旅立ち




「──行ったのかい」


「うん」


 アーシェは丘の上に座っていた。

 首にはペンダントを下げて、それ以外は何も変わらずに座っていた。

 シーラが去っていった空を眺めながら、胸に去来するのは少しの寂しさだ。

 シーラなら大丈夫と言ってくれたアンを疑っている訳ではない。ただ、せっかく知り合えた人が遠くに行ってしまった事が寂しかった。

 世界樹ユグドラシルに行けば再開できる。そう思っても今この時の寂しさは多少誤魔化せても変わらない。


 そんな思いは今まで抱いた事が少なかったものだ。

 そもそもが別れという経験がないのもある。アーシェは今まで村から出た事がないのだ。当然ながらお別れもしたことがない。

 強いて言えば、村に訪れる行商人たちくらい。

 時間にすれば、シーラとの語らいは行商人たちよりも少ないくらいだった。けれど、その密度は比べ物にならないくらいアーシェの心に残っている。


 だから、という訳ではないが、その気持ちを大切にするように、ちゃんと再び会う時のためにそっと胸を抑える。

 握り締める掌の暖かさを感じて、ふと見下ろせばルーン文字がある。


「あ、フィグ婆。手貸して」


「ん?」


 言われるがままに差し出されたフィグ婆の手を握って、アーシェは呟いた。


「『移譲』」


「ああ、返してくれたんだね」


 ぽわんと光が繋いだ掌から発されて、アーシェの手の甲に刻まれていたルーン文字が消えてフィグ婆に移る。アーシェが返したのは主神の大槍グングニルの所有権と言われたもの。

 借り物と言われたのだから返さねばならない。持ち逃げしたい気持ちが脳裏に過らなかったといえば嘘になるが、思わず苦笑いして首を振る程度には抵抗感がある。それだけの事であるのに、少し安堵したようにフィグ婆は息を吐いた。


「どしたの?」


「ん。力を持てば変わってしまう者もいるってだけさ。人を見る目はあるつもりだけどね」


 それだけ言って、杞憂が杞憂に終わった事に対する安堵を込めてフィグ婆は笑った。少し自嘲気味な笑みではあったが、その心中の全てはアーシェには読めなかった。


「消滅の魔女、か。トンデモない厄日だね」


「そうかな。──わたしは会えてよかったよ」


 ニッと笑いながらアーシェは思う。

 何故みんながそれほどシーラを恐れるのか。

 それはアーシェにも理解できる。人は未知を恐れるし、何より悪人とみんなが言うならそういうものと思ってしまう気持ちも理解できる。けれど、シーラを知ってしまったアーシェにはもう無理だ。彼女を悪人だと言ってしまう事はもう出来ない。

 出会い方が特殊であったからかもしれないが、それはアーシェにもわからない。これから先の中でシーラとの付き合いがある事は何かの障害になるのかもしれない。彼女との約束を果たす事が許されない事があるのかもしれない。

 でも、会ったことに後悔はない。これでアーシェの道行先が変わってしまったのだとしても、アーシェの選択は変わらない。

 自分の選択を誇るように、アーシェはその手を再び空に翳して二つの半月を同時に握った。



「よし。行こっか」


『荷物はそれだけで良いのですか?』


「うん。元々そんなにないし」


 アーシェの背負うのは身体相応の小さな鞄が一つだけ。

 旅をするなら様々な日用品が必要であるのだが、森での野宿にも慣れているアーシェからすれば食料や寝床などは現地調達で良いし、貴重品は言わずもがな皆無。村では通貨を使わず物々交換であるため、お金だって無一文だ。着替えと武器とその他の雑貨程度で十分。そのくらいなら小さなカバンでも十分に補えた。

 けれど、少し心配があるとすれば経験がない事だ。


「街かー、まだ行った事ないんだよね」


『ここから近い場所というと。・・・どこでしょう?』


「えっと、レースタリアって言ってたかな?」


 唇に指を当てながら思い出すのは近隣都市の位置関係だ。

 アーシェの村。名前はリーフレーシュと言うが、周囲には幾つかの同じ規模の村落が点在し、都市もある。

 その中でアーシェが目をつけているのがレースタリア。

 いわゆる貿易都市である。


 ──ユースウェア連合国が誇る南部最大都市レースタリア。

 古代語で麗しい女神を意味する名前を持ち、南部の心臓部とも呼ばれる都市は交通の要衝となっている。


 主な産業は流通である。

 それによって得られる莫大な税収が主となる、商人の街とも呼ばれる大都市の一つ。


 それに伴って魔物の駆除にも熱心であるため、例に漏れずであるが、周辺に強力な魔物は生息せず、平穏である。又、キリがないほど生まれる低位の魔物に対しても執拗に、草の根を狩るほど熱心に討伐依頼が出されるため、新人冒険者にとっては安く装備を整える事ができ、かつ報酬も悪くなく、不足の事態も起こり難い都市として評価が高い。高位冒険者もその流通による恩恵や様々な特権に惹かれて集まっている。


 冒険者として出発するには打ってつけと言える都市だ。


『なるほど。・・・まぁある程度は私がわかりますから、大丈夫でしょう。多少情報が古いですが』


「そう?じゃあ、頼りにしよっかな」


『お任せを』


 優雅に明滅するアンの言葉を聞きながら自宅であるテントを潜って大門に向かう。


 通り過ぎる家々は見慣れた光景だけど、これが最後と思えば少しの感慨深さと寂しさがあった。時折出会う村人と手を振ったり、挨拶をしながら道を進めば、大門の前には勢揃いした戦士団の面々が思い思いに過ごしていた。

 期待はしていた。けれど、待っていてくれた事に少し驚き目を見張るアーシェに声がかかる。


「──おっ、今日の主役の登場だな」


「はっは!やっと来たね。ま、もっとゆっくりして良いとは思うけどね」


「あのアーシェだぞ?足踏みするかよ」


「いいじゃんいいじゃん。盛大に送ってやろーぜ!」


「アーシェが寂しがらないようにな」


 ガヤガヤと騒がしい喧騒を生み出すいつもの面々。

 エドガーから始まって、メイニー、リンネル、ランドル、リュイドの声が大門前に集まって思い思いにそう言う。彼ら以外にも勢揃いした戦士団のみんながわいわいと声をかけてくれるのを聞いて顔が綻んだ。


「みんな、来てくれたんだ」


「当たり前だろ?お前も、俺らがそんな薄情とは思ってなかったろ」


「にひひ、うん。でも、待ってくれたの嬉しいよ」


 ニヤリと笑って続けるリュイドに向かってアーシェも笑いかける。

 リュイドの言うように、みんなが見送りに来てくれるとは思っていた。でも、それが実際に来てくれた時の喜びを薄れらせる事はない。むしろ期待していたからこそ、待っていてくれた一層の嬉しさがあった。


「──ま、仕方のないこったね。ほら、餞別だよ」


 ポーンと放られた袋をキャッチすれば、放物線の出所にはシワシワの顔立ちのフィグ婆がいつも通りの不機嫌そうな表情で立っている。


「別に要らなきゃ捨てな。適当な薬と貨幣を入れといたから、無駄になるこたーないと思うけどね」


 両手で握った杖を地面に突いて、そんなことを言いながらもやっぱり表情は不機嫌そうで。でもそれが気遣いであると知っているからアーシェは笑った。


「ありがとう、フィグ婆」


「ふん」


 鼻を鳴らして、でも場から離れる事もない。

 いつもなら要件さえ済めばすぐに薬師の仕事に戻るのに、今日はシッシと椅子に腰掛けていた戦士団を追っ払って腰掛けるのはアーシェを見送ってくれるつもりだからだろうか。

 視線が合えば、また不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。


「アタシらからはコイツだね」


 褐色の肌に赤髪黄目。

 戦士団を代表したメイニーから差し出されるのは一つの紋章だった。


「んっ。これって」


「ああ。まぁ材質はただの鉄だけどね。領主様も認めた、戦士団としての身分証みたいなもんさ。これをあんたに預けるよ」


「────」


 それはアーシェが何かすれば村の責任になると言うことでもあり、逆に功績を上げれば村の名が上がるという意味でもある。

 どちらにせよ、信頼がなければ預けられない代物。

 受け取らない選択肢はない。期待に応えたいし、都市に入るには身分証が有ったほうがいい。けれどその分の事情を理解すれば、受け取る仕草は慎重になった。


 辺境を意味する文字と、3枚の木ノ葉が縦列に、けれど左右の2枚は斜めになって並んだ紋章。大切に袋に仕舞い込んでメイニーと視線を合わせて笑い合った。


「アーシェ。あんたなら大丈夫だとは思うけど、無茶しちゃダメだよ」


 心配してくれているのが嬉しい。そんな気持ちのままにアーシェは笑った。


「にひひ、うん!」


「って言いながらまたするんだろうね。ま、死ぬんじゃないよ」


「信用ないなぁ」


 苦笑いするけど、確かに否定できない。赫怒種タウロスの時もついつい動いてしまったし、いざとなれば勝手に身体が動きそうだ。でも、きっとそんな事はメイニーもわかっているのだろう。ただ言わずに居られなかっただけで、それくらい理解し合えている間柄だと思う。これはもう性分だから変えられない気がする。


「アーシェ」


 呼ばれて、リンネルから向けられた握り拳に向かってアーシェも同じように握り拳を向ける。ごつんと拳がぶつかり合ってジンジンとした熱が響いた。


「行ってこい」


「うん、行ってきます」


「おっ、それいいな。俺ともやろーぜ!」


「ん!」


 ランドルとも拳を合わせて、互いに笑い合う。

 多くの言葉は要らない。これまでの積み重ねがそれを肯定する。


「──アーシェ」


 呼ばれて向いた先には、エドガーが立ってる。

 腕を組んで、厳しい顔で、ギュっと眉間に皺を寄せている。

 まるで何かを堪えるように。


「お前がウチに入ったのも、もう2年も前のことだ」


「うん」


「時間が経つのは早え、なんて言っちまうと年寄り臭いが」


 苦笑いしながらエドガーが続ける。


「振り返ればあっという間だったぜ。俺の持てるもんは全部お前に教えたつもりだ。──思う存分に冒険して来い。お前にはその資格がある」


「──うん。行ってきます」


 ぐっと突き出された拳に、ごつんと拳を合わせる。

 少し迷ったように、ちょっと照れくさそうなエドガーの手が伸びて頭をガシガシと撫で回される。

 目を細めて受け止める心地良さがあった。

 しばらくの間があって、離れていく掌の感触。言うのは恥ずかしいけど、少しの寂しさがあった。視線で追いかける掌はどんどん離れていく。でも、撫でられた場所がほんのりと熱を持ったように感じられて、寂しさを隠すために笑った。


「行ってきます!」


 もう一度、大きな声でそう言った。

 胸に灯るのは幾つもの灯火。

 寂しさもある。後ろ髪を引かれるような躊躇もある。決して前に進む決意だけではない感情がある。それでも、前に進みたいと思うのはアーシェがわかっているからだ。冒険がしたいと、知りたいと、前に進みたいと願うからだ。

 その気持ちがある限りアーシェの足は止まらない。見知らぬ場所にだって一歩を踏み出せる。



 大門が開かれる。

 仕掛けで持ち上げる形のシンプルな仕組みだ。

 木で組まれた各所が軋む特有の音が響いて、門が全開にされた。

 普段なら通れる分だけしか開かないのに、今日は全開。大門の両脇に立つ塔を見上げれば、左右の開門役の男たちが親指を立ててサムズアップしていたので同じようにグッと親指を立て返した。


 大門を潜る。

 それ自体は慣れたものだ。何度も森に入る時に潜っている。でも、今日はいつもと違う。最初で最後になるかもしれない、旅立ちのための歩みだ。見納めるようにゆっくりと潜って。


「アーシェ!!」


 聞こえた声に振り返った。

 期待があった。お別れが言えないのかもと半ば覚悟すらしていた。

 でも、来てくれた喜びが胸をいっぱいに埋める。


「ヨハネ!!」


 歩いてくるのは金髪を輝かせる少年。

 ヨハネが門を潜ってきてくれた姿が見える。駆け寄って門前で向かい合えば、照れくさそうにヨハネが口を開いた。


「待たせてごめん。屋敷の方でちょっと手間取って」


「ううん!いいよ、来てくれたじゃん」


 首を横に振って答える。

 ヨハネが領主様の反対を押し切ってこの場にいる事は簡単に想像できる。それでも今この場に立っていると言う事はそれらを度外視して動いてくれたと言う事。

 ──それに。


「ヨハネ、ありがとう。昨日も無茶してくれたんでしょ?」


 にひひと笑いながら思い出すのは主神の大槍グングニルのこと。フィグ婆に軽く事情を聞いたけど、領主様はやっぱり反対だったらしい。それを無理やりに通せたのはヨハネのおかげと言っていた。詳しい事情はわからないけど、ヨハネが動いてくれたと知って胸に去来したのは納得感と感謝だった。ヨハネが動いてくれる事に違和感はない。それだけの信頼があって、代わりにどれだけ覚悟して動く必要があったのかも、アーシェは知っているから。


「大した事してないよ、ほんとにね。アーシェみたいに命懸けで頑張ったわけじゃないし、ボクもあれくらいはしなきゃね」


 照れくさそうにヨハネが笑う。でも、どこか晴々とした笑い方だった。

 長年の積み重ねがあった。父親に逆らわず、綽々と従い続けてお人形のように過ごす日々。それが変わったのはアーシェの涙を見た日から。少しずつ少しずつ変わって、やっと昨日、初めて逆らうための勇気を出した。

 ──だから。


「やっと、アーシェに本当の名前を言える気がするよ」


 差し出した手を握ってアーシェは微笑んだ。


「聞かせて」


「ジャンヌ。それがボクの、ううん。私の本当の名前」


 少年ヨハネは、いや。

 少女ジャンヌはそう言って花が咲くように笑った。


「にひひ、やっぱり女の子だったね」


「うん。騙しててごめん」


「いいのいいの。友達って事には変わりないもんね」


「・・・それはどうだろう」


「えっ」


 ──別に、女同士だって構わないだろ?

 なんて口の中でだけジャンヌは呟いて、驚き少し傷ついたような表情のアーシェにはまだ早いと薄ら柔らかな笑みを浮かべた。


「親友って事じゃダメかな?」


「っ!うん!もっちろんいいよ!」


 ドッと安堵が溢れてきて、お騒がせなジャンヌに笑いかける。

 まさかまさかの、友達じゃないなんて事を言われると想像してしまったけど、そんな事あるわけがない。ヨハネ、ううん。ジャンヌは村を出てもきっと一番の友達。親友なのだから。


「じゃあ、これがボクからの餞別。受け取ってくれる?」


「これって石?」


 握り合った掌を経由して受け取ったのは白濁色の石だった。

 太陽に透かせば半ば透けるが、基本的には濁った白色をしている。ジャンヌがくれるなら何でも嬉しいけど、あえてジャンヌがこの石を選んだ理由はなんだろうか。少し考えて、記憶に思い当たるものがあった。

 特徴が合致する一つの石を思い出す。


「もしかして、アーティライト?」


「おっ、よく知ってるね。そう、導きの石だよ」


 ──アーティライト。

 通称は導きの石。夜中になれば光り輝くという不思議な性質を持っている。

 何より有名なのはその逸話。


「かの詩人アルフレドの一節に出てくる石でもある。『汝の行く先に瞼が開かれんことを』ってね」


 石言葉というものがある。

 アーティライトはその由来と性質から暗き道を照らす石。旅立ちの石とも呼ばれる。だから選んだんだと言外に教えてくれるジャンヌに思わず顔が綻んだ。


「ありがとう。大事にするね」


「少しでも不安が晴れるといいな。アーシェなら大丈夫だと思うけどね」


「ううん、嬉しい」


「なら、良かった」


 僅かな間があった。

 話が終わってしまえば、もう行かなくてはならない。そんな事を思う時間があった。旅立ちに別れはつきもの。頭ではわかっていても、いざその時になれば足踏みをしてしまう。そんな気持ちすら受け止めながら、アーシェは仄かに笑った。

 寂しさと旅立ちを天秤に掛けた訳ではない。でも、行かなくてはならないから前に進むんだ。


「ジャンヌ。行ってきます」


「うん、行ってらっしゃい。──待ってるよ」


 最後にぎゅっと手を握りしめる。熱い温度が掌を行き来する。

 離れる瞬間は温度以上の切なさがあった。

 ジャンヌの方を振り返って言う。


「うん、信じてる。──とびきりの英雄譚も聞かせてあげる」


 いつの日かの夜のように、アーシェはニッと幼い笑顔を見せた。

 月明かりの代わりに、陽光が燦々と照らし出す金髪翠眼が煌めくように視界を彩る。そんな光景を見ながら、ヨハネが──、ジャンヌが思うのもまた同じ事。


 ──ああ、綺麗だなあと。

 見惚れながら、ジャンヌは女の子の顔で笑った。

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