Aランク




「こんばんは。良い夜だね」


「ブモぉぉォォ!!」


 二つの月が燦々と照り付ける中。

 剣を携えるアーシェが、開けた森の中心で迎え撃つ。

 彼女の眼前に聳える巨大な身体の赫怒種タウロスが、少女から香る芳醇な魔力に歓喜の嘶きを上げた。




 アーシェが赫怒種タウロスと対面するよりも、ほんの少し前。

 エドガーが信じられないと表情に出しながら叫んだ。


「──森に誘導するだと!?」


「うん、それしかないよ。このままだと防壁が壊される。そうなったら、この村は終わりだもん。でしょ?」


「それは、そうだが」


 うなるように悩むエドガーに、腰に剣を付け準備を終えたアーシェが笑いかける。


「大丈夫!わたしは死なない。・・・だからね、エドガー。時間は稼ぐから、何か策を考えて欲しい。フィグ婆が呼んでるから、手伝ってあげて」


「……わかった。任せておけ」


「──あんまりに遅いと、わたしだけで倒しちゃうからね?」


 冗談染みた笑みを浮かべて言ったアーシェに、エドガーが苦笑いで返した。

 土壇場での冗談は余裕の証。例えそれが意図したものであっても、意味までは変わらない。

 エドガーはそう受け取った。




 ──場面は戻る。


 赫怒種タウロスに相対しながら、アーシェの思考は冷静だった。

 聳えるような大きさを誇る赫怒種タウロスを如何に討伐すべきか、めぐる思考は止めどない。

 これが平常の状態であるのか、膨張している状態であるのか。


 アーシェの中では答えが出ないが、その実は簡単だった。


 どちらも正解である。

 赫怒種タウロスはAランクになれば、無理なく常時膨張が可能になる。

 それを徐々に徐々に身体に染み付かせる事によって、年月を経るごとに加速度的にデカくなる。

 その大きさの最大値は魔石の大きさに依る。


 つまり、Aランク以上の赫怒種タウロスと対面するのなら、基本的に山のような巨人と闘う事となる。


 アーシェにそんな知識はない。

 だが、感覚で理解した。


 目の前の見上げるほどの巨大さを誇る赫怒種タウロスは、先日とはまるで違う存在と言って良い程の化け物だと。


 ──そして、その胸には一抹の不安があった。


『かつて神々と呼ばれた存在』

 今この時もアーシェの脳裏から離れない。

 憤怒を抱くこの巨人は、本当に神々だったのだろうか。


「あなたは、神様ですか?」


 問いかける言葉は空虚に溶けた。

 目の前の赫怒種タウロスが、アーシェの疑問に答えてくれる知能は持っていない事だけが確かな事として存在している。

 胸のシコリは、こんな場面になってもアーシェの中に苦く残り続けていた。


 これではいけない。戦いに集中せねば、油断して戦える相手ではない。

 息を吐いて、気持ちを切り替える。

 パンパンと顔を叩いた。


「時間を稼ぐ!そう、今はそれだけ考える!」


 アーシェとしては、十分に可能だと思っている。

 それでも眼前の巨人の如き赫怒種タウロスを見て怯む気持ちがないと言えば嘘になるが、致命傷を避けつつ、時間を稼ぎながら有効打を蓄積させる。

 先日の赫怒種タウロスとの戦闘経験からザッと討伐までの道筋を脳裏で形づくり、アーシェは息を整えた。


 準備を終えて剣を構えるアーシェの目の前で、防壁を凌駕するほどに巨大な身体を俊敏に動かす怪物が戦いの始まりを告げるように爆音で吠える。


 応えるように、アーシェは全力で魔力を解放した。三日前の比ではない、隔絶した魔力が迸ったが赫怒種タウロスに怯む気配はない。

 むしろ美味そうな魔力に食欲が唆られると言わんばかりにペロリと唇を舐めた。


 逃げ続ける事も考えた。

 でも、それではあまりにも情けないという心情的な理由。そして、一つの場所で戦い続ける事で援軍の目指す場所を固定するという戦術的な意味合いも込めて、アーシェはこの場で戦うと決める。


 挑むように赫怒種タウロスを見据える少女の瞳が翠色に輝き、魔力で強化された脚力を持って尋常でない速度で駆ける。

 少女がつるぎを片手に握りながら、赫怒種タウロスの巨体に向かって躍り掛かった。




 踏み出すアーシェの一歩は地を割った。

 ヒビ割れ陥没する地面から推進力を得て、アーシェは凄まじい速度で跳び上がる。

 赫怒種タウロスはあまりにも巨大。故に足元がガラ空きだった。


 魔力を纏わせた刃が赫怒種タウロスの足の皮膚を撫でる。

 黒い体毛で覆われる脚は、しかし『無傷』であった。

 アーシェは驚きに目を瞠りながら、足元で小さく移動を繰り返して撫で斬り続けるも、やはりダメージは与えられない。


 ──フィグ婆の言っていたことは本当だった。

 Bランクの赫怒種タウロスならば通っていた攻撃が効かない。

 それは時間を稼ぐ上で致命的であるとすら言えるし、アーシェが最も攻撃力の高い戦闘員であるのだから、今後仲間たちと合流して赫怒種タウロスを討伐することを考えれば、今のうちに何か突破口を見つけておきたい。


 アーシェがそう思考するのも自然な流れだった。

 何かないかと探りながら、めまぐるしく戦いの中でアーシェは戦闘に没頭する。


 小さく動き回るアーシェを捉える事は難しい。赫怒種タウロスと比較すれば指先ほどの大きさしかないアーシェである。そんなアーシェを赫怒種タウロスが捕まえるのは容易ではない事だ。


 だが、赫怒種タウロスは巨大化したことで圧倒的な質量を得ている。

 巨体に似合わぬ敏捷さで、楽しげに嗤いながら身体を前傾させて、2本の手も使って両手両足の地団駄を踏み始める。

 ただの掌や足の裏が必殺の攻撃になる悪夢のような地表で、凄まじい地鳴りと砂煙が舞う中をアーシェは掻い潜り続ける。


 逃げることしか出来ない。

 ここまでの体格差が生まれてしまえば、例え攻撃が通ったとしても剣で致命傷を与える事は難しいだろう。


 指先ほどのサイズの小人が人間にまち針で戦いを挑むようなもの。

 そう表現すれば無謀さがよく分かる。


 むろん、剣が崩壊するほどの一撃を放てば別かもしれないが、それは奥の手。今使うべきではないのは明白だ。

 歯噛みする中で、アーシェが次に狙ったのは眼球だった。

 さしもの赫怒種タウロスと言えど、眼球ならば攻撃が通るだろう。

 避け続けながら、何とか頭部に登れないかと突破口を探るアーシェに好機が訪れた。


 地団駄に夢中になりすぎた赫怒種タウロスの頭部が降りてくる。

 ──巻き上がる砂埃が小さなアーシェを隠すことによって生まれた隙だった。砂埃の中からアーシェを探そうとする赫怒種タウロスの首がキョロキョロと動く。


 その隙を見て、アーシェは速度を一段上げる。

 腹の底から湧き上がる魔力を唸らせて、全力で体内から魔力を廻す。

 脚部に強い魔力を纏わせて、一瞬のタイミングを見計らって赫怒種タウロスの腕に飛び乗り駆け上がった。


 地表の煙を抜けて、腕を伝いながら頭部に目がけて姿を現したアーシェの姿を認めて、赫怒種タウロスは一層の楽しげな笑みを浮かべる。

 だが、それは純粋な笑みというよりも、嗜虐的な悪趣味な笑みだった。


 デカいとは、それだけで強い。

 事実をまざまざと見せつけるように、口腔こうこうを開いた赫怒種タウロスの大音量の咆哮が至近距離でアーシェを襲った。



 鼓膜の防御など、今まで考えたこともない。

 空気を震わせる振動が凄まじい衝撃を持ってアーシェの脳内を揺さぶる。

 視界が眩み、眩暈を覚える。思わず両手で耳を覆ったアーシェを責める事は出来ない。


 動きを止めたアーシェに赫怒種タウロスの手が伸びた。

 アーシェが駆け上がっていたのは左腕。当然のことながら、伸びてくるのは右腕だった。

 掌がアーシェを掴まんと五指を開いて近づいてくる。

 攻撃ではない、無造作な掴む動作。

 赫怒種タウロスの油断とは言えないだろう。それだけの動きが、巨大で尚且つ素早い。アーシェを食うならば最善の行動だった。


 だが、耳は塞いでも、瞳は見えている。


 アーシェは奥歯を噛み締めて残響に堪えながら、襲い掛かってくる巨大な右掌から逃れて跳ね避ける。

 避ける方向は、当然のことながら前だ。


 前進あるのみ。


 再び腕の上を駆けながら服を破って魔力を纏わせて耳に詰めるが、効果の程はわからない。

 二度目は喰らわないと、意識的に耳に魔力を集めて対処しつつアーシェは駆け抜ける。


 咆哮は止まっていた。

 だが、アーシェが懲りずに再び駆け上ってくる姿を視認した赫怒種タウロスが口内を見せる。


 予期する衝撃に身構えたアーシェに再び音圧の波が襲い掛かる。

 耳に魔力を集中させた効果もあってか痛みはない。だが、耳鳴りのような頭痛には変わらず苛まれた。


 完全には防げない音という攻撃を前にしても、その最中をアーシェは駆け抜ける。

 眉を顰めて歯を食いしばって、ロングソードを握って走る。


 目指すは眼球だが、見上げるような高さにあった。

 赫怒種タウロスの顔に足を掛けて理解する。そこに至るまでの距離が意外にも遠い。元々わかっていた事だが、実際にいざ登るとなって、その困難さが一層浮き彫りになった。


 絶壁を登頂するような心地。

 加えて、赫怒種タウロスの両手という、突風の何十倍も危険な障害物を掻い潜りながら、眼球という登頂目的を目指して進む必要がある。あまりにも危険。現実的ではない。


 だが、それでも狙うべきだ。

 この段階で片目だけでも潰せれば大きなアドバンテージになる。成功した場合に赫怒種タウロスに警戒されるであろうが、時間を稼ぎたい今はその警戒は歓迎すべきものだ。

 赫怒種タウロスが及び腰になれば、より楽に時間が稼げる。


 次点として鼻を狙う事も考えたが、さすがにサイズ的に入れない。

 赫怒種タウロスを人間と見立てたなら、比率として、掌の小指くらいの大きさがアーシェだった。


  腕くらいは差し込む事が出来るかもしれないが、その後に繋がらない。多少の痛みを与えるだけに留まって中で詰まって引っ張り出されるか、鼻息で噴出されるのがオチだ。

 

 口を狙うのもリスクが大きすぎる。

 舌に歯、咆哮を口内で喰らえばひとたまりもない。異臭漂うあの中に入る忌避感も確かにあるが、リスクを考慮した正常な判断だとアーシェは思う。


 改めて眼球へと目標を定めて突き進むアーシェの前に、またしても立ち塞がるのは赫怒種タウロスの両手。

 さすがにウザがっているのか、表情に笑みはない。

 眉を顰めて、顔全体を両手で洗うような仕草を見せる。


 一気に登るか、離れるか。


 二択の問題。

 アーシェにもう一度このチャンスがあるかわからない。

 時間を稼ぐべき盤面。無理をすべきではないという考えはあるだろう。

 今回は仲間たちもいない。フォローは期待できない。

 隙を見せれば、それが即ち、アーシェの死だ。


 ──それでも。


 恐怖を内包しながら、それでも進む。


 空中に身を躍らせる。

 赫怒種タウロスの両手が顔を洗う。指の隙間にある袋に足を掛けて、一歩を踏み出した。

 高く舞い上がったアーシェの視線と、洗う時に一瞬閉じて、そして再び開かれた赫怒種タウロスの眼差しが至近距離で対面する。


 交錯する一瞬の間。

 確実に攻撃が通ると確信する時間を経て、アーシェは赫怒種タウロスの瞳に思い切り、魔力と体重を掛けながら剣を差し込んだ。


 けれど。


 ──キィン。


 硬質な音が鳴る。


「──嘘・・・でしょ・・・」


 滑っていた。

 瞳の上を、剣が、滑っている。


 有り得ない光景。

 鉄の剣が、眼球に弾かれるという理解不能な事態。

 目を見開いて動きを止めてしまうアーシェ。


 剣の切先を真正面から見てしまった事で、本能的な恐怖から大きく顔を背けた赫怒種タウロスの、力の入らない『ハタキ』の一撃がアーシェの総身を横から打った。


 身体中の空気が口から漏れ出るような衝撃の中で、地面を鞠のように跳ねながら、それでも剣は手放さず、地を削って衝撃を吸収し体勢を立て直したアーシェが、獣のように四足で地面を抉りながら止まった。


 顔を上げた、アーシェの見上げる視線と表情は厳しい。

 険しい表情のまま、口からブッと赤い血液を吐き出す。


「・・・眼球にすら、攻撃が通らない・・・」


 想定外。

 あまりにも規格外。

 Aランクの頂点に立つ種族を、甘く見ていた。


「──Aランク。・・・化け物、だね」


 慢心があったかと言われれば、悔しさを滲ませながら頷くより他ないだろう。

 あのBランクの赫怒種タウロスですら、枷を外したアーシェを前には赤子のようなものだった。

 だというのに、たった一つランクが上がるだけで、ここまでの差が生まれるものなのか。


 ・・・心当たりは、ある。


 悔しげに見るのは手元の剣。

 愛用してきた型のロングソード。

 支給品で、特に銘もない。同じ型の物を壊れる度に交換して使い続けてきた。先日の赫怒種タウロスとの攻防でも壊れたが、また同じ造りのものを受け取っている。

 一流は武器を選ばないと聞くが、それでもフィグ婆の言う通りなのかもしれない。


「・・・武器のせいにしたくない」


 それでも思考には過ぎってしまう。


 噂に聞く聖白銀ミスリル聖黄金オリハルコン

 聖赤金ヒヒイロカネ聖黒鉄アダマンタイトなら。


 そこまで行かなくてもエドガーが使っているような、魔鉄イロンなどの魔法金属の類なら。

 もしかすれば斬れたのではないか、そう思わずに居られない。


 だが、無いものを強請ねだっても仕方がない。

 今あるものでどうにかしなければ。


 ふーっとアーシェは大きな息を吐いた。

 様々な感情が渦巻く胸中の全てを捨て去るような吐息。


 先ほどの交錯で、赫怒種タウロスは頭部への警戒を強めるだろう。

 つまり、アーシェの警戒を誘うという最低限の狙いは果たした形だ。けれど、力の入っていない張り手といえど、あの巨体からの攻撃をモロに受けてしまったアーシェの体調は万全とは言えない。

 骨の節々がギシギシと痛む。

 内臓の一部も衝撃で無事かわからない。


 状況は不利。


 それでも戦いの最中に身体をかえりみれば負ける。

 命を振り絞るように、アーシェは再び駆け回る。


 あまりにも絶望的な戦いは、まだ始まったばかりであった。


(──エドガー、任せたよ)


 己の役割を全うするために。

 仲間を信じて、アーシェは駆ける。




「──急げ!!」


 巨躯の身体を存分に生かして、資材を運び込むエドガーの額には汗が滲んでいた。

 積み重ねられる木箱には作られたばかりの『赤い球』がこれでもかと盛られている。


「言っとくけどね、お前さんが無理言うから、有り合わせで作ったんだ。無茶な使い方すれば自爆するよ」


 ブスッとした表情に、長い杖を持って若草色のローブを纏う老婆。刻まれる年輪はシワとなって歴史を感じさせる。この老婆に関して言えば、その年輪は即ち薬学の知識に直結している。彼女が、村唯一の薬剤師であるフィグ婆だった。

 普段から厳しい顔を、今日は三割り増しで厳しくして眉間にたくさんの皺を作っていた。


「ああ、婆さん。わかってる。それに、大半がド素人の作った球だ。そんな保証は求めちゃいねえさ」


 エドガーが首を振りながら言うのは当たり前の事実だ。

 薬師はたった一人。であるなら彼女には調合に集中してもらって、作った薬剤を『赤い球』に詰め込むという、素人でも出来る仕事は村人に振り分けた方が効率が良い。

 役割分担をした結果として、制作過程に素人の手を借りるのも仕方がない部分があった。


「ふん、ならいいけどね。・・・赫怒種タウロスにアタシ特性の調合が役立つのか、確かめとくれよ」


「任せてくれ。しっかりと、目ん玉にぶち込んでやるさ」


 男気溢れる笑みを浮かべて、エドガーが『赤い球』と、その脇にある数少ない『黒い球』に手を置いた。




「──さて。それじゃあ、わたしゃ最後の大仕事に掛かろうかねえ」


 そう言って、フィグ婆はその足を館へと向ける。

 ただの村落であれば、この老婆が在中することはなかっただろう。


 フィグフォルグ。『大槍』の、そして『吼ゆる者モース』の二つ名を与えられた、元Sランク冒険者である。

 本来であれば国の貴賓として招かれていてもおかしくない功績と実力を兼ね備えた傑物であった。

 むろん、性格の不一致などで国から距離を取った可能性は考えられるが、此度に関しては異なった。そもそも、『距離を取ってなどいない』のだから。


 今は老化によって色褪せた灰色の髪も、燻んだ黄土色の瞳も、彼女の元来の色とは異なる。──かつての全盛期。彼女は瞳と髪を金色に輝かせていたのだから。

 領主の一族。『今は』そうとしか呼ばれぬ同胞たちに会うために、フィグフォルグは領主の館へと足を進めた。

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