幕間:白髪赤眼
豪奢絢爛な大広間があった。
壁には細やかな細工と文字が刻まれ、湾曲する広い天井には美しい基調の彫刻が彫られている。
それは嘗て神々が世界を創世した神話をモチーフとしたもので『始祖の巨人ユミル』『始祖竜オーズマディル』『天空神プラネタリア』などの創世記の存在から始まり、『主神オーディン』とその兄弟である『ヴィリエッリ』と『オルヴェール』の姿までもが描かれていた。
そのレリーフの内の一枚を見てみよう。
そこには原初の光景が刻まれている。
──始まりの前には何もなかった。
青空も、太陽も、星も、空気も、植物も、人や動物も、神々でさえも、今や当たり前の天や地すらもなかった。
無形の、形のない霧と霜の世界と、絶えず燃え盛る炎の世界があるだけだった。
極寒と高熱が領分を侵し合い、鬩ぎ合うだけの世界である。
北には『ニブルヘイム』と呼ばれる世界があった。
暗黒に覆われており、そこには11本の毒の川が流れている。
霧の中を彷徨うように、つらつらと宛てもなく流れ出る毒の川の始流には一つの泉があった。
『フェルゲルミル』と、その泉が呼ばれ始めたのはいつのことなのか。それは定かではないものの、泉に与えられる名は決まっていた。
ニヴルヘイムの中心にある『フェルゲルミル』から流れ出る川は、恐ろしく冷たく凍える極寒の大地でも凍結せず流れ続けて、もう一方の世界に辿り着いていた。
もう一方、つまりは南である。
そこには『ムスペルヘイム』と呼ばれる世界があった。
まさしく豪炎。燃え盛る火そのものの大地だった。何もかもが眩しく輝き、瞳があったのなら瞬時に焼き切れるだろう。焼け散る火花だけがムスペルヘイムの空間を彩るのだ。
ムスペルヘイムには毒水の代わりに溶岩が流れている。
轟々と噴き出る甘泉はおどろおどろしい真っ赤に色付けられ、粘り気のある熱を放出し続ける。あまりにも熱い世界であるから、溶岩が固まることすらない。果てしなく流れ続ける先には、やはりと言うべきか、対となる『ニヴルヘイム』があった。
その二つの世界の境界。
溶岩と毒水の流れ込むその辺りに、神々すら存在しない頃から一人の巨人が立っていた。
かの巨人の名を『スルト』という。
知らぬ者の居ない、『巫女の予言』にて、世界を滅ぼす巨人の名である。
彼はその手に燃える剣を持ち、いつも佇んでいる。
世界の終わりである『
スルトの仇敵である竜族すら、その時には倒れ伏すしかないだろう。
その、二つの世界が合流する地点。
そこで『始祖の巨人ユミル』は産まれた。
──何もない場所。
そう名付けられたのは『ギンヌンガガプ』と呼ばれた空間だった。『大きく開いた裂け目』という意味をも持つ。
ユミルはそこで産まれた。
毒水と溶岩が流れ込み、凍りついた大地が溶けて水となり、再び凍りつき、そして溶け、流れ込み続けて、裂け目はいつしか埋まり果てて、その先にユミルが産まれた。
時間という概念すら希薄であった頃の話である。
炎と氷は双方共に優勢で、境目ではその日の気分によって方向の変わる風見鶏のように、行ったり来たりを繰り返していたのだから、たまたまユミルが産まれるまでの、気の遠くなるような話だった。
ユミルと同時に雌牛も産まれていた。
とてつもなく大きな巨人に成長するユミルであったが、当然ながら、産まれた頃は赤子だった。乳がなければそれ以上の大きさには成長出来なかっただろう。けれど、幸いなことに、同時に産まれたこのツノのない雌牛は途方もないほどの巨大さを誇っていて、雌牛は塩を含む氷の塊をなめるように食べて、乳を川のように出した。ユミルは赤子の時分をこの乳を飲むことで賄い、さらに大きく育った。
そして、考える知能を得るまでになったユミルは、この雌牛に名を付ける事にし、親しみと敬愛を込めて『アウズムフラ』と呼んだ。『豊かなる、角なし牛』という意味であった。
──1枚目のレリーフは、ここまでの神話である。
ちょうど、我々が目にしたレリーフを見ている女が居た。
たった一人で、大きな空間にあるただ一つの椅子に腰掛けて、行儀良く両手を腹の前で組み合わせて、穏やかな表情で天井のレリーフを見上げている。
絢爛な周囲の装飾とは裏腹に、彼女の装いは質素であった。
貫頭衣と呼ばれる、二つに折った布の中央から頭を出し、両の手を横に広げて着る簡易的な衣装だった。
布の素材に関しては非常にきめ細やかで彼女が高貴な立場であることがわかるが、それにしては装いが質素にすぎた。
金の細工一つすら身につけず平然と微笑んでいる。
だが、見窄らしいという印象を周囲に与えることはなかった。
彼女はあまりにも美しかった。
神々が直々にその槌を振るい、大理石から切り出したかのような整った
その相貌を前にすれば、どんな装飾ですら霞むより他ないだろう。容姿だけを切り取っても、まるで神々から祝福されたとしか思えない風貌。
透き通る白き御髪に、鮮烈な赤の瞳。伝説上の存在たる『永遠の魔女』と等しい特徴を持つ女。
──そんな彼女の名を、エラン・カタリアという。
今より500年ほど遡った後の、歴史上におけるアールヴ神族の代弁者であり、『
「・・・良い、魔力ですね」
ポツリと、静寂の中に彼女の声音が響いた。
広すぎる空間は瞬く間に音を吸収し、溶けさせた。
寂しさすら感じられるその空間を前にしながら、しかし、彼女の表情は変わらない。誰も聞く者がいない場所で、目にする者がいない場所で、穏やかな表情を浮かべ続けている。まるでそれしか表情を保ち得ないとでも言うかのように。
「これほどのキッカケであるならば、わたくしも、一つ手を打つべきでしょうか。──シルヴィウス」
「はっ、御前に」
返答は呼び声と同時だった。
まるで、初めからその場に居たかのように、瞬きの間すらなく空間を割って姿を現す男があった。
流れるような仕草で玉座に跪き、首を垂れる様は『騎士』に相応しい洗練された動きである。騎士が割った空間が、パラパラとこぼれ落ち、地面に触れる前に溶けて消えた。
──よく見ればそれは空間などという不確かなものではなく、氷である事がわかった。
如何なる方法で跳んできたのか、あるいはそもそもこの場に居たのか。それは当人たちにしかわからない。
「わたくしの、氷晶の騎士。あなたの意見を聞かせてください」
「はい。僭越ながら申し上げます」
二つ名の示す通り、涼やかな声で男は続ける。しかし、忠誠に満ち溢れる所作とは真逆に、主人とは正反対の意見を。
「動かざるべきかと、愚考いたします」
「あら、わたくしと、意見が別れましたね。・・・他の者にも、聞いてみましょうか」
「はっ、それも良いかと存じます。・・・しかし、何故『此度』はそのように仰るのですか」
過去に幾度もあったことだ。魔力の発露の規模として今回は規格外ではある。しかし、月日を経るにつれてその頻度は下がっているが、以前にも似たような出来事は起きている。その際に騎士の主人は穏やかに微笑んだまま動かなかった。それゆえの疑問。
己の騎士から告げられたその問いに、薄らと笑みを浮かべながらエラン・カタリアはこてりと首を傾げた。
「だって、退屈なんですもの」
童女のように、笑っていた。
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