魔女



「──魔女、魔女かぁ」


 憮然とした表情を見せる赤髪美女を前に、アーシェは唸りながら考えていた。

 だが、別にこの人が嘘をつく意味もない。それに彼女の目は嘘を言ってない。

 何だか抜けているこの人が言うなら、本当なんだろうな、とアーシェは何となく思った。


「信じられんのも無理はない。証拠を──」


「うん、信じるよ。それで?」


「──証拠を・・・。いや、待て。・・・待て。何故、信じる?」


 頭を抑えながら、理解の及ばないアーシェの言動に翻弄される赤髪美女だった。

 キョトンとした顔でアーシェは首を傾げた。


「だって、空を飛ぶなんて、それくらいしかないと思うし。それに本当なんでしょ?」


「・・・何故わかる?」


「わかるよ。目を見れば、大体ね」


 ジッと、輝かしい瞳で赤髪美女をアーシェが見つめる。

 どこまでも見通すような瞳を前にして、赤髪美女はそっと視線をずらした。


「・・・変なやつだな」


「それはお互い様だってば。わたし、魔女になんて初めて会ったもん」


「まぁそりゃそうだろうが。・・・あー、こんな予定じゃなかったんだが・・・。もっとカッコよく進めるつもりだったってのに、どうしてこうなった・・・?」


 ブツブツと呟く赤髪美女が、何かに気付いたのか、ふと気を取り直して顔を上げた。


「──ま、いいか。理解が早くても、別に困る事じゃないものな」


『・・・急に冷静にならないでください』


 そんなペンダントの冷静なツッコミにも反応せず、赤髪美女がビシッとアーシェを指差しながら続けた。


「つまりだ!アタシはお前に力をくれてやる。力ってのは魔女の力のことだ。その代わりに、アタシに協力して欲しい。どうだ?悪くない話だろ」


「んー、村からは出るつもりだったから、協力しても構わないけど・・・」


「!?おっ、おおっ?」


「でも、協力って何をすれば良いの?」


「あー、あー。いや、そうなるよな?」


『そうなるでしょう・・・。ほんっとにこの人は・・・』


 頭が痛そうに、ペンダントが呟いた。

 そんな会話を繰り返す只中に、新しい人物が姿を現した。

 とんがり帽子を被った老婆。──フィグ婆だった。


「──アーシェ?そやつは、誰だ?村の者ではあるまい」


 フィグ婆が怪訝な表情を見せるのは当然と言えた。

 つい先ほどまでアーシェしか居なかった場所だ。

 砂煙も晴れて、主神の大槍グングニルを放った影響による胸の痛みもようやく収まったので顔を見せてみれば、そこにはアーシェだけでなく見知らぬ第三者が立っている。警戒しか想起させない場面だろう。初対面の印象は非常に重要で、この先の話の展開が大きく変わる。


 そんな、大事な局面で。


「ああ、アタシか?──アタシは魔女だ」


 平然と、赤髪美女は。いや、魔女は宣った。


「・・・なん、だと?貴様、魔女を名乗るなど正気か?」


 凄まじい眼光を放つ、フィグフォルグの脳裏には幾つもの可能性が浮かんでは消えて、残ったのはタダならぬ者魔女を名乗る女への強すぎる警戒心だった。魔力を感知出来ないなどという前代未聞の事態を把握した事も、この魔女と名乗った女を、極めて危険と判断する材料となった。


 そんな警戒の眼差しを受けて、何故か満足げに、安心した様子すら見せて魔女は深く頷いた。


「・・・ああ。これだよ、これ。これが普通の反応だ」


『感心してる場合ですか。アホですか、アホなんですね、ええ、知っていましたとも。このアホ』


「一人で納得するなよ、アホアホ言う奴がアホなんだぞ?」


『意味がわからないので黙ってもらえます?』


「・・・」


 厳しい一言に赤髪美女も閉口した。




「・・・魔力が感じられぬ。どういうカラクリだ?──だが、何にせよ。魔女などと名乗るからには、殺される覚悟は出来ておるのだろうな」


 フィグフォルグは鋭い眼光で睨め付け、それを魔女は笑みで受けて立った。


「くっく。おいおい、魔女を殺せる気なのか、婆さん」


「やるしかあるまい。やらねばならぬのだ、真偽に関わらずな。魔法族に支配される時代など、もう二度と再現させてはならん」


「・・・ほう。あの時代を知ってるのか?」


「口伝でしかないがな。魔女を名乗るならば一つ聞こう。『マギア』とは何か、知っておるか」


「ん?マギア・・・。ああ、あれか。──『魔法奴隷』のことだな。魔法の歯車。って意味だったか」


 その言葉を聞き、フィグフォルグは絶句と言う他ない表情を浮かべた。

 先ほどまでの発言は、謂わば脅し文句のようなものだ。心底から言っていた訳ではない。


 まさか、本当に魔女であるなどと、誰が想像するのか。

 しかし、期待は悪い方向に裏切られる。『四人の公王』の一族がひた隠しにしてきた真実。元奴隷であったという事実を知る者。──それは、フィグフォルグが考えうる限りの、あの時代を生き延びた存在である証明に近かった。


「・・・ほん、ものか?まさか、本当に、魔女か?」


「だから、そう言っているだろう?」


「なんという・・・。なんということだ・・・」


 ワナワナと震えるフィグフォルグは拳を握りしめた。

 そこに、エドガーたちが走り寄って合流する。

 その眼差しは困惑が深い。

 状況がわからず、フィグ婆に語りかける。


「お、おい。フィグ婆、どういう状況だ?」


「・・・逃げよ。お主が居てもどうにもならん。わたしゃが何とかする、逃げよ」


 常ならぬ様子を見せる、動揺を深く滲ませるフィグ婆にエドガーが疑問符を浮かべる。


「おいおい、さすがにそれは──」


「逃げろと言うのが、わからんのか!」


 迫力みなぎらせる一喝に、エドガーは二の句が告げずに頷いた。


「・・・ああ、わかった。アーシェ、行くぞ」


「え?でも──」


 アーシェが困惑を滲ませる中で、言葉を引き継ぐように嗤ったのは魔女だった。


「おいおい、それは困るな。アーシェには協力して貰うつもりなんだ。・・・アン。使うぞ」


『・・・はい』


 先ほどまでの、緩んだ空気は既にない。

 バチリと、黒い稲妻が魔女の周囲を彩り始める。何を始めるつもりなのか、わからない。

 だが、何かを行おうとしていることだけが周囲の者に理解できた。


「──させん!!『突く者ユングウィ』よ、我が手に加護を」


 その一声と共にフィグフォルグの腕が螺旋する魔力で覆われる。

 貫手を構える老婆が跳ね、勢いのままに腕を魔女に向けて放った。


槍の戦乙女ゲイルスコグルッ!」


 ヴァルキュリアの名を呼ぶ一撃は、渾身の力を込めた攻撃は、いとも容易く魔女の掌で食い留められた。

 黒い稲妻を滾らせながら、薄らと魔女が嗤う。


「おいおい。その程度の攻撃で、アタシをどうにか出来る訳がないだろ?」


「アーシェ!わたしゃ諸共で構わん!主神の大槍グングニルを打て!!」


 魔女の至近距離で、拳の乱打を放ちながらフィグ婆が叫ぶのを見て、アーシェには動揺が生まれる。

 先ほどまで普通に会話をしていた魔女を名乗る女。恩も縁もあるフィグ婆。どちらを取るべきか、あるいは二人ともを取るならば攻撃せぬべきか。

 迷う心中を晴らしたのは、当事者の一人である魔女だった。


「打って良いぞ。やってみろ、お前如きに殺されるアタシじゃない」


 そう言って、魔女は軽く嗤った。

 安い挑発を受けてアーシェの額がビキリと引き攣った。


「アーシェ!何をしておる!打て!!」


 フィグ婆が叫び。そして──


「うるさーーーい!!」


 アーシェも叫んだ。


「二人とも!どっちも人の話聞かないし!言葉が通じるんだから、話し合えば良いじゃん!なんで争う方向に誘導しようとするのさ!はいはい!戦い終わり!」


 アーシェの一喝に半ば唖然とする目の前の両者であったが、唐突にその間は潰える。

 ──魔女が準備を進めていた、弾けるような魔力が臨界を超えて生じる。


 魔女を中心に、爆発するかの如き黒き閃光が迸った。


 その渦中でフィグフォグルは死すら覚悟し、アーシェは眩む視界に目を伏せ、エドガーたちは必死にその領域から逃れようとするも間に合わずに飲み込まれた。


 ──天頂方向から見れば、ドーム型の黒い半円を描く領域が生じていた。さながら星々から地表を隠すかのような大地を覆うベールであった。


 その中で、アーシェたちは特に何の支障もなく生きていた。


「・・・え?なに、これ?」


「こ、この魔力・・・、なんという、なんという魔力だ・・・」


「黒い。いや、暗いな、星明かりすら届かねえってのに、なんでちゃんと見えるんだ?」


 アーシェは周囲の様子に純粋な疑問符を浮かべ、フィグ婆は壮大な魔力に喘ぐように口を開閉し、エドガーは暗いのによく見えるというよくわからない状況に首を傾げる。


 その中で、魔女は妖艶に笑っていた。


「ようこそ、我が領域へ。──なんてね、ただの目眩しだよ」


 特別なことはしていない。そのような風体を見せる魔女であったが、その落差は歴然であった。それまで、何らかの手法で隠蔽されていた魔女の魔力。それが、唸りを上げるほどの勢いで噴出している。禍々しい魔力を隔てて見る魔女の立ち姿は、フィグフォルグにとって絶望以外の何者でも無い。


「こ、これほどか、魔女とは・・・」


「フィグ婆?大丈夫?」


 身体を震わせるフィグ婆を案じてアーシェがその背中を撫でる。


「アーシェ、お前は、何も感じぬのか」


「えっと、ごめん。なんとなーくはわかるんだけど、フィグ婆みたいに眼に見える訳じゃないからさ」


「・・・そう、か。いや、見えぬ方が良い。あれは、魔女は、化け物だ。人が敵う相手ではない・・・」


 先ほどまでの威勢は既になかった。

 あのフィグ婆が見ただけで戦意を喪失するほどの魔力。だというのに、アーシェの腹部は何の反応も示さない。それが、何かの条件が必要であるからなのか、それとも別の理由か。自分の能力を完全に把握しているとは言い難いアーシェにはわからない事だった。


「くっく。まぁそういう反応になるだろうな。安心しろ、別に殺す気はない。アタシとしては、アーシェに協力してもらいさえすれば、それで目的は果たせるんだ。そんなにビビるなよ」


 やれやれと肩をすくめる魔女がいう言葉に、好奇心に彩られたアーシェが反応した。


「そう、それだよ。結局さ、協力して欲しいって何なの?」


「ん。準備は終えたし、それを話そうとは思うんだが・・・。少しギャラリーが多いな、二人だけで話したかったんだが、また予定がズレたな」


 ガシガシと魔女が頭を雑に掻いた。


「ま、いいか。詳しい話は、二人で話すとしてザッと概要を話そう」


 ──と言っても話せる範囲など決まってるが。

 そう前置きしながら魔女は続けた。


「協力して欲しいってのは、端的に言えば『神殺し』だよ」


『ぶっちゃけ過ぎでは?』


「でも、そう言うしかねーし。だろ?」


『・・・それは、そうですが。その言い方だと──』


「神殺しだと・・・?災厄の魔物ディ・アスターを殺すと言うことか?それともまさか──」


「はっは!それも知ってるのか。っていや、今回は関係ないな。そうだ、その『まさか』の方さ」


 ニヤリと魔女は嗤う。

 つまり、名のある現存する神々を殺すという意味。


「ならん、ならんぞ!それは罷り間違っても成してはならんことだ!魔女め、何を狙っておる?!」


「それは言えんな。言えんよ、アーシェが協力すると決めたなら話すが、二人の時にしか話す気はないよ。だが、話を聞いて貰えば、アーシェも納得するだろう」


「納得・・・!?洗脳の間違いであろうが!!」


「人聞きが悪いな。洗脳だと?アタシがそんな手段に頼ると思われるのは心外だね。第一、そんなことすりゃ、せっかくの魔女の卵が無に帰すだろが」


「・・・魔女の卵?アーシェがか!?」


「別にあんたも、資格って意味じゃ持ってるがね、あと50年若ければだが。・・・そういえば、50年前にも候補者がいたな」


『ああ、あの逃げ出した少年ですか。懐かしいですね』


「・・・50年前?」


 少しの引っ掛かりを覚えたフィグ婆であったが、その思考も途中で閉ざされた。

 エドガーが焦るように言った。


「待て待て!話が急すぎて中身が見えねえ!どうなってんだ!?」


「ほう。なら、冷静にさせてやる」


 ニィと笑みを浮かべる魔女が『証拠を見せよう』と意気揚々と述べた。それはまるで、褒めて欲しい子供が芸を披露しようとするようにも見えたが、魔女というフィルターを通せば、あまりにも禍々しいものに映ったが、アーシェだけが、何のフィルターも通さずに魔女の本当の姿を見通していた。


 魔女は何事かを呟き始める。

 聞いたことはない言葉。

 それでもそれが、魔法を発動させるための言葉であるとアーシェは直感的に理解する。


 そして溢れ出した、肌を突き刺す程に凄まじい魔力。魔力の波という、擬似的な風すら伴う魔女の圧力が発せられた。


 エドガーが、眼に見える形となった魔力に息を飲み、アーシェがゴクリと生唾を飲み込み興奮に瞳を輝かせた。

 食い入るように眺め続ければ、魔女が立ったまま手を地面に翳す。魔力が波打つように地面から湧き上がり、生じる青紫のオーラが渦巻きながら鉱物を生成し始める。柄が現れて、鍔が現れて、刀身が姿を見せた。


 魔力を帯びた、青み掛かった鉄の色。

 剣の形をした物体が魔女に手に握られる。

 造り上げた剣を持ち上げて見回しながら、魔女は少し残念そうな表情を浮かべた。


「まぁ一瞬で作るなら、この程度が限度だな。アタシの専門じゃないんでね」


 言い訳をするように、独語した魔女の握る剣。

 見覚えのある色。質感に材質。

 フィグ婆が苦々しい表情を浮かべ、エドガーがありありと表情に驚愕を浮かべているのが見える。

 アーシェも見た事がある。それは、エドガーの武器の素材だったから。


「まさか、魔鉄イロン!?」


 アーシェの問いに魔女が頷いた。


「そう。魔鉄イロンで作った剣だよ。純度100%だぞ?・・・まぁ見てくれはあまり良くないが」


 美女の言うように、少し歪な形をしている。

 真っすぐではないグネグネと曲がった刀身。

 鍔も左右対称ではない。

 柄も少し反っている。正直に言えば、鍛冶を覚えたての新人が作ったのかなと思うような出来だった。


 だが、それでも魔鉄イロンである。

 正確な価値はアーシェも知らないが、安いものではないはずだ。何せ魔鉄イロンの武器は戦士団の中でエドガーしか持っていなかった。

 元Bランク冒険者であるエドガーが武器の素材として選ぶほどの代物のはず。今は、もう壊れてしまったので村には一つも、いや。領主様なら持っているかもしれないが、少なくともアーシェが知る限りはない。

 

 そんな貴重品である魔鉄イロンを、魔女がこともなげに手に持ちながら言った。


「やるよ、アーシェ。プレゼントだ。さっきは剣で困ってただろ?」


 先ほどの赫怒種タウロスとの戦いで武器に不満を覚えてしまったのは記憶に新しい。主神の大槍グングニルは借り物であるし。魔法金属の武器。それが手に入るとなれば。


「いいの!?ありがとう!」


 ──アーシェが瞳を輝かせるのも無理はなかった。


「「アーシェ!!?」」


 フィグ婆とエドガーの叫ぶ声にも耳を貸せず、つい咄嗟にアーシェの手が伸びて魔鉄イロンの剣を受け取った。

 手に握る感触。魔力を通した反発のなさ。剣に宿る魔力量の芳醇さ。形が歪なので慣れるまで時間が掛かるかもしれないが、それを補って余りある性能だ。

 アーシェが興奮のあまりに瞳をキラキラと輝かせていれば、今まで以上に厳しい視線がエドガーから飛んできた。思わずアーシェはギョッと固まって、保護者の視線に向かって誤魔化すように笑った。


「あ、あはは」


「ったく、無警戒にも程があるぞ・・・。タダほど高いもんはねえって言うだろうが」

 

「アタシとしては、むしろ願ったりなんだがね。弟子になればいくらでもくれてやるし、こんなもので借りにするつもりはないよ」

 

 首を横に振りながら魔女は言い、笑って見せた。


「──で。証拠にはなったと思うが、強引に排除するのは趣味じゃない。自主的に出ていってもらえないか?」


 魔女が指差すのは、黒い膜の外側だった。


「・・・わたしゃでは、何の役にも立てんのは理解した」


 顔を伏せながら、未だに震えの鎮まらない腕を掴み抑えるようにしながらもフィグ婆は立ち上がる。


「だが、アーシェは村を救った功労者。未来のある若者なのだ。わたしゃの命一つで救えるのなら、躊躇する理由もない」


「ほう、やる気か?」


「婆さん。付き合うぜ」


「・・・度し難いな。アタシが、邪魔者を殺さないとでも思っているのか?」


 その声に応えるのは無言だった。

 澄んだ、決死とも呼べる瞳を宿しながら、二人の大人は立っていた。


「・・・失礼した。アタシも敬意を表して、『全力』で戦おう」


 だらりと垂らした左手を、魔女は自身の隠された左目に添える。

 魔女の一挙動を持って枷が解かれる。これまで見せていた魔力が、児戯であったに等しい桁外れの魔力が魔女から噴出する。


 可視化された凄まじい魔力にすらアーシェの腹部が反応を示さない。

 何故反応しないのか、それを考える余裕はアーシェには与えられていなかった。


「──待ってってば!戦う理由なんてないじゃん!」


 アーシェが両者の間に割って入って掌を双方に向けるが、もう、そんな問題ではなくなっていた。


 ここで、自分たちが死ねばアーシェが魔女に与することはない。

 半ば確信するフィグフォルグとエドガーは命を捨てるつもりですらあった。


 対する魔女は、命すら懸けるのであれば受けて立つ心算であった。

 覚悟を無意にするほど野暮ではないと言うかのように、その身から正真正銘の本気の魔力を漲らせ始めていた。


 ──その、尋常ではない魔力を肉眼で正視して、アーシェの脳裏に巡ったのは全く関係のない事だった。


 思考は巡り巡って考える。

 ──何故、彼女は名乗らなかった?『正直な人』という印象が正しいなら、名乗れない名前だという事。


 アーシェを手籠てしまうなら、『魔女』なんて名乗らない方が魔女にとって都合が良かった筈だ。なのに、彼女はそうはしなかった。

 

 ──それは、何故?

 

 感情を排し、効率しか求めず、冷酷無比と歴史上で語られる魔女の印象との乖離。

 この土壇場で、アーシェの脳裏を巡るのは疑問ばかりだった。 


 魔女の瞳を見る。

 まるで、慈悲すら滲ませる両眼を見取ってアーシェの脳裏に閃いたのは一つの可能性だった。


 ──もし、アーシェの腹部の感応が、『殺意の込められた魔力』にしか反応しないとすれば。

 魔女にフィグ婆とエドガーを殺すつもりなどないのかもしれない。

 彼女の言葉が蘇る。

『アタシも敬意を表して、『全力』で戦おう』


『神殺し』をするとまで言ってのけた人が、そんな言い方をするだろうか。

 これはアーシェの願望なのかもしれない。けど、そうであったらいいなと過ぎる思考。


 もう一度、同じ疑問が巡った。

 ──何故、魔女は名乗らなかったのか。


 あともう少し、もう少しで答えが見えそうな気がする。

 彼女の言葉に何か違和感がある。重要なことをまだ見逃しているような──、それ故の躊躇を見せるアーシェの前で。


 ──赫怒種タウロスの大口が美女を吞み込んだ。


「・・・え?」


 美女の背後から襲い掛かったのは、死んだと思っていた赫怒種タウロスだった。

 美女の姿はもう見えない。

 代わりに、あの赫怒種タウロスの凶悪な顔面が聳えている。


 魔女の放っていた、恐らくはアーシェを凌駕するほどの魔力。

 赫怒種タウロスがそれに惹かれて死の淵から蘇って食らった。


 その事実だけが理解できた。

 呆気ない魔女の死に際に動くことすら出来なかったアーシェの前で、再び時が動き出した。


 鳴動するような、凄まじい地鳴りのような魔力が放出される。

 先ほどの比ではない。まるで『大海』を思わせる、『抑え切れなかった』と言わんばかりの、骨身から痺れるほどの魔力圧が空気を震わせる。発信源は目の前。赫怒種タウロスの口の中から、発せられていた。


『・・・この、アタシを・・・。こともあろうに、神から堕ちた貴様らが喰うだと・・・?』


 魔女の声だった。

 苛立ちと激情の乗った周囲の温度を下げるような声が、くぐもった音が、赫怒種タウロスの口内から響き渡る。


『そんなに死にたきゃ、殺してやるよ』


 ──消滅シーラ


 一声と共に、球体の黒い膨大な魔力が生じた。

 その光景は一つの伝説を思い起こさせる。


 球体を描いて広がる、黒色の力の奔流はあらゆるものを飲み込み──。

 文明を、崩壊させた。


 ゆらりと、消失した黒い球体の中から姿を現したのは魔女。

 消滅の魔法を使った、魔女。


 知っている。誰でも、知っている。

 彼女の名を知らない者は居ない。

 

 赤髪赤目。隻眼たる異形。

 伝説に語られる忌むべき災厄の魔女。


 魔法族をその手で滅ぼした、最も罪深き魔女。

 ──『はじまりにして永遠』の対を成す『おわりにして原罪』。


「ははは。また予定が狂ったが・・・、まぁそういう訳だ」


 少しの間を開けて、魔女は続けた。


「アタシの名は『シーラ』。二つ名は消滅」


 かつて討伐された筈の極悪人が、悪びれもせずに優雅なカーテシーを見せながら妖艶に嗤った。


「諸君。どうぞよろしく」


 ──消滅の魔女シーラSheila the witch


 ──彼女が、名乗らなかった理由。

 カチリと、最後のピースが嵌った。



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