集結




 肌が、裂ける。

 アーシェは死の暴風の真っ只中で戦い続けていた。


 掻い潜る掌は時間を経るごとに精度を増してくる。

 苛立ちから精彩を欠くかと思えばまるで逆。小さな相手との戦闘に慣れてきたとでも言わんばかりに、赫怒種タウロスの攻撃は苛烈さを増した。


 舞い散る小石が跳ねてアーシェの肌を裂いてゆく。今しがた飛んできた石片が鋭く頬を裂き血が滲み出るが、それでもアーシェの闘志は衰えない。

 爛々と輝いたアーシェの瞳は『諦め』などとは無縁だった。


 どれほどの時間が経ったのか。

 十分、三十分、1時間にも思える。時間感覚が曖昧になるほどに集中して戦い続けている。


 あれから、三度も腕を駆け昇って『切り札』の一撃を入れるべく奮闘したが、既に警戒を密にしている赫怒種タウロスから隙を縫うのは容易ではなかった。

 アーシェが攻めれば一歩引いて冷静に対処してくる様は油断がない。最初の交錯で随分と警戒されてしまったらしい。だが、その警戒があるからこそ、まだアーシェの生存が許されている事実は計算通りであるものの、綱渡である現状は変わりなかった。


 逃げ回るだけなら、まだマシかもしれない。

 だが、そうすれば森が壊れる。魔物を狩って生業とする村の生活を思えば、環境を壊滅させてしまう事が、どれほどの悲劇に繋がるか想像すら及ばないと気付いてしまったアーシェには、立ち向かいながら時間を稼ぐ術しか残されていなかった。


 仮にアーシェが敗れた場合。

 赫怒種タウロスがアーシェのみで満足して『深みの森』に帰るのならまだマシだ。もし道中の村に目をつけて村の人たちを喰らうようなことがあれば──。


 想像を実現させないためにアーシェは奥歯を噛み締めた。最悪の懸念が拭えない以上、ここで絶対に倒さねばならない。

 その一念でアーシェは只管に『時』を待ち続けていた。




 そして。

 ついにその瞬間が訪れる。超人的とも言えるアーシェの動体視力が『人影』を捉えた。

 ──脳裏に瞬いた一筋の希望。


 加速する時間の中。

 アーシェが全力を込めて笑った。


 身体を前傾させて前掛かりになる赫怒種タウロスの一瞬の間隙を縫う。

 瞬きの間で距離を詰める必要があった。でなければ、赫怒種タウロスに容易に対処される事はこれまでの攻防で理解している。




 三角飛びの要領で、アーシェから見て赫怒種タウロスの左足から右腕に、右腕から胴体に、胴体から左腕に移って駆け上がる。

 アーシェの眼差しは、再び眼球を狙うべく赫怒種タウロスの頭部に向けられている。

 警戒を強めた赫怒種タウロスが再び咆哮をアーシェに浴びせるため、僅かに口を開き始める。


 その、空気を吸い込む一瞬の間。


 全力で脚部に力を込めるアーシェが、バネのように跳ね上がった。

 風巻く空気すら纏った小さな身体が突っ込んでいく。


 咆哮の準備を終えた赫怒種タウロス

 アーシェの至近距離で、凄まじい咆哮が発声され音圧が解き放たれる。


 音の壁を切り裂くように跳ねたアーシェがスラリと刃を抜き放つ。

 夥しい魔力を刀身に込められ、悲鳴を上げるように、刃から生じる甲高い鳴動が咆哮すら切り裂いて場の音響を占める。


 白く輝いた刀身は魔力で覆い尽くされている。刀身という枠に収まらない魔力が虚空にオーラを描いて抜けてゆく。空間を揺らめかせる刀身は何倍もの刃渡を持っているように見えた。


「──斬る」


 覚悟を言葉にするように、言葉少なに、アーシェはただの一音を溢す。

 握りしめた柄が耐えきれない魔力に震えている。数秒すら刀身が保たない。それほど膨大な魔力が篭っている証拠だった。


 空中でも体勢は崩れない。

 踏み切った瞬間から捻り上げていた腰を廻す。


 普段と変わりない、右下から左上に振るった斜めの剣閃。

 アーシェの渾身が篭った一撃が眼球目掛けて『飛んだ』。


 構成を物質ではなく魔力がほとんどを占めた事で可能となった『飛ぶ斬撃』。

 本来なら四貴金属、魔法金属でしか成せないその技を、アーシェは刃を使い潰す事で成功させた。


 完璧なタイミングで放たれた剣閃は赫怒種タウロスの予想を覆し、その瞼をすり抜けて眼球に吸い込まれた。


 痛みに吠える赫怒種タウロスではあった。──だが、脳にまでは届かない。致命傷にはならない。


 赫怒種タウロスもそれを理解する。

 想像を絶する痛みに赫怒種タウロスはこれ以上ない程に表情を歪めたが、戦意は微塵も翳らない。


 アーシェが斬った赫怒種タウロスの目は、アーシェから見て左の眼であった。赫怒種タウロスの残った右目が憤怒に染まり、剣を振り切った姿勢で空中に残留するアーシェを残った眼球が睨め付ける。


 アーシェは既に打てる手を打ち尽くしている。何も足場のない空中で移動する手段などない。

 赫怒種タウロスが大口を開き、アーシェを呑み込まんと身を乗り出した。


 先日の拳とは訳が違う。

 凶悪な大口はアーシェを捉えている。

 どう足掻いても回避など不可能な状況であった。


 ──だというのに、アーシェは笑っていた。

 走馬灯のようにゆっくりと時間が流れる中で、アーシェは知覚する。背後から凄まじい速さで飛翔する物体があった。

 アーシェの背後から飛来するソレらは、次々と、無数に飛び交う『赤い球体』だった。

 その内の一つが赫怒種タウロスの瞳の傷口に当たる。途端に弾けて中から現れたのは見るだけで口の中が辛くなりそうな赤い粉末の煙。


 傷口に煙が触れて、染み渡って、アーシェが転がり込んでくる筈だった大口をにまで『赤い球体』が潜り込んで炸裂する。

 ボフンと赤い煙が舞った瞬間に、喉を大きく反り上げての、今度こそ正真正銘の赫怒種タウロスの大絶叫が森に響き渡った。




 仰け反った赫怒種タウロスの喉を蹴って、アーシェは『予定通り』に危機から脱して重量に従い地面に着地した。

 胸に手を当てれば鼓動が凄まじい勢いで身体中に響き渡るのがわかる。

 仲間を信じていたとはいえ、助けがなければ、完全に死ぬ間際である。死線を超えた。


 ドバッと冷や汗が今になって溢れる。

 疲労と安堵。興奮と冷や汗とで、冷熱が混じり合う心境のアーシェに、待ちに待った声が掛かった。


「──よう、アーシェ。一人で狩れそうか?」


 筋肉で覆われた大男。

 魔鉄イロンの槌はもう壊れてしまった。

 代わりの槌を装備して、ニカリと笑みを浮かべるエドガーの姿があった。

 エドガーの言葉から想起するものと言えば、一つだけだ。アーシェは出発前にエドガーに掛けた言葉を思い出す。


『──あんまりに遅いと、わたしだけで倒しちゃうからね』


 その冗談に対する返答だとすぐにわかった。

 

「・・・意地悪だなぁ!?無理でした!助けてくれてありがとうございます!!」


「だっはっは!・・・安心しろ、ここからは俺たちも一緒に戦ってやる」


 ガシガシと、頭を撫でられる。

 エドガーが視線を向ける先では、未だに凄まじい悲鳴を上げ続ける赫怒種タウロスが仕切りに目を擦っている。口内に入り込んだ『赤い球体』の効果もあったのか、ゲボゲボと喉も押さえている。


 赫怒種タウロスに攻撃を仕掛ける寸前。

 アーシェの視界が捉えたのはエドガーたちの姿だった。その手に握る『赤い球』は大物狩りの時に用いる道具。事前にフィグ婆から説明があったからこそ、準備が出来たと判断したアーシェは突っ込み、一撃を入れて離脱した。


「あれ、今回は何を混ぜてるの?」


「ふっふ。特性の辛子玉だ。激辛好きの領主様から香辛料を掻っ払ってきて、ぶち込んどいた。あとはフィグ婆の知恵だな」


 アーシェの脳裏に、あの寡黙で冷徹を絵に描いたような男が、香辛料の空の袋が散乱する倉庫の中で肩を落としている光景が思い浮かび、表情を引き攣らせた。


「・・・む、無茶するなぁ」


「まったく、あんたがそれを言うかい?」


 背後から響いた声にドキッとアーシェの背筋が跳ねた。


「メイニー?」


「ふん、一人で突っ込みすぎだよ」


「にひひ、でも、ちゃんと助けてくれたじゃん」


「信じてくれるのは嬉しいけどねえ。こっちはヒヤヒヤものだよ、もう少しアタシらを待てなかったのかい?」


「でも、赫怒種タウロスがわたしの集中してるからこそ、効果があったでしょ?」


「・・・まったく、無茶するよ。今は、これ使いな」


 同意するしかなかったのだろう。

 渋い呆れ顔でため息を吐いて、そう言ったメイニーが放り投げたのは鞘に入ったロングソード。アーシェが愛用している型の物だった。


「っと!ありがと!これで、まだまだ戦えるね」


「ああ。アタシもやれるってとこを見せたげるよ」


「・・・うん!」


 それ以上、アーシェは何も言わない。

 戦いはこれからが本番であるのだから。

 その想いで、前を向いた。


 エドガーやメイニー以外の者とも視線を交わして頷き合う。

 リュイド、ランドル、リンネル。彼ら以外にも戦士団のみんなが居る。

 仲間たち。一人じゃない。


 だから、頑張れる。


 ──前に進める。


 気を遣って戦ったとはいえ、周囲の木々はほとんどが薙ぎ倒されている。元々森の広間だったが、今では森の中の荒野ぐらいの広さになっていた。

 荒れた森の中で仲間たちを背負いながら、アーシェは受け取ったロングソードを抜き放った。

 

 森の隙間から差し込む天上からの光を浴びて。──鉄の剣が、神々しく光り輝いた。

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