イレギュラー



 完全なる予想外。

 イレギュラーな存在がその姿を露わにすべく蠢き、森が騒めいた。


 エドガーが血を吐くような形相で叫んだ。


「総員退避ッ!『大罪の系譜ギルティ・ツリー』だ!!」


 その言葉は遅かった。

 軽快な動作で、その魔物は姿を現した。


 白濁色の瞳をしている。

 大きさはエドガーと同じくらいだった。魔物にしては小柄で『アラク・リザード』より何倍も小さい。


 捻れるツノを持っている。

 ゴリラと牛を掛け合わせたような不気味な風貌に、獣は満面の笑みを浮かべている。

 真っ黒な体毛で覆われているその身体が、アーシェたちを前にして。


 ──唐突と言える速度で、ボグンと音が鳴りそうなほどの勢いで膨張した。

 下半身はそのままに、上半身だけが異様なほどに膨張していく。


 その中でも右腕が何十倍にも大きく膨らむ。森を影で覆うほど天高く振り上げられた拳が、シンプルに上から下へと振り下ろされた。


 標的となったのは、振り上げられた拳の下に居たのは『アラク・リザード』だった。

 避ける素振りを見せずに暴れ回っていた、その、丈夫な甲殻に覆われていたはずの魔物が何の抵抗も許されず、ブチュンと音を立てて地面と拳とのサンドイッチで弾ける。


 巨大な拳から溢れて勢いよく飛んだトカゲの頭部がアーシェの前に転がった。


 瞬きの間に絶命したBランクの魔物。

 圧倒的捕食者の出現に真っ先に動いたのはエドガーだった。


「アーシェ!!逃げるぞ!!」


 エドガーの声を聞いてハッと足を動かそうとしたアーシェの前に。

 再び身を縮小した捕食者が姿を見せる。


 トカゲの頭部を捕食しにきた。そう思いたかったが、スローに見える世界の中で、獣が白濁色の瞳をギョロつかせて顔をアーシェに近づけてくる。スンスンと何かの匂いを確かめるように鼻の穴を動かしている。


 逃げろ。逃げろ。逃げろ。

 命じる意志とは裏腹に。


「あああッ!!」


 ──目前に迫る敵に対して、アーシェは内から湧き上がるような恐怖を打ち消すように声を上げて全力で剣を振り抜いた。

 同時に駆け寄ったリンネルの長槍が、メイニーの戦斧が、獣に襲い掛かる。


「しッ」


「おらァッ」


 仕切りに鼻を動かし続け、動きを止めている獣に三人の攻撃が当たる。

 渾身の攻撃だ。

 予期せぬ遭遇とはいえ、その程度で培った技術は裏切らない。


 ──だが、無傷。

 分厚い毛と肉に覆われた腕や身体には傷一つ付かない。


 掌から伝わる衝撃は、胸中に生じた衝撃よりも格段に小さい。攻撃が通らないなど勝つ術が思いつかない。


「・・・嘘、でしょ」


「・・・バケモンかよ」


「これはヤバいねぇッ」


 三人が危機感から言葉を発して、彼女らの背後から大きな一喝が飛んだ。


「馬鹿野郎!!逃げるんだよ!!」


 エドガーから発せられた怒号に我に返った三人が一斉に下がった。

 迅速に後退に入る。

 アーシェが、リンネル、メイニーと一緒に逃げるために駆け抜ける森の背後で。


 何故か動きを止めたまま、何度も何度も、スンスン、スンスンと鼻を動かす異様な仕草を見せる怪物の姿があった。




「何やってんだ!?見たら逃げるが大原則だろうが!!」


「ご、ごめん。エドガー・・・」


「す、すみません、団長」


「悪かったよ、団長。アーシェがやられるって思ったらつい咄嗟に身体がさ・・・」


 平謝りするアーシェとリンネル。

 バツが悪そうに頬を掻くメイニーに対して、噛み殺すようにため息を漏らしたエドガーが、アーシェに向けて心配そうに視線を向けた。


「アーシェ、大丈夫か」


「う、うん、大丈夫。・・・あれ、何?ヤバいってことだけわかる」


 見た事がなかった。

 森の中には何度も入った事がある。それでも、あんなにヤバいと思った魔物は見た事がない。


「戦士団に入る前に言った筈だがな。──『災厄の魔物ディ・アスター』の未熟児みたいなもんで『大罪の系譜ギルティ・ツリー』とか、『大罪の魔物ギルティ・アスター』って言われてる一種だ。あれの名前は『リトル・アングラ・タウロス』。・・・あれも、分類的にはBランクだ」


 ──憤怒の大罪。

 赫怒種タウロス


「あれがBランク!?」


 アーシェが思わず叫んだのは、先ほどの『アラク・リザード』と同じ区分であるからだった。

 あれほどの威圧感だ。Aランク、あるいは最上位のSランクかとも思っていただけに衝撃が大きい。

 エドガーが当然のように頷きを返す。


「ああ、そうだ。だが、文句なしにBランクのテッペンだよ。まぁ他の大罪種も似たり寄ったりのヤバさなんで、上位はそいつらが占拠してる訳だがな」


 大罪種。

 合計で六種族も存在する怪物たちの総称である。六種族の最上位ランク帯は文句なしのSランクとして『ミッドガルド』に君臨するが、その系譜は未熟である筈のBランクという括りにおいても弩級の危険度を誇る。


「・・・あんなのが、他に五種も・・・」


 アーシェの戦々恐々とした呟きにエドガーは頷いた。


「この森と地続きになってる『深みの森』には大罪種がワンサカ居るらしい。誰も見た事がないから噂だけどな。・・・だが妙だ。なんでこんな浅いトコにまで出てきやがる?」


「お腹すいた、とか?」


「いや。詳しくは知らんが、あまり奥から出てこないんだよ。居心地が良いからだと俺は勝手に思ってたが、どうやらそれも今日までか?」


 悲痛な沈黙が場を満たして、エドガーが慌てて続けた。


「・・・いや、ほら、冗談だぜ?たぶんだが、生態系かなんかが変わったんだろ」


「って事は、あれよりヤバいのが奥には居るって事ですか・・・」


 生態系が変わったと言う事は、あれほどの化け物が住処を追われたという事だ。

 恐ろしい事実を知ったとリンネルがさらに怖々と言うのを、エドガーが首を横に振って答える。


「例え話だ。・・・しっかし、あんなのが出たってなれば、おちおち狩りにも出られねーな」


 そうこう話している内に再び背後からあのプレッシャーが襲いかかってくる。

 ゾワゾワと総毛立つ背筋に振り返れば、予想通りの相手。

 引き攣った顔でメイニーがボヤく。


「ねぇ団長。アタシらに、お客さんみたいだよ。・・・ハハッ、随分と気に入られちまったね」


 視線の先には、2本の腕と2本の足を合わせた四足で駆けてくるあの魔物がいる。アーシェたちを追跡しながらスンスンと仕切りに鼻を動かし続ける『リトル・アングラ・タウロス』の姿。

 絶望的なまでの威圧を湛える化け物が、アーシェたちに狙いを定めているという、抗えない事実を前にその場の全員が痺れる。

 それでも足を止めず、走りながらエドガーが叫んだ。


「リトル・アングラ・・・なげえ!赫怒種タウロスでいいな!?」


「異議ないですけど!!これって明らか俺らに狙い定めてませんか?!」


 エドガーの怒声にリンネルが懸念を示して。


「来る」


 静かなアーシェの一言。

 予備動作を感じ取った言葉と共にタウロスが跳ねて進行上に立ち塞がる。

 右腕の拳は、先ほどの『アラク・リザード』を潰した返り血で汚れていた。


「ま、当然だけどさ。さっきの奴だねぇ」


「こんなのが、2匹も3匹も出てたまるかよ」


 冷や汗を垂らすメイニーの言葉に、リンネルが悪態を吐いた。


「──どうやら、逃げられそうにねえな」


 どっしりと腰を据えたような表情でエドガーが続ける。


「俺が食い止める。どれだけ保つか知らねえが、やれるだけやってやらあ。お前らは村に知らせろ。コイツを確実に狩るにはAランク冒険者の『チーム』が必要だからな、急げよ」


「「了解」」


 黒髪青目リンネル褐色赤髪メイニーは即座に判断する。自分達が居ても死者を増やすだけだと理解しているから。

 ──けれど。


「エドガー、わたしも──」


 アーシェは納得できなかった。今回の責任の一端はアーシェにもある。Bランクを狩りに行く提案をしたのはアーシェだ。ここで退くことは出来ない。

 そんな意志を乗せてエドガーを見つめる。


「──アーシェ。冒険者になるんだろ。今は退いて、勝てねえ敵が居ることを知れ。お前は少し自信が有りすぎるからな。・・・おめぇの鼻っ柱折るには良い機会だぜ」


 野太い笑みを浮かべた団長エドガーの姿に反論の言葉が思い浮かぶ。

 口を開き掛けて、それもエドガーの表情を見て躊躇った。有無を言わさぬ覚悟を決めた男の表情。


 開いた口を、アーシェは何も言葉を作らずに閉じる。

 奥歯を噛み締めて、頷きを返した。


「良い子だ。・・・行けっ」


 駆ける足は、鉛のように重かった。






「──アーシェ、無事か」


「・・・リュイド?ランドルも」


 暗い表情で逃げ続けるアーシェたちに合流する影があった。

 リュイドとランドル。麻痺毒で眠っていたランドルは解毒してもらったのか、溌剌としたいつも通りの表情でアーシェたちと並走を始めた。


「悪いね、日差しが気持ち良すぎて寝てたっすわ!」


「ふん。このバカ、しっかり麻痺ってやがった。・・・まぁあれは避けれなくてもしょうがねえけどさ」


「ははっ!いや、でもよかったわー。あそこで俺のせいで誰か死んでたら、『一生引き摺った』ね、うん」


 その言葉に、アーシェは鎮痛な表情で奥歯を噛んだ。

 仕切りに首を横に動かすランドルが首を傾げた。


「あれ?団長はどこだ?」


「・・・『赫怒種タウロス』とタイマンやってるよ」


 出来るだけ感情を排したメイニーの言葉に、目を丸くしたランドルが純然たる事実を言った。


赫怒種タウロス!?・・・マジ?絶対死ぬじゃん」


「ランドルッ!」


 黒髪青目リンネルが鋭く軽薄黒髪ランドルの名を呼んだ後、気遣うように視線を向けたのはアーシェが走っている後ろ姿だった。


「・・・あー、悪い」


 気遣うように、そう呟いたランドルの言葉がアーシェの胸に刺さる。


 一つだけ、確かな事がわかった。

 もしこのまま逃げたらランドルの言うように『一生引き摺る』という事。


 アーシェは足を止めた。周りの足音も止まる。

 グルグルと感情が渦巻いている。


 恐怖はある。

 見た瞬間に根源的な恐怖が湧き上がってくるのなんて初めての経験だった。今でも思い出すだけで込み上げる恐怖は打ち消せない。


 逃げるのは大事だ。

 勝てない敵に挑むなんて馬鹿げてる。

 それでも、やっぱり逃げたくない。


 まだ間に合う。エドガーなら、きっとまだ生きてる。 

 根拠なくそう思えば、もう思いを振り切る事は出来なかった。

 アーシェは軽く笑みを浮かべる。明らかな強がりの笑みだ。


「ごめん。わたし、戻る。みんなは村に報告をお願い」


「アーシェ、死ぬぞ」


 リュイドの鋭い眼差しに射抜かれる。

 それでも首を『横に』振った。


「死なない。エドガーと、生きて帰る」


 強引に笑みを浮かべる。そう信じて疑わない。

 表情は僅かに引き攣っていたが、言葉にすることで、想いは一層強まる。 

 覚悟に呼応するように、アーシェの腹部がジンワリと熱を持った。


「・・・ふふ、おい聞いたか?」


 思わずといった様子で笑みを溢したリュイドの一言に、同じように笑っている面々が続いた。


「随分と無茶言うねぇ」


「それでこそアーシェだと俺は思うがな」


 メイニーが肩を竦めて、リンネルが青い瞳を優しげに細める。


「マジ?赫怒種タウロスに勝つつもりなの?それはヤバいって」


 ランドルはいつも通り、焦りの感情を目一杯に表情に出しながらワチャワチャと身振りする。

 苦笑いするリュイドが続けた。


「・・・団長に怒られるのは覚悟して行けよ?」


「うんッ」


 無理やりかもしれない。それでも全員の了承は得た。

 身を翻して、駆け出すアーシェに並走する影が三つあった。


「一人で行くなんて、野暮なことしないだろうね?」


 メイニーがカラカラと笑いながら言う。


「俺も連れて行くよな」


 リンネルが涼やかな表情で言った。


「へへッ、もう十分すぎるくれェ休んだからなー。盾役は必要だろ」


 お調子者のランドルが、溌剌とした笑みを浮かべながら元気良く並走する。


「・・・お前ら、村には誰が報告に行くんだよ?」


「「よろしく、リュイド」」


「だよな・・・」


 並走しながら、ガシガシと頭を掻いたリュイドが続ける。


「あー、くそ!!お前ら、帰ったら浴びるほど酒奢ってもらうからな!?」


 眉を怒り上げながらアーシェたちの背中を指を差し、捨て台詞を吐いたリュイドを背後に残して来た道を戻る。

 道は近くて遠い。


(エドガー、生きてて・・・!)


 勝算はない。時間を稼ぐだけで精一杯かもしれない。犠牲が増えるだけかもしれない。

 それでも。

 必死に駆け抜ける足は、もう重くはなかった。



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