アラク・リザード
静寂の中で木々が揺れる。
風で動く枝葉が、心地の良い森の音色を響かせる。
鼻腔を埋めるのは春の匂いだった。スクスクと育ち始める新芽たちが香らせる、独特な芳香が森で育まれている。青くて期待感が膨らむような空気を胸いっぱいに吸い込んで、アーシェは心地よい吐息を溢す。
村の中に居たのでは出来ない贅沢。
丘の上に広がる草原の匂いも好きだけど、森の匂いはまた格別だった。
埋もれるような感覚で森という一つの世界に没入できる。
差し込む日差しは葉の緑色を透かして森を突き抜け、見上げれば、燦々と輝いている太陽は今日も二つ揃って並んでいる。
大樹に茂った葉っぱが薄緑色の光を透過して、森の天井に美しい緑のグラデーションを描いていた。
いつ見ても、常にどこか違う。
その変化も森の楽しみ方の一つだった。
「──アーシェ、何みてんだ?」
森の天井を見上げて、アーシェが深緑の日差しを浴びているとエドガーが声を掛けてくる。その声に応えて、心地良さを感じているのに相応の柔らかい笑顔と一緒に言葉を返す。
「うん、森っていいよね」
「がっはっは!村の奴らに聞かせてやりたいぜ。魔物が出るってんで、森には絶対に行かねえっつって、景色を楽しむどころじゃないだろうに」
「にひひ、そうかもね。・・・でも、わたしは大丈夫。──強いから!」
それは若干の冗談だ。自分のことはそれなりに強いとアーシェは思っている。けれど、過度な自信は死に直結する。だからそう宣ったのはあくまで冗談のようなもので本気ではない。
であるのに何故こんな場面で冗談を言ったかといえば、森での油断は死に直結するのと同様に過度な緊張も死を誘う一因となる。常に緊張していては気力が削られるため、適度に力を抜く事が重要なのだ。
そして問題ない、という旨を周囲に喧伝する必要性を含めれば、その塩梅が冗談を言えるかどうかに含まれることが多い。アーシェの冗談もその一種である。
エドガーはその機敏を察して、口元に拳を当てて笑った。
「くっくっく、その理論で言えば、俺も問題ねえな?」
「にひひ、だね!」
「がっはっは!」
ひとしきり笑ったエドガーが、気配を感じてかスッと視線を鋭く投げる。
アーシェも気が付き、同じように視線を投げれば、その先から一人の男が駆け寄ってきていた。
身体中を色々な方法で汚してカモフラージュした格好の男で、誘導役の一人である戦士団のメンバーだった。
「──団長。C地点に誘導出来そうです」
「おう、ご苦労さん。・・・アーシェ、準備はいいな?」
「うん。行こう」
「よし。行くぞ、てめぇら!」
思い思いに周囲を警戒していた戦士団の面々が立ち上がる。
総勢で五名。今回の戦闘に参加するのは、アーシェ、エドガー。そしてメイニー、ランドル、リンネル。戦士団における最高戦力を選抜した面々だった。
「アーシェ、期待してるよ」
ポンと肩を叩いて前に進んでいく、姉御肌の女はメイニーだった。
日に焼けた肌に燻んだ赤髪。黄土色の瞳の女傑だ。頼り甲斐のある背中と革鎧から溢れ落ちそうな豊満な胸元が特徴で、大きな斧を武器にしている。
「くぅ〜!いいねいいね!アピールポイントになるよな、これ!?」
軽快に冗談を言うのがランドル。
ソバカスを浮かべて、癖っ毛そのままの茶髪に黒い瞳のムードメーカー。無駄に顔が整っていると揶揄されるくらい、とにかく顔だけは頗る良い。
彼が背負うのは大楯だった。軽快な調子とは裏腹に、いざとなれば仲間の盾となることを厭わない男である。
「まぁ話題作りには持ってこいだろうな。こないだ言ってた、意中の子に話してやれよ」
背中で黒い長髪を括って、冷静な青い瞳でランドルの冗談を受け流すのがリンネル。槍を握って、常に冷戦沈着。牽制やフォローが上手い熟練の槍使いである。
みなが第一線で戦い続けてきた戦士団の面々だ。
この場に居ない者たちは索敵と誘導に動いてくれている。普段であれば持ち回りの戦闘役も、今回ばかりは実力、評価ともに上位五名を選抜しての挑戦になる。
向かうのはC地点。
その場所は、近隣の岩石地帯から魔物を誘い出した場合に誘導するポイントだ。
「──Bランクだ。気合入れてくぞ」
そして言わずと知れた、戦士団の団長であるエドガー。
その武器は冒険者時代に手に入れた
エドガーの発した声に続いて『応』と声が森を揺らす。
アーシェを先頭に面々が駆け出した。
C地点に辿り着いたアーシェたちを迎えたのは茶髪に弓を背負った男。
リュイドだった。
鋭い眼差しで周囲を睥睨しており、アーシェを見つけるとちょいちょいと手招きする。
「──来たな、アーシェ」
「ごめん、リュイド。遅れたかな?」
「いや、良いタイミングだ。そろそろ来るぞ、準備しとけ」
「うん。敵の種類と特徴は?」
「事前情報通りの獲物だ。──アラク・リザードだよ」
──アラク・リザード。
Bランクの中では中堅下位に位置する魔物である。
シンプルに言えば、トカゲとサソリを掛け合わせたような、トカゲが蠍を纏ったような見た目をしている。
全身を甲殻に覆われており、防御力が高い上に、中身はトカゲだから走行速度も早い。
図体がデカいので奇襲される心配はほぼないとは言え、その巨体はそれだけで脅威である。
尻尾には無数の棘がスパイクのように生えており、常人よりも遥かに抵抗力を持つ戦士さえ肌に掠っただけで徐々に身体が麻痺していく。
そんな頑丈さと凶悪な能力とは裏腹に、これでもBランクの中では下位である。
Bランクがどれほどの魔境であるか、よくわかる獲物の一つだ。
脳裏で情報を反芻し終えたアーシェが頷く。
「おっけー。初撃で機動力を削るね」
「任せた。最低限止まれば良い」
──お出ましだ。
リュイドの呟きを聞くか聞かないか、というタイミングで森の騒めきがアーシェの耳朶にも届いた。
巨大な生物が森を闊歩する移動音。特徴的なソレをアーシェが聞き逃すことはない。
数十メートル先の草むらが騒めき、中から誘導役の男が勢い良く飛び出してきた。
その背には予定通りにアラク・リザードが目を血走らせて走り寄ってきている。
巨体のトカゲに、蠍のような装甲を着けた生物。鋭利な鉤爪で地を掻いて猛然と進んでくる、大口を開けて誘導役の男を食いちぎろうとする魔物。その威圧感は先日の猪の比ではない。
「アーシェ!」
駆け寄ってくる男はアーシェの名を叫んだ。
括り付けた草や、擦り付けた泥が駆け回っている最中に徐々に剥げたであろう特徴的な格好をしている。
泥で汚した表情から解りにくいが、微かに見える表情から戦士団のケールだとわかった。
視線を交わして頷きを返す。そして培った信頼は視線だけでの対話を可能とした。
──後は任せて。
──ああ、任せた。
声なき意志が瞳を経由して交わされる。
逃げてくる
アーシェは猛然と這い寄る『アラク・リザード』を見据える。
──速い。
それでも想像の域を出ない速度だ。合わせるのはアーシェにとって容易かった。
一瞬で
「ふッ」
先日、猪と相対した時の焼き増しのように剣戟が右下から左上に抜けた。
剣線上にあったのは魔物の前足。過分なく力の篭った一閃はしかし、頑丈な甲殻に阻まれ、剣と魔物の鎧が奏でる硬質な異音が鳴った。
刃を通して掌から伝わる感触、抵抗感に思わずアーシェが歯噛みする。
──硬い。
腕は無理やりに振り切ったが、刃は硬さに負けて僅かに甲殻の表皮を滑り切り裂くのみ。切断には至らない。
アーシェの脳裏に追撃の選択肢が一瞬よぎるが、眼前にまで迫り来る夥しい黄色い麻痺棘に覆われた尻尾を捉えて、回避に思考を切り替える。大口ではアーシェを捉えられないと判断したからこその攻撃だろう。
迫る麻痺毒の尾を、アーシェは上体を反らせる曲芸染みた挙動で避ける。
その際に最低限の仕事を熟すため『アラク・リザード』の開いた顎を下から強烈に左右の足で合計二回蹴って勢いを殺させ、同時に自分が退くための推進力を得る。そのままバク転しながら飛び退いてリュイドの横にまで離脱した。
「ごめん、斬れなかった!」
「いや、十分だ。蹴りで勢いは殺せてる。──曲芸でも習ったのか?」
「え?ううん。勘で蹴っただけ」
「・・・だよな」
弓を番えたリュイドが呆れ顔で応えて、しかし鋭く矢を放った。
鉄の鏃が甲殻に当たるが当然のように弾かれて落ちる。
魔物の動きが止まったとはいえ、僅かしか隙間のない眼を射抜くのは難しい。
「ま、そうなるわーな。牽制ぐらいにしかならんな」
「大丈夫。わたしが斬る!」
「おいおい、無茶するなよ?」
「はーいッ」
足の止まった『アラク・リザード』が具合を確かめるように顎の開閉を繰り返す。ガチンガチンと歯が奏でる、空の咀嚼音を一頻りに鳴らした後、空気を吸い込む挙動を見せた。
「シャアァァぁぁ!」
『アラク・リザード』が喉奥を震わせて発する、空気が漏れるような低音が響いた。
警告音に構わず、眼前に躍り出たアーシェが再び剣を振る──前に。
『アラク・リザード』が大きく尾を
背筋に走るのは危機感。
「伏せッ──」
アーシェの一言とほぼ同時。
ガバリと円が連なるように解放された『アラク・リザード』の尾から、全方位に向けて毒針が射出される。
巨大なトカゲの尾針は大きい。人差し指ほどの大きさである。
それが無数に飛来してくる。
当たれば麻痺するという、前線において致命の特性すら持って。
木陰に身を隠して何とかやり過ごしたエドガーが吠えた。
「チッ、毒針飛ばせるなんざ聞いてねえぞ!?」
「情報不足ですよ!Bランクなんて普通狩りませんから!・・・点呼取って場合によっちゃ、一旦引きましょう!麻痺してる奴がいるかもしれねえ!」
別の木陰に潜んだリュイドが声を張り上げる。
完全に麻痺していれば声を上げることすら出来ない。
情報通りならば、徐々に麻痺する筈であるが、この時点で前情報と違う。甘く見積もるべきではない。
了解の返事が四方から上がって、ただ一人だけ応答がない。
「チッ!ランドルのやつ!寝てやがるな!?」
お調子者のランドルから返事がない。
麻痺していると考えるのが妥当。置いていくことは出来ない。
誰かが、ランドルを見つけるまでの時間を稼ぐ必要がある。
「──リュイド!ランドルをお願い!」
「アーシェ!?」
真っ先に飛び出したのはアーシェだった。
視線は真っ直ぐに『アラク・リザード』の尾に向かっている。
(完全に開ききった瞬間、中身の毒針がほぼ空だった。再生成にどれくらい時間が掛かる?)
アーシェは物陰に隠れなかった。
至近距離で身を伏せて毒針を避けながら、解放時の様子を観察し続けていたからこその判断。
しかし、射出された尾の内部から針は消えているが、尾を覆って生える毒針はそもそも飛ばす機能がないためか無くなっていない。
故に引き続き、尾の麻痺毒を警戒をし続ける必要はあるが、残弾を打ち尽くしたために、全方位射撃を連続するのは難しいと見た。
アーシェは自分の判断を信じて再び敵前に身を躍らせる。
敵は甲殻で身を守っている。
まともに打ち合えばリュイドの
ならばと目を付けるのは関節だ。
駆動域を確保するために硬度という面では明らかに劣る。
幸いな事に図体がデカい分、関節部もデカい。アーシェの技量と速さであれば十分に狙える。
狙いを付けるのはアーシェから見て左の足。
あえて、再び左足を狙う。
先ほどの交錯を覚えている知能があるのなら僅かに油断する筈。
アーシェの攻撃の意図を読んだのか、今度こそ当てる、とでも言いたげに尾がゆらりと揺れてアーシェの攻撃を待つ姿勢を見せる。
偶然か、それとも覚えていたのか。
確かなのはアーシェの思惑通りに事が進んだという事だった。
笑みを見せてアーシェが駆ける。
魔力を纏った身体は常人とは比較にならない速度で地を駆ける。
生来の魔力。そして戦士団に入って納品するには条件が不足する傷付いた魔石を食らい、魔力を増したからこその速度。
アーシェの動きに合わせてエドガーが槌を持って展開する。
甲殻の上からでもダメージを与えられそうなエドガーの武器を見て『アラク・リザード』は一度ほぼ無傷でやり過ごしているアーシェへの警戒を一段下げた。
──好機。アーシェは隙を逃さない。
右足を沈ませ、力を引き絞る。
膨らむ太腿がミチミチと力を溜め込み、さらに魔力を集中させ強化。解放すると同時に弾けるような速度でアーシェが飛来した。
修正不可。
着地点を狩られれば回避出来ない特攻染みた攻撃は、しかし狙い通りに実行される。
抜き放たれたアーシェの太刀筋は高速で飛来する最中でもブレない。
地面に着地すると同時に膝を曲げて地を踏み締める。加速の衝撃を一身に受け止めた地面が僅かに陥没する。
寸瞬の一撃だった。
煌めきのような速度で通過した刃に確かな手応えを感じながら、屈み込んだままにアーシェが振り返れば、渾身の一撃は期待通りに『アラク・リザード』の前足一本を跳ね飛ばしている。宙に舞う『アラク・リザード』の脚がくるくると回転している。
──通り抜けた刃の一撃は見事に『アラク・リザード』の関節に入っていた。
六本あるとはいえ、その内の一本を膝から下を斬り飛ばされた『アラク・リザード』が痛みに吠えながら反射的に振るった尾をアーシェは油断せず避ける。
その隙を、今度はエドガーが逃さない。
アーシェとは反対側。死角から近寄って振るう槌の一撃が鈍い打撃音を響かせて胴に入る。下から上にフルスイングした一撃でも『アラク・リザード』の身体は浮かない。それほど魔物の身体は重い。
だが、確かな痛打である事を示すように甲殻にヒビが入った。
「ギャォオオ!!」
めちゃくちゃに振り回される尾から距離を取って、アーシェは視線を反対側に立つエドガーに投げた。
──このまま片付けるけど、いいよね?
──・・・付き合うぜ。
無言でのやり取りは一瞬で終わる。
暴れ回る『アラク・リザード』を前に、再び飛び込む隙を窺うアーシェの背後から仲間の声が届いた。
「おいおい、二人だけで片付けちまうつもりなのか?」
「アタシらも混ぜてほしいね。
二人の背後に視線を向ければ、可愛らしい渾名を付けられた
ランドルの無事な姿に、そして仲間たちと共闘する場の空気に思わずアーシェは笑みを溢す。
「・・・戦果は早い者勝ちだからねッ!」
突っ込もうと、した。
──その時に。
ゾッッと総身を走った怖気に、アーシェは視線を全く別の方向に向けた。
居る。
目の前のBランクとは比較にならない化け物が、この視線の先に居る。
ザワザワと揺らいでいる木々の先に見える闇が恐ろしいほどに深く見えた。
完全なる予想外。
イレギュラーな存在がその姿を露わにすべく蠢き、森が騒めいた。
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