憤怒



 ──赫怒種タウロスは、己の現状に憤怒する。

 矮小な人間。だが、凄まじく旨そうな人間を喰らう事ができる間際だった。

 人間の飛ぶ斬撃を耐える事は容易だった。

 だが、不意打ちの、赤い煙から生じる、全身の血が沸騰するのではないかというほどの痛みには耐えきれなかった。


 憤怒する。

 己に、矮小な人間に、この世の全てに、そして嘗ての主人に。


 ガチリと噛み砕かんばかりに顎が強張る。

 ミシミシと身体が軋む。


 赫怒種タウロスは未だ完全に膨張し切っていなかった。

 その状態ですら巨人の如き大きさを誇っていた怪物が、憤怒を持って、効率など度外視して膨張を開始した。


 優に山を越える。

 月にまで届くのではないかと思わせるほどの巨体。


 ──吼える。

 月明かりに照らされる牛頭の巨人が、夜空の下で咆哮を放った。




 凄まじい白色の魔力光が飛ぶ剣閃となって赫怒種タウロスの足に向かって放たれた。

 強烈な斬撃音が鳴る。血が流れる。

 アーシェの切り札である、刀身が崩壊するほどに魔力を込めた一撃は赫怒種タウロスの肌すら裂いた。

 しかし、切断には程遠い。


 皮膚を裂いてはいるが、肉を深く裂くには至らない。薄皮から滲む血液こそ垂れているが、切断するためには何度同じ場所に斬撃を当て続ければ良いか。


 数えるのが億劫になるほど途方もない数の斬撃が必要である事だけが確かだった。


 それでも。

 アーシェの瞳に『諦め』の二文字はなかった。弧を描いた口元を形づくり、赫怒種タウロスに挑み掛かる。

 その小さな背中を追い越して、遥か頭上にある赫怒種タウロスの頭部に向かって無数の放物線を描く球と鏃が飛び交っていた。



「──的がさらにデカくなったなぁ!?外す方が難しいぜ!」


「ほんっとうですね!後は鏃が刺さってくれれば文句ないんですけど!」


「だっはっは!そこは気合いで何とかしろ!」


「無茶苦茶ですよ!!」


 球を投げ続けるエドガーと、弓を射ち続けるリュイドが無理矢理に笑みを浮かべながら掛け合いをする。


「おまちどーさんっす!追加の球と矢はドシドシ運んでくるんでー、じゃんじゃん投げて射っていいっすよ」


「補給は任せてくれ!」


 軽薄茶髪ランドル黒髪青目リンネルの二人が、村で作られる球や常備してある矢をせっせと運んでくる。

 通常の村落に、Aランクの魔物に対する備えは無いと言って良い。天災とも呼べる赫怒種タウロスが出現すれば諦める他ないからだ。

 それでも無いなら作れば良いと言わんばかりに村では総掛かりで物資を用意していた。それらを運ぶ役目はこの二人をリーダーとして戦士団の複数名が担う。



 赫怒種タウロスの足元から離れたアーシェに、すぐさま駆け寄ってくるのは褐色肌の女。メイニーだった。


「アーシェ、剣は使い潰して良いからね。予備はアタシが運んでやる。気にせず戦いな」


「にひひ、ありがとメイニー!行ってくるね!」


「ああ、頼んだよ。サポートは任せな」


 メイニーの手に戦斧はない。

 背負い袋に仕舞い込んであって、その両手は背負い袋を離さない事だけに集中して、脇にある背負い袋の紐を握っている。

 彼女にも戦士として戦いたい気持ちはあるが、今すべき事は戦斧を持って前に出る事ではないと知っていた。


 彼女の瞳はアーシェを信じて託すと語っている。

 真摯な眼差しを向けてくれるメイニーに、アーシェも真剣な表情で頷きを返す。


 一人では勝てない。

 そんな当たり前のことを改めて意識する。

 戦士団はそのために作られた。

 魔物と戦うために、一人では勝てない相手に立ち向かうために。


 その一員としてアーシェは駆ける。

 鞘を握る。剣を引き抜く。

 抜き放たれたロングソードが魔力を帯びて輝く。


 何度も何度も挑みかかるアーシェ。

 狙うは頭部。しかし、駆け上がる距離は今までの比ではない。単純に換算して3倍近く赫怒種タウロスはデカくなっていた。それでも仲間たちの援護を背負って、アーシェは挑み続ける。


 戦いは、佳境を超えて終局を迎える。

 ──既に十分すぎるほどの善戦だった。


 仲間たちとも合流を果たし、余裕を持って戦えるようにもなった。

 だが、決定打が掴めない。

 剣を使い潰した一撃ですら致命傷には程遠い。


 如何に戦うか思案するアーシェに、エドガーがこのまま待てと指示を出す。

 何を待つのかというアーシェの疑問符に答えたのは、老婆のシワがれた声だった。



「──『突く者ユングウィ』よ、『急ぐ者フラール』よ、『吼える者モース』よ、我に加護を与えたまえ」


 疾駆するのは、トンガリ帽子を被った小さな人影。

 その手には光り輝く大槍が握られていた。


「わたしゃも初めて使うけどね。──今ぞ名を借りて奉る。穿て、『主神の大槍グングニル』」


 その一声と共に射出された、金色の尾を引く大槍が赫怒種タウロスに向かって放たれる。

 空気を穿つ黄金の大槍は赫怒種タウロスに猛然とした速度で迫った。


 それを赫怒種タウロスは真正面から見つめ、それが何であるかに気がつくと底知れぬほどの憎悪を滲ませて吼える。

 劈く音響を響かせて前進する大槍を前に、赫怒種タウロスは交錯させた両手で備える。


 ──そして、衝突。

 有り余る程のエネルギーを拡散して光り輝く閃光を発しながら、大槍が赫怒種タウロスの交錯させた両腕に突き刺さる。

 赫怒種タウロスの両腕を穿たんと大槍が燐光を生じさせながら鬩ぎ合う。

 激しい摩擦音を響かせる大槍ではあったが、しかし、穿てず途中で勢いを失速させて赫怒種タウロスに止められたが、二つの腕を大槍が縫い止めるという、凄まじい一撃だった。


 唖然とする光景を目にしてアーシェが振り返る。その眼差しは、たったいま大槍の一撃を放った老婆に、フィグフォルグに向けられた。


「光差す一撃・・・。とまではいかぬな、わたしゃの魔力では不足か」


 ニヤリと笑みを浮かべつつも、その身の魔力のほとんどを費やしたためにその額には多量の汗が滲み出している。苦しげにうめき、胸元を抑えたフィグフォルグ──、いや、フィグ婆にアーシェが駆け寄った。


「フィグ婆!?」


「むっ、アーシェか。間に合ったようで、良かったわ」


「それより大丈夫!?しかも、今のって」


「いまは、良い。それより、手を出せ」


「手?」


 言われるがままに差し出したアーシェの手を、フィグ婆は力強く握った。


「『移譲』」


 ほんわりと温かい何かが刻まれる。

 アーシェが掌を見れば、そこには何かの文字らしきものが刻まれていた。


「なに、これ?」


「所有のルーン。喚べ、アーシェ。──『主神の大槍グングニル』と」


「・・・主神の大槍グングニル


 その名を喚んだ瞬間に、掌に現れたのは光り輝く大槍だった。ずっしりとした重さのある存在が急に現れたためにバランスを崩したアーシェが慌てて持ち上げる。


「こ、これって!さっきフィグ婆が投げてた奴!?」


「そうだ。聖黄金オリハルコンで造られた、揺れ動くものグングニルをモチーフとした贋作でしかないが、その性能は折り紙付き。由来を語りたいところだが、時間がない。端的に言おうぞ」


 一息を吸ったフィグ婆は続ける。


「嘗ての『四人の公王』の一人。今は三大国となっているが、かつては四大国であった。その中の失せた一族の長たる『黄金卿エルドラド』が造りたもうた由緒正しき聖黄金オリハルコンの大槍がそれだ。・・・今しばし、お主に貸すぞ」


 キリリとした表情で言われたが、アーシェの脳内は大混乱だった。


「誰それ!?」


「ええい、聖黄金オリハルコンの槍!それならばお主の魔力にも容易く耐えよう!──戦え!」


 その一言で十分だった。

 アーシェの瞳から戸惑いが消え去り闘志が宿る。


 握りしめた大槍に思い切って全力の魔力を注ぎ込む。

 今まで使っていた剣であれば瞬く間に飽和するほどの魔力を込めてもまるで動じず、大槍はどんどんと魔力を呑み込んでいく。底知れないほどの魔力容量だった。


「これなら──」


 急速に高まるアーシェの戦意に比例して、迸る魔力が高まってゆく。

 閾値を超えた魔力を槍身に宿した事で、黄金の大槍は純白に輝いた。


 戦闘の備えを終えたアーシェの前で、半ばまで貫かれた掌を抑えて苦悶の表情を浮かべていた赫怒種タウロスが吼える。

 アーシェの魔力を吸い込み、増幅させてゆく聖黄金オリハルコンの槍が凄まじい魔力を湛え始めたのをみて、赫怒種タウロスは強い警戒心を抱いた。


 投擲すべきなのかもしれないが、アーシェは今まで槍など使った事がない。狙った場所に当てるなんて到底不可能だ。

 ならば、考え方を変える。──外しようがないくらい、近くから放てば良いのだ。


 その意志で、アーシェが一歩を踏み出した。

 二歩三歩と踏み重ねるにつれて燦然と輝く大槍は眩しさを増してゆく。


 大地を疾駆するアーシェが近づくに連れて、的は大きくなっていく。

 ずっしりと重みを感じる大槍は、当たれば赫怒種タウロスとて一撃で屠れるであろう程に魔力を溜め込んでいる。


 その重みを感じながら、アーシェの胸に去来するのは先日の一幕。


 神殺し。

 今一度、それを為すのか。迷いがないとは言い切れないだろう。

 心中には今もシコリが残っている。

 

 でも、何故そんなにも違和感を覚えたのか、なんとなくその理由はわかる。

 昔のアーシェは一人だった。

 無理に笑って人との関わり合いを作っていても、心は孤独を感じていた。


 だから、神々と出会う空想が救いだった。

 少し照れるが、助けてほしいと思っていたのだと思う。

 祈るから、願うから、助けて、と。

 

 でも、今は仲間たちがいる。友達がいる。

 もう一人じゃない。


「──エドガーッ!」


 アーシェの呼ぶ声に答えて、狙いを読んだ仲間たちが赫怒種タウロスの隙を作るべく投擲を密にする。その光景を背負いながら、アーシェは晴々と笑った。


「もう、助けてって言えるんだよ」


 神々への尊敬の念は捨てない。

 だから、今までありがとう。


 決別の意すら込めて大槍を握りしめた。


 ──これで、決める。


 声なき意志を想いながら、アーシェは先ほどのフィグ婆の言葉を思い出していた。

 握り締める黄金の大槍。その名を呼ぶ一撃を。


 アーシェは軽い呼気を溢す。

 瞬きの間であるはずなのに、異様にゆっくりと感じられる時間があった。

 対面する赫怒種タウロスはアーシェを浸るほどの憎悪を持って睨みつけてくる。いや、正確に言うならば、その手に持つ槍を。


 それでもアーシェが止まる事はない。

 最後の一歩。踏み切って宙に跳んだアーシェは脳内で反芻する言葉を紡いだ。


「──今ぞ名を借りて奉る。穿て、『主神の大槍グングニル』ッ!!」


 感覚が赴くままに、赫怒種タウロスの胸元に向けて射出された黄金の大槍が、凄まじい魔力螺旋を帯びながら突き進む。

 さながら竜巻が生じたかのような一撃は、両腕を交錯して防ごうとする赫怒種タウロスの両腕を紙切れのように抉り飛ばし、勢いは止まらず吹き抜け、赫怒種タウロスの胸部に円形の大きな風穴を開けた。


 胸元から首に掛けて、大きな大きな風穴空き、支えを失った赫怒種タウロスの頭部が零れ落ちる。


 空中アーシェが着地するのと、ほぼタイミングを同じくして、凄まじい大きさの巨体が地面に倒れ伏した。

 粉塵が巻き上がり、地鳴りを響かせる。


 倒れ伏した凄まじい巨体を背景に、アーシェは黄金の大槍を失った掌を胸に当てながら、静かに黙礼した。





 赫怒種タウロスが倒れ伏し、巻き上がった砂塵が収まった。

 気遣った甲斐もなく、森は跡形もない。けれど、月明かりは変わりなく降り注いでいる。

 金色の短髪を絢爛に輝かせながら、倒れ伏す赫怒種タウロスを眺めるアーシェに、声が掛かった。


「──お見事」


 仲間の声ではなかった。

 発生源を探せば、アーシェの視線が向く先は上空だった。

 声の主が空中に浮かんでいる。長髪の、赤髪赤目の美女だった。


 美しさも、宙に浮いている事も驚きの理由であったが、何よりもアーシェが驚いたのは、彼女から何の魔力も感じなかったからだった。

 大なり小なり、人間ならば魔力を持っているのが当然。なのに、目の前の人物から魔力が感じられない。

 それは、明らかな異常だった。


 ──視線が合うと同時に、悠然と彼女は空から舞い降りる。


 美しい赤髪を風に靡かせながら、けれど、不自然な程に流れない髪で片目を塞いだ、赤目の隻眼。

 顔の半分だけでも判る、尋常でないほどに整った顔立ちを見せる女が妖艶に微笑んでいる。


「ここからは、アタシがお相手しよう」


 赤髪赤目の、隻眼の女はニィと笑みを浮かべた。



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