の手のひらに収まるほどの小さな巾着。桜模様のうすい桃色の生地。片側で縛る仕様の袋に通された長くて白い紐は、首から下げる為なのだろう。
僕は始めての絢からの贈り物に震える片手を添えた。そして、絢の手からその巾着をゆっくり手に取ると、そのまま自らの胸に押し当てた。
「絢、ありがとう! ……嬉しいよ」
僕は絢に勢いよく抱きついた。彼女の方に押し当てた僕の頬を流れる涙が絢の着物に染みていった。
「えっ? 桜生? 喜んでくれてるの?」
「うん。一生大事にする。死んでも大切にするよ」
「もうッ、桜生……大袈裟なんだから」
「ううん、本当だよ」
「んー? 桜生さん、それは巾着のことかな、それとも絢さんのことを、かな?」
横で見ていた和路医師が僕たちをからかった。
「……両方です、先生」
それに真面目に答えた僕は、嬉し涙で濡れた顔のまま満面の笑みを和路医師に捧げた。
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