幸せを諦めないで(旧)日陰ぼっこ〜前世では許されなかった恋を君と出来たなら桜の木陰で君と未来を語ろう〜

沙 励按(シャ リアン)

第一章

第1話

 誰かお願いです。

 お兄ちゃんと私の平和な毎日をお守り下さい。

 義父ちちという災から私たち兄妹の幸せをお守り下さい……。


「ガハッッ……」


「お兄ちゃんっ」


 義父ちちにみぞおちを思い切り蹴られ、壁に叩きつけられた兄の元へ、私は急いで駆け寄った。

「ゔぅッ……」と唸り続ける兄は、背中を丸めてうずくまり、もう言葉すら発せない状態だ。

 さらにこちらに近付いてくる義父を溢れそうな涙を必死に堪えて見上げた。


 もう、こんなの嫌だ。


 だが、義父が決して女性に手をあげない事は分かっている。

 この場を早く治めるために、私は兄の体に自らの体を覆い被せた。


「やめて下さい。……もう、やめて。お願いです」


「チッ」と舌打ちが聞こえると、


「3日後だ。用意しとけよ。ったく、三十もだいぶ過ぎた兄妹が抱き合って、へっ、気持ちわりぃ」


 と言い捨てたのが聞こえると、しばらくして義父が部屋を出て行ったのだろう、ドアが閉まる音がした。


「お兄ちゃん……」


 声を掛けるが気を失っているのか、兄の返事はない。

 私は誰にも助けを求める事が出来ず、ただうずくまった兄の傍らで声を掛け続けた。





「おうせ……」


「桜生おうせいちゃ……」


 僕は誰かに呼ばれている気がして目から少しずつ光を取り入れようと瞼を開けていく。

 いつの間に眠っていたのだろう。


 しかし、次の瞬間、自分の傍に男性の姿を認めると、同時に凄まじい恐怖心が込み上げてきた。


 義父あいつだ。


 僕はその恐怖のあまり、反射的に体を起こし、彼から離れようと臀部を引きずって後退りをした。


「やめて下さい、やめて……」


 僕は顔を両腕で隠すように構え、相手の反応を待った。


「桜生ちゃん、僕だよ。緑助だよ」


 「分かる?」と問われても夢か現か判断できない。

 「大丈夫だよ。桜生ちゃん」と彼は固く緊張した僕の腕を顔の前からゆっくりと解いていく。

 そして、僕の片手が彼の温かい両手で包まれた。

 僕はやっと顔を上げて彼の姿をじっくり観察した。


「旦那さん……」


 いつもの落ち着いた面持ちで、にっこり微笑み返してくれたのは、僕が奉公させてもらっている、ここの薬屋の店主緑助りょくすけだった。


「うん。大丈夫みたいだね。かなりうなされてたよ。また、前世の悪夢かい?」


 僕は首を縦に振り頷いた。


「いつの間にか寝てしまっていて」


 ふと、手首に痛みを感じる。


 「旦那さん、驚かせてすみませんでした」と僕は続けて謝ると、緑助が温めてくれている右手の手首をみた。

 先程の悪夢の為か手首に巻かれた桃色の紐の下が赤く傷付いている。


 そして、それを確認すると寝着一枚だった僕は、全身に汗をかいていることを知った。

 雨が軒を打ち、それが土に滴って落ちる雨音、草木が雨に打たれる音色、梅雨前の長雨が外で様々な雨音を奏でていた。



 ———-旦那さん、……最後に三つ、お願いがあります



 僕は二十日前のことを思い返していた。

 果たしてこれで良かったのか、もっと他に……。

 いや、考え抜いた末の決断だ。

 もう旦那さんにも伝えた後だ。

 これできっと上手くいく。


 そう自分に言い聞かせた。

 今日も相変わらず床の上だ。


「桜生ちゃん、入るよ」


 障子の擦れる音がして緑助が入ってきた。

 彼は小さなお盆を手にしていた。

 そのお盆の上に小さな器と薬包紙が置かれているのを確認すると、僕は障子越しに外が既に暗くなっているのを知った。


「もうそんな時間になったんですね」


 僕は寝床の上で上半身をゆっくり起こした。

 緑助は、寝床の側にお盆を置くと、長い腕を僕の背中に回し、ゆっくり抱き寄せた。


「…………」


「旦那さんにはこの件で、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。後の事を宜しくお願いします」


 らしくもなく無言のままの緑助に戸惑い、僕は口を開いた。


「桜生ちゃん……今までありがとう。君の体はかなり弱ってるし、体自体は12歳の少年だよ。本当はもっと命を大切にしてほしい」


「分かってます」


 僕が答えると、緑助はもう一度、僕を力強くぎゅっと抱きしめ直し、腕を離した。

 そして、緑助は僕と目を合わせると優しく微笑んだ。


「後の事は任せて……」


 それだけ言い残すと、緑助は立ち上がり僕に背を向けた。


「これまで大変お世話になり、ありがとうございました」


 僕は床の上で膝を揃え、頭を深く下げた。緑助が無言で部屋を出て行った後もしばらく頭を上げることが出来なかった。


 その後、僕は決心が鈍らないうちにと、側に置かれた薬包紙を手にとり、それを開くと中の粉末を見つめた。

 これで、僕の北山桜生きたやまおうせいとしての人生を終えることが出来る。

 もう決して会うことのない絢、母さん、姉さん、春兄。二葉さんや竹吉さん……。

 皆んなの幸せを祈っています。


 心の中で呟くと、薬包紙の上の粉末を一気に口に入れ、水で流し込んだ。

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