第4話
明け方から降ったのだろうか。
外は春の雨が静寂な森の中に雨音を落としていた。
僕は右腕にはめている染め紐を眺めた。
これを和路医師から受け取ってから、もう一週間程経つ。
しかし、毎日顔を合わせていた絢が、僕の所に姿を現す事はなかった。
結局、今年は花見どころじゃなかったな。
僕はどうしようもない寂しさを感じた。
和路医師に診察を受けながら、僕は部屋の高い窓の外を覗った。恐らく、僅かに枝に残った花もこの雨で完全に消えてしまうだろう。絢と見るはずだった桜の木を想うと胸が痛んだ。
絢はどうしているだろうか。
事件の日の絢の叫び倒れ崩れて行く絢の姿が脳裏をよぎる。
思わず僕は首を左右に振り、その記憶を頭から叩き出した。
「昨日はすっごくよく眠れたよ、先生。怖い夢も見なかったし」
僕は今気持ちを紛らすかのように和路医師に話しかけた。
「それは、良かったです」
僕は事件後毎晩、前世の夢を見ていた。その夢で毎晩うなされる僕のために母と姉が側で一緒に寝てくれていた。そのため、昨夜は三人共に久しぶりにゆっくり眠る事が出来たのだった。
「今日は確かに気分が良さそうですね。熱もない様です」
「うん。何か治っちゃったのかな……はははッ。今日だったら走れそう」
と言って、僕は座ったまま腕を前後に振って走る風を見せた。
「はははっ」と和路医師は笑った。
「今日は、無理しない程度に家の中を歩いてみてもいいかもしれません。体も鈍ってしまいますしね」
「うん」と僕はうつむき加減に頷いた。
そして、少しためらった後、口を開いた。
「あの……先生。外に……出ちゃダメかな。桜を見に行きたいんだけど」
「外は雨ですよ。雨が止んでから……」
そこまで言うと、和路医師は僕に手をきつく握られたことに驚き、言葉に詰まったようだった。
「お願い先生。そうだ、一緒に行こう? すぐ桜を見たいんだ。この雨で花が散っちゃう前に……。先生とならいいでしょ、ね」
僕は和路医師の手を両手で掴み必死に訴えた。
その意志の強さを示すため、和路医師の瞳に向けて僕の目力を込めた。
「うーん」とうなりながら少し思案すると、和路医師は優しく微笑んだ。
「しょうがない……ですね。お供しましょう。桜生さんには敵わな……」
「やった!」
和路医師が完全にしゃべり終わらないうちに、僕は喜び、両手を頭上に勢いよく伸ばした。
僕は傘を持つ役を担い、綿入を着せられ、和路医師の背中におぶわれた。そして二人は冷たい雨の中、崖の上の桜を目指した。
「先生の背中は、大きくてあったかいな。僕の父さんの背中も先生と同じなのかな」
「……そうですね」
僕は和路医師のその言葉に、迷いと何か悲しみのようなものを感じた。
桜の木の下で、和路医師の背中から下り、僕は地面に足を着けた。和路医師のさす傘の端から見上げてみると、もう花はすっかり雨に連れ去られてしまっていた。
次に崖の上から、雨で霞む遠くの山々を眺めると、その壮大な自然の威力に圧倒され、急に自分の存在を小さく感じた。しかし、大きく息を吸い込むとその自然の威力に力を貰えたような気がした。
「先生? ……僕に前世で生きた記憶がある、って言ったら、信じますか?」
僕は遠くに目を馳せたまま和路医師に向けて口を開き、言い終えると和路医師に向き直った。
和路医師はその口調の変化とその内容に瞳孔を震わせ驚いているようだった。
僕はそのまま、いつもより低い声と大人を思わせるような落ち着いた口調で続けた。
「どのようにいつ命を落としたのか、まだ思い出せないんです。ただ、僕は前世では確かに大人の女性だったんです」
「信じてくれますか?」和路医師を見上げた僕に和路医師は、すーっと空気を吸い込み、ふーっと鼻からゆっくり息を出してから答えた。
「もちろん、信じます」
和路医師は僕を安心させるかのように微笑んだ。
「よかった」
「ということは『呪い』の原因も分かっている、ということですか」
「……そうです」
傘の下で和路医師と向かい合い、僕たちはまるで大人同士で会話しているかのように、落ち着いて会話を進めた。
「僕の中身は七歳の子だけではなく、様々な苦難を経験してきた女性の魂も存在します。何事も逃げずに受け入れるつもりです。なので、話して頂けませんか……」
「……絢さんの事ですね」
「……はい。お願いします」
「ふふっ。今日は、よくあなたにお願い事をされる日ですね。だから、雨が降ったんでしょうかね」
「ははっ」と僕も苦笑いで返す。
「絢さんのことは、いずれ分かることです。お話ししましょう。桜生さんの体調がしっかり戻るまでは伏せる様に言われていたのですが……」
僕の表情を窺いながら、和路医師は続けた。
「絢さんは……体は元気でいますよ。学校にもなんとか通えています」
良かった……。とそこでまず僕は目を閉じ、胸に手を当てて安堵した。
「ただ……彼女は心が元気ではないのです。
今の桜生さんなら、大丈夫だと思いますので、事実を言いましょう。
あの事件の日、桜生さんの変貌と行動……つまり、桜太郎さんを傷つけた場面を見た事が原因で、彼女はあなたに会うのを酷く恐れています。
……そして、あなたに会いたい気持ちと葛藤もしているようです」
「僕も……絢に会いたいです……」
自分が犯した事件で絢を苦しめていることに胸が締め付けられる。
絢に会う資格なんて僕にはないかもしれない。
悔しかった。
僕は今にも流れ出しそうな涙をこらえた。
いっそ、絢が僕のことを見捨ててくれたら、どんなに良かっただろう。
そうすれば、僕はすんなり君の前から居なくなれたのに。
……胸が苦しい。
むしろ、もう僕のことを忘れて欲しい。
でも、絢に会いたい気持ちは嘘を付けない。
僕が絢に会いたい、なんて言える通りはない。
ないけれど……。
「この様な状況になっても、絢さんは、桜生さん、あなたを求めています。絢さんには、あなたが必要なのですよ。だから、ゆっくりゆっくり近づいて行ってあげてください。きっと、元の様に戻れます。この和路がご協力致します」
和路医師はそう微笑んでかがむと僕の肩に手を添えた。
その時、ぼくの涙の栓はスポンと抜けてしまい、次々と涙が溢れて出て行く。
ああ、僕は絢のそばに居てもいいんだ。
そう思えた。
先生は、いつも僕の苦しくてカチカチの心を柔らかくほぐしてくれる。
自分の胸が温かくなっていくのを感じた。
「ありがとうございます、先生」
「いいえ」と和路医師は屈んだまま僕を抱き寄せた。
「やはり体が冷えてます。そろそろ、帰りましょう」
和路医師は、そのまま僕の体を抱き上げようとした。
「あの、もうちょっとだけ待ってください」
そう言う僕を和路医師は、そっと傍に立たせた。
「それが……お願いついでに、もう一つお願いがあるのですが……」
「おやおや、今度はなんでしょう」
和路医師は、視線の高さを僕に合わせると顔を覗き込んだ。
「色々考えたのですが……奉公にでたいのです」
「奉公……ですか?」
僕の発言が意外だったのだろう。和路医師は目を泳がせた。
「はい。先生のお知り合いだと言う、薬屋へ奉公させて貰うことはできないでしょうか」
僕は迷いの無い瞳を和路医師に真っ直ぐ向けた。
「緑助(りょくすけ)の……薬屋ですか……」
戸惑いながらも冷静を装った様子の和路医師は僕の瞳から目をはなさず、しばらく思案していた。
「……わかりました。考えてみましょう。しかし、これはあちら側のこともありますから、改めてお返事させてください」
「よろしいですか」和路医師は僕に暖かく笑顔を見せた。
「はい、もちろんです。ありがとうございます」
僕も和路医師に向けて微笑みをこぼして返事をした。
そして、重い荷物を下ろしたかのような心地の僕は、再び和路医師におぶわれて小さな家に帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます