怪物


 駆ける。

 足は羽のように軽いが、一瞬で踏破出来る距離ではない。

 表情に焦燥を浮かべ、集団の中から突出するアーシェに誰も何も言わない。


 速く、可能な限り速く。

 今はただそれだけが必要だと分かっている。

 視野が狭窄しているアーシェをカバーするように、後に続く三人の戦士はアーシェを頂点として三角形を形成して進んでいる。


 そんな中で、アーシェの一声が響いた。


「──見えたッ!!」


 ギュンと急加速するアーシェに続いて、戦士団の面々が頷き合う。

 迸るアーシェの魔力を感じることはできない。特殊な技術が必要で、戦士団の面々は誰もその技術を身に付けていないからだ。


 それでも感覚で理解できる。

 今のアーシェは一味違う、と。


 それほどの力量の者が突出するなら、周りはそれをフォローするのが最善。

 戦術をシンプルに構築した戦士団の面々が、アーシェに続いて森を駆け抜けた。




 アーシェが目にした光景は、エドガーが必死の形相で槌を取り回して赫怒種タウロスの攻撃を防いでいる姿だった。

 余裕はない。だが、生きてる。


 先頭を走るアーシェがその光景を視界に収めて、本当に良かったと漏らす息と同時に、安堵で濡れた瞳が瞬く間に動揺で揺れた。


 エドガーはボロボロの姿だった。

 五体こそ失っていないが、それは悪趣味な赫怒種タウロスが嬲るためにあえて攻撃を控えているからに過ぎない。状況を理解し動揺が走るアーシェの中で、もう二度と、後悔する事だけはしないと無意識化での誓いが固く結ばれる。


 白熱するような腹の底。

 呼気は異常なほどの熱を帯びて、アーシェの口元から白い湯気の尾を引いた。

 左手に握るのは鞘。右手に愛剣の柄を握り締める。空中に飛び上がった緩やかな世界の中で、引き抜かれる刃が陽光を反射して煌めいた。


「はぁぁァァ!!」


 弧を描いた剣閃が赫怒種タウロスの体表を『斬り裂く』。


 赤い血液が宙に舞った。

 血の水滴の一つ一つが目に映るほどに鈍化した世界の中で、アーシェの目端は二重の意味で驚愕の表情を浮かべるエドガーを捉える。


 何故、戻ってきたのか。

 何故、アーシェの攻撃が通ったのか。


 表情でありありと語るエドガーではあったが、所々に傷はあるものの、五体満足の所見通りに致命傷はない。改めて胸を撫で下ろしたアーシェの身を、赫怒種タウロスの反撃が襲い掛かった。


 ──アーシェが斬り裂いたのは胴体である。

 当然ながら赫怒種タウロスに与えた傷は致命傷には程遠い。薄皮を裂いた程度に留まっている。

 そして勢いが余りすぎて、アーシェは赫怒種タウロスの拳の射程内に入ってしまっている。


 赫怒種タウロスの反撃を受け止める事は難しい。空中に浮き上がった、支えのない今の状態では殴り飛ばされるのが関の山だ。


 だが、アーシェは冷静だった。

 高速で振るわれる赫怒種タウロス左拳を見切って、赫怒種タウロスの身体を蹴る事で推進力を得る。紙一重で左拳を避けた。


 空中でバク転する身体。

 その顎先スレスレを赫怒種タウロスの拳が通過する。バク転する事によって視界は回り、カバーするために走り寄ってくる仲間の姿を認めて、アーシェは薄らと笑みを浮かべた。


 そして赫怒種タウロスの二撃目。

 さしもの赫怒種タウロスも腕は二本しかない。打った左拳をすぐに引き戻す事は難しい。だが、左拳を引きながら、右拳を打ち出す事はできる。


 その二撃目の右拳を前にして、アーシェは引かなかった。

 バク転して回る視界のままに足を後方へと伸ばす。

 その軸足を、駆け寄ったメイニーが戦斧で受け止めた。


 それだけでは赫怒種タウロスの拳をアーシェが正面から喰らうだけだ。

 メイニーがクッションになるとはいえ、赫怒種タウロスの一撃の威力を考えれば受け止めて防ぐことは難しい。


 そこにランドルが割り込む。

 大楯を両手に構えて、軽薄な普段の様子とは正反対にドッシリと腰を据えた大楯が凄まじい怪音を響かせながらアーシェに向けられた二撃目を受ける。


 つんざくような音の鳴る中、赫怒種タウロスの右拳は防がれる。受け止めた大楯には拳の跡が残るが、砕けずに大楯の形を保っている。大楯の影では身を軋ませるランドルが軽薄に笑っている。


 横目でランドルの無事を確認しながら、アーシェは戦斧を足場に前に踏み出した。

 メイニーによってがっしりと支えられた戦斧を踏み締めてアーシェはさらに前に出る。2歩目でランドルの肩も借りて、大きく跳んだ。


 狙うは首。

 魔物であれ、絶対の急所だ。

 集中し狭窄したアーシェの視界が赫怒種タウロスの首一点にだけ集う。

 その焼き付くような視線を感じてか、赫怒種タウロスが顎と身を引いてツノで受ける姿勢を見せた。


 ──うまい。

 そう思いながら、アーシェは次点に狙いを定める。

 即ち、眼球へと。


 確実性を重視して伸びた剣閃は左から右へと凪いだ。

 空気を裂く軽快な音の鳴る刃が、狙い通りに赫怒種タウロスの片方の眼球を瞼ごと斬り裂いた。


「ブモぉぉォォ!!」


 痛みによる反射で、アーシェから見て左の、切り裂かれた目を押さえる赫怒種タウロスに追撃を加える思考が一瞬アーシェの脳裏に過るが、エドガーを助けるという今回の目的を思い出し、冷静に退く判断をする。


 上体を後ろに反らせて、手と視線の動作で仲間に退く指示を出す。

 的確に受け取った戦士たちが一歩退き、暴れる獣の射程から逃れる。

 顔を片手で覆いながら、ブンブンと手当たり次第に片腕を振るい始めた赫怒種タウロスを見ながら、距離を取ったアーシェは納剣しながらようやく一息を吐いた。


 そこに。


「お前ら・・・逃げろって言ったろが・・・!」


 苦々しい表情で、けれど、どこか仕方がなさそうな色を滲ませるエドガーに全員が笑みで応える。

 場に似つかわしくない抜けた笑顔を見せるアーシェを皮切りに面々が続ける。


「えへへ、来ちゃった」


「文句は後で聞きますよ、団長。まずはあの獣を狩ってからです」


「はっは、悪いけど、今日の主役はアーシェなんでね。アタシらはそれをサポートするだけさ」


「一発!?いや胴体入れれば二発入ったよな!?やるなぁアーシェ!こりゃ勝てるぜ!?」


「ランドル。てめぇだけは後でゲンコツだ」


「なんで俺だけっすかァ!?」


「うるせえ、黙ってろ。・・・攻撃が通るんなら、やってもらうぞ。予定通りっちゃ、予定通りだ。アーシェを主軸にBランクを狩る。行くぞ、てめぇら」


「「応」」


 再び、アーシェを中心に陣形を組む。

 やる気は十分。攻撃も通った。これなら勝てるかもしれない。

 誰もがそう思い、そして。


 赫怒種タウロスが、手傷を負った事で憤怒する。

 ──アーシェの腹部にザワザワと騒めきが走った。

 

 物理的な圧力が爆発的に増加する。

 膨張を開始した赫怒種タウロスは留まるところを知らず、ミシミシと音を立てながらその身を巨大化させる。


『ブモぉぉォォ!!』


 唖然と見守る面々の前で、赫怒種タウロスはその上半身を肥大させて、森の木々よりもデカくなった。

 そして、巨大な剛腕で一気に地表を薙ぐ予備動作を見せる。


「避けてッ!!」


 アーシェの一言が発せられる前に、それぞれが思いっきり跳ぶような勢いで逃げる。

 一掃するような凄まじい一撃が大地を揺るがし、森の木々が宙に弾け飛んだ。



「さっきよりデカくねぇか!?どーなってんだありゃ!」


「さっきは『アラク・リザード』に合わせてたんですかね!?あんなにデカくなるなんて聞いてないですよ!とゆーか、あの大きさなら村の防壁も絶対保たないですよ!?」


「ああ、その通りだよ、くそったれ!村に来る可能性考えりゃ、ここで全滅覚悟で戦うしかねぇか・・・!?」


「鼻動かしてましたもんね、匂いで後付けられたらヤバいです、ねッ!」


「もう、やるしかねぇ・・・!だから逃げろつったんだよ!」


「今更です!やるしかないですって!」


「ああ、そうだな!?」


 団長エドガー黒髪青目リンネルがヤイヤイと言い合いながら距離を取っている最中、別の場所ではアーシェが冷静に赫怒種タウロスの観察を続けていた。


「・・・なんだろ、この感覚。ゾワゾワくる感じ」


 怪訝な表情でお腹を撫でる。

 いわゆる丹田と呼ばれる場所。

 魔石はここにはないが、魔力はここに集まると言われる場所だ。


 そこが、ゾワゾワと感覚的に蠢いている。

 理由はわからない。だが、妙に気になる。


「・・・今はいっか。それより、倒す方法考えないと」


 斬撃は通った。片目も潰した。

 幸いな事に巨大化は出来ても治癒までは出来ないらしい。遥かな頭上のアーシェから見て左の赫怒種タウロスの目には血が滴っており、斜めに入った鋭い斬痕が閉じられた瞼に刻まれている。


 だが、あまりにもデカすぎる。

 このまま戦えば足元を崩していく戦い方しかないが、現状ではアーシェの斬撃以外に有効打が出せない。

 攻撃が通らなければ、人数の有利を生かす事が難しい。赫怒種タウロスとしてはアーシェにのみ注視しておけば問題ないのだから、当然である。


 どんな方法で切り崩していくのか。


 そんな事を考えているアーシェの目の前で、再び大きく吠えた赫怒種タウロスがスルスルと再び縮んでいく。目を丸くして眺めるアーシェがお腹に手を当てた。

 同時に、お腹のザワザワとした感覚も徐々に静まっていくのを感じる。


「・・・膨張?」


 お腹を押さえながらの一言。

 お腹の騒めきが赫怒種タウロスの膨張に同調しているのなら、膨張するタイミングが測れる。取れる手は広がる?

 アーシェはそう考えたが、どうだろうか。


 確かに膨張は脅威だ。

 避けるには役立つだろうが、攻めに使えるか。

 今までの攻防から考えてみたが、数が少なすぎて判断出来ない。


「・・・試してみるしかないね」


 ぶっつけ本番。

 感覚的に隙を捉える。そして次の攻撃に繋げていく。

 その覚悟で、アーシェが再びロングソードを抜き放って疾走を開始した。



「メイニーよぉ。奴はちっさくなったが、やれると思うかい?」


 また別の場所に逃げたランドルとメイニーだった。

 巨大化し、そして縮小した赫怒種タウロスを眺めながら会話する。

 どことなく気の抜けた、緊張感のない表情をしているランドルに苛立ち混じりのメイニーが鼻を鳴らした。


「ふん、やるしかないんだよ。あのデカさを見ただろ。ここで狩るしかないさ」


「そりゃそーだが、そもそも倒せるのかよ、アレ」


「あーもう!うるさいね!黙って大楯構えて突っ込んでな!──アーシェが動いたね、合わせるよ!」


「へへッ、了解!」


 文句を言いながら、戦意は衰えていない。そんな嬉々としたランドルがアーシェに続いて突っ込んでいく背中に付きながら、メイニーは戦斧を手首でぐるんと回す。


「さぁて。嫌がらせに徹しようかね」


 自分の攻撃が通らないことはわかっている。もう一度攻撃を加える事も考えたが、先ほどの鈍い感触を鑑みるに突破できる気がしなかった。

 ならば、その上で戦術を組み立てる。衰えぬ戦意を誇るように、メイニーは野生的な笑みを浮かべた。



 駆ける。駆ける。駆ける。

 アーシェの疾走はあまりにも速い。

 これまでの人生で、最も速い速度が出ているのは間違いない。


 アーシェの覚悟に呼応するように、魔力が時間経過を経るごとに増していく。

 ジワリジワリと増す魔力の香り。

 それを捉えるように、スンスンと鼻を動かす赫怒種タウロスの眼差しはアーシェを追いかける。

 白濁色の瞳が、食欲に濡れてゆく。


 ──アレだ、アレが発する魔力を喰らえ。


 本能が命ずるがままに、大口を開いた赫怒種タウロスが凄まじい声量でビリビリと空間を震わせる咆哮を発した。

 膨張を止めたとはいえ、それでもアーシェよりも何倍も大きな身体を乗り出すように一歩を踏み出す赫怒種タウロス。その食欲という純粋な圧力を真正面から受けながらアーシェも睨み返す。


 意志が、視線を介してぶつかり合う。


 動いたのは赫怒種タウロスからだった。

 太い左右の腕がアーシェに襲い掛かり、それを身を低くして躱したアーシェが軽やかにロングソードを振る。腕を斬り裂いて僅かな鮮血が舞い、さらに深く懐に入り込んだアーシェが流れるように剣を操る。

 体格差を活かし、細やかな動きを見せるアーシェ。

 二本の腕でアーシェを捉えられない赫怒種タウロスはならばと覆い被さるように身体を前に進める。物理的に空間ごと押し潰し、逃げ場を無くそうとする動き。


 もし、ここで逃げようとすれば一つしかない後方の逃げ場に腕を伸ばされる。

 それを理解するからこそ、アーシェはさらに前に出る。


 赫怒種タウロスの股の下を抜けるのではないかというほどの至近距離での攻防。

 逃げ場を潰そうとする赫怒種タウロスに対して、少しずつ位置を替えるアーシェの攻撃は幾度となく赫怒種タウロスの表皮を切り裂いた。刃が赫怒種タウロスの肌を裂いて鮮血を流させる。


 だが、凄まじい筋力と体力、魔力を誇る赫怒種タウロスは痛痒を感じないかのように平然としている。ただアーシェを食べる事だけを考えているような不気味さを滲ませ、一心にアーシェの事を見つめ続けていた。


 至近距離で受ける、捕食者の視線にアーシェの心と身体が削られる。綱渡りのような対面は消耗が激しい。一手の誤りが致命傷になりかねない現状では緊張によって疲弊速度は加速度的に増す。

 ──だが、アーシェには頼りになる仲間が四人も付いている。


 ヌッと、赫怒種タウロスの背後から、エドガーが姿を現す。

 両手に握られているのは槌。魔鉄イロンという素材で作られた武器は魔力を湛えて薄青の燐光を放っている。

 その重量のある鈍器を、アーシェが完全に赫怒種タウロスの視線を奪っているからこそ、エドガーは思い切り振りかぶる。

 後方に大きく引いた上での、遠心力を乗せた下方向からのフルスイング。

 空気が擦り切れるような摩擦音が鳴らせながら赫怒種タウロスの体勢を崩すべく全力の一撃を与える。


 同時に、ランドルが大楯を構えて突っ込む。

 身体を完全に隠して、体重の全てを乗せる突進はさながら要塞。


 さらに、長槍では直接的な攻撃に効果がないと悟っているリンネルが赫怒種タウロスの視界を奪うべく、残った眼に目掛けて乱打を放つ素振りを見せる。

 金属の先端をチラつかせるだけでも、つい先ほど眼を裂かれた赫怒種タウロスは気を取られざるを得ない。さすがの赫怒種タウロスも瞳をピンポイントで突かれればアーシェほどの魔力を持たないリンネルの攻撃も通る可能性があった。


 メイニーは戦斧を構えず背負って疾走する。

 今ここで行うべきは攻撃ではなく補助であると理解している。

 大楯に隠れて突っ込んだランドルの背中に肩を押し当てて、前に前にと押し込む。


 エドガー、ランドル、メイニーの三人掛かりで、僅かにでも体勢を崩させようと働きかける。


 それでも赫怒種タウロスは巨岩のように動かない。

 根本的な身体能力の違いを見せつけるように、ジロリと残った眼で煩わしそうに見やるのみ。

 その視界をリンネルが狙う。チラつく長槍の先端に嫌な顔を見せる赫怒種タウロスの意識から、一瞬だけアーシェの存在が外れる。


 股下で耐え抜き、その隙を待っていたと言わんばかりにアーシェの瞳が輝いた。

 狙うは首元。

 多量の出血と呼吸を狙った一撃。


 アーシェの刃が既に通ることは立証済みである。

 故に、刃が通れば殺れる。


 その、アーシェの視線に込められた強烈な殺意が赫怒種タウロスの本能を刺激する。


 仲間の作った僅かな間隙を縫い、狙い澄ましたアーシェが力を貯めてしゃがみ込み、一撃を入れるべく跳び上がる前。

 このままではマズイと判断した赫怒種タウロスが先手を打つ。アーシェのゾワゾワと腹部が騒めいた。


 ──膨張の兆候。慌ててアーシェが叫んだ。



「──退避ッ!」


 言いながら、跳び上がる瞬間に、思考が生じる。

 仲間たちは逃げている。タイミングとして間に合うだろう。一緒に逃げるべき。

 ──今ならばまだ後ろに跳べる。


 思い返せば、膨張には『硬直』がある。

 このまま斬れば、致命傷を与えられるかもしれない。


 ──でも、致命傷を入れたとしても、アーシェが無事で居られるとは限らない。確実に助かる道を選び、次の機会を待つべきではないか。


 思考と選択は刹那だった。


 己の思考を、アーシェは笑って跳ね除けた。

 甘く囁く思考とは裏腹に、身体は、意志は、『前に向けて』跳ね上がる。


 ──前進あるのみ。


 新たに過ぎる思考を歓迎するように、『後悔しない』選択を選ぶべく感覚に従うアーシェの、殺意に溢れる一撃が、膨張が間に合わない赫怒種タウロスの首元をしっかりと抉った。


 これまでとは比較にならない多量の血液が溢れ出る。

 だが、出血しながらも赫怒種タウロスは膨張を辞めない。

 硬直しながら、凄まじい形相を浮かべながらアーシェを見る赫怒種タウロスの瞳に、食欲以外の色が、『憤怒』の色が宿った。


 アーシェの腹部が最大級に騒めいた。

 ゾゾゾッと凄まじい共鳴を震わせる。


『GRAAAAaaaa!!』


 膨張を続ける赫怒種タウロスが拳を振りかぶる。

 膨張の硬直すら無視した、何としても殺すと言わんばかりの、怒りに任せた一撃。

 赫怒種タウロスの首を切り裂き、空中に跳び上がったままのアーシェに避ける術はない。


 それでも尚、アーシェは笑った。

 ここで避ければ勝利は目前。諦めるには早すぎる。

 翠色の瞳を爛々と輝かせ、膨張しながらの不恰好な赫怒種タウロスの一撃を見る。


 体格が変化するのだ。骨も当然ながら変化している筈。

 その状態で無理やりに拳を振るえば動きにはぎこちなさが出る。アーシェはその隙をしっかりと捉えた。


 狙いの甘さを、拳を物理的に肥大化させて補おうとする赫怒種タウロス

 隙を見抜き、回避すべく全力を尽くすアーシェ。


 瞬きの間ほどの時間が圧縮され、極限の緊張感の中でアーシェは心を躍らせていた。

 脳内で弾けるような感覚が繋がってゆく。

 目の前の攻撃を避け、生き残る術を探すべく全力で駆動する脳の心地よさを感じながら、アーシェは、伸びてくる赫怒種タウロスの拳に、腕に『乗った』。


 赫怒種タウロスの腕に左手を付き、そのまま転がるようにアーシェは前に進む。

 手には剣を握っている。

 もはや思考はない。感覚だけで、アーシェは絶技を成した。


 タンタンと赫怒種タウロスの腕を駆け上る。

 目の前には憤怒を浮かべながら、半ば唖然とした表情の赫怒種タウロスが見える。

 その首に目掛けて、再び剣閃を振るった。


 薙いだ剣が喉元を切り裂く手応えを感じ、鮮血が噴出する音を背後に聞きながら、アーシェは巨体から降りて地に足を着けた。


 ──だが、まだ終わっていない。


「・・・大罪の魔物。ほんとに、化け物だね」


 たった今、凄まじい動きを見せた後だというのに、畏れの混じった表情でアーシェが振り返る。


 ──そこには『憤怒』そのものがあった。

 膨張は既に終えている身体はあまりにも大きい。

 上半身のみならず、下半身までもが肥大化し、巨人と言って何ら遜色のない威容を誇る怪物が立っていた。


 零れ落ちる血液は止まらない。だというのに、戦意に翳りはなく、尚且つ、食欲は増してアーシェのことを見つめ続けている。

 だが、その瞳には何よりも『憤怒』があった。


 魔物は『魔石』を核として動く。

 原理は定かではないが、火事場の馬鹿力というものは往々にして存在し、最も危険なのが、手負の魔物と戦うことだと言われる所以。


「──オォォオオオォォ」


 もはや吠える事は出来ないのだろう。

 代わりに、底冷えするような唸りを上げる赫怒種タウロス


 戦いは、ようやく佳境に入った。



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