第2話
———5年前。
僕は朝餉を終えると、家近くの崖の上に鎮座する桜の様子を見に来ていた。
朝から快晴でお花見日和だ。
今日も春の日差しが暖かい。
僕の肩上のストレートの髪は、少し冷たい僅かな春風にもサラリとなびき、視界を遮る。
片手でその髪の毛を視界から除くと、この大きな桜の木を下から見上げた。
「わぁ、だいぶん咲いてる。五分咲きぐらいかな」
もうすぐ僕の七歳の誕生日。
桜の季節と共に来る誕生日は、一年で一番僕をワクワクさせる。
毎年この時期にお花見をし、ささやかだが僕の誕生日のお祝いしてもらう。これが北山家の春の恒例である。
僕は、昼前にお花見の準備を整えると、来客があるから、という母を家に残し、ひとりで山を下りた。
山を下りると僕は今日の招待客を迎えに宿屋森戸屋やどやもりどやへ向かった。森戸屋は幼馴染の絢あやの家でもある。絢は僕より一つ上で、生まれた時から姉弟のように育った仲だ。
僕と絢は毎年この花見をすごく楽しみにしている。絢を迎えに行くと、彼女は森戸屋の前で僕を待っていた。僕と絢は先立つ気持ちに推され、手を繋いだまま走って山を登り、桜の木を目指した。
「桜生、ゆっくりいきなさーい、体は大丈夫なのー?」
休みの日は森戸屋で働いている姉の真子まこが僕たちを追って少し後ろから叫んだ。
「今日はいつもより元気みたいだから」
僕は元気よく返事をして、絢の手を引き、また走り出した。
木々の木漏れ日を受け流し、春の香り漂う山道を走るのはとても気持ちがよかった。
山の上にある北山家の小さな家が見えてくると、僕は待ちきれずに走りながら母を呼んだ。
「母さーん、母さーんっ」
まだ見えない母の姿からは返事が無い。
もう少し先まで行くと、我が家の玄関の前で、母が若い男と話しているのが見えた。僕はその若者には目も暮れず、一直線に母の所まで駆けて行き、その太腿に抱きついた。
「あらま、この子は。しょうがないわね。お客様よ、ご挨拶は?」
「こんにちは」
母から離れると母を背に振り向き、僕は深くお辞儀をする。そして、顔を上げ、その若者と向き合うと、二つの目が合わさった。
僕とその若者、その二人の目が合った瞬間のことだった。
僕の耳の奥で強い耳鳴りが起こった。
キーンと頭中に嫌な音が響く。
頭が割れそうだ。
周りの音が全く聞こえない。
何かが自分の中で起こっている。
体が金縛りにあったように動かない。
閉じた目を開けたはずが、周囲の様子が全く映らない。
何かに体を支配されているのか、急に手足が激しく動き出したのが分かった。
声も出ず、体の動きを制御出来ない。
何が、何が起こっているのか。
もう、僕は死んでしまうのだろうか。
誰かに手を伸ばしたい。助けて欲しい。
助けて!
そう思った瞬間、我に返った。
ゆっくり目を開けて、顔をあげる。
すると、目の前には肩から血を流した若者が傷口に手を当ててしゃがみ込んでいる。
うなる若者の後方を見ると、絢が大声で悲鳴を上げ、手で顔を覆ったかと思うと、その場で気を失った。
「桜生……」
つぶやいた声に後ろを振り返ると母が蒼白した顔でしゃがみ込んだ。
僕はそれらをスローモーションの様に自分の目に写すと、目を閉じ、そのまま気を失った。
——車や電車が行き交い、人々が忙しなく行き来しているような喧騒。
決して不快ではない。
どこか懐かしい感覚。
窓の外からいつもの朝が始まる音がする。
起きなければ…。
そう思った時。
ガタンっ。
部屋の家具に何かがぶつかる音。
「お前、息子のくせして、口答えかっ」
怒鳴る声。
殴られた兄が倒れる鈍い音。
自分の全身の血の気が引いていくのが分かった。
このやり取りは恐らくダイニングからだ。
自室を出て、急いで兄の元へ向かう。
ダイニングに入ると、土下座をして父に懇願する兄とそれを立ったまま凄まじい怒りの形相で見下ろす義父ちちがいた。
「お兄ちゃんっ」
私はすぐに兄の傍に寄り添う。
「楓かえでさんには、もう近づかないで下さい。関わらないで下さい。お願いします」
それに反応し、義父は兄の頭髪を掴み、兄の顔を無理矢理上げさせた。
「俺は、女に手をあげないって決めてる。ちょっと、金蔓を見つけたから相手になってもらっただけだ。脅せばいくらでも出てくるからな」
「彼女は……楓さんは……ッ」
珍しく兄は義父には刃向かっている。
義父は「まあいい」と兄の言葉を遮って続けた。
「これからは、お前がその楓って女から金を俺に横流ししろ。そうすれば、その女に近づかないことにしてやろう」
「……わかりました。その約束でお願いします」
義父は兄の頭髪を掴んだまま兄を振り投げた。
されるがままの兄はテーブルの脚に体をぶつけて倒れた。
「お兄ちゃんっ」
ああ、これは見覚えのある場面だ。
今とは違う、以前、女性として生きた人生。
兄はこの後、結婚直前で婚約者の楓さんと別れ、それ以降、決して恋人を作らなかった。
優しい兄。
私たち二人は、常に義父に怯えながら生活していた。
そして、兄は私たち兄妹二人暮らしの生活を守るため、いつもあの憎い男の相手をしてくれていた。
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